シリーズ『くすりになったコーヒー』


 癌になる原因の1つに「正常な遺伝子の変異」があります。遺伝子の変異は細胞が分裂するときに起こるので、盛んに分裂している細胞ほど変異の確率は高まります。


●細胞の分裂・増殖・成長を促す上皮成長因子(EGR)とその受容体(EGFR)がある。

 図1のように、この2つの因子が細胞の表面で合体すると、その刺激が信号(シグナル)となって、細胞内を伝わって、最後に核に届くと、遺伝子に向かって「分裂しなさい」とか、「早く成長しなさい」とか、いわば命令シグナルを伝えるのです。するとそのシグナルに応えるように、遺伝子が働き始めて、分裂や成長に必要なタンパク質を作ります。このようなシグナル伝達経路の中で、中心的な役割を果たしているのがRASタンパク質です。



 RASはヒトの一生の間の必要なときに必要な量だけ働くのですが、その仕事量をコントロールしているのがEGF/EGFRだと考えられています。EGFは全身の体液中に分布していて、特に唾液中に含まれている量が多いと言われています。一方EGFRは全身の細胞の表面に分布しています。ヒトが怪我をすると、新しい皮膚が出来て元の状態に戻ります。するともうそれ以上の皮膚はできなくなります。これがEGF/EGFRによるコントロールの結果です。筆者が子供の頃、ちょっとけがをしたときに、「舐めておけば治る」と言われましたが、昔の人の知恵は大したものだと感心してしまいます。


●RAS遺伝子に変異が生じると、RASタンパク質にも変異が生じて、勝手に振舞うようになる。

 タンパク質は遺伝子が持っている暗号によって作られますから、その遺伝子が変異すれば、変異したタンパク質ができてしまいます。図2をご覧ください。変異したRASタンパク質の特徴として、EGF/EGFRからのシグナルがなくても自分勝手に細胞増殖シグナルを発信するという性質があります。上位からの制御を受けないために、変異したRASのシグナル発信は長時間(長期間)に渡って止まることなく、その結果、細胞は増殖を繰り返して、やがて大きな塊(癌組織)に育って行くのです。



●RASタンパク質にはKRAS,NRAS,HRASの3つが知られていて、変異KRASの研究が進んでいる。

 多くの癌患者でRAS遺伝子の変異が起こっています。KRAS遺伝子の変異は膵臓癌の95%以上、非小細胞性肺癌その他でも見つかっています。NRAS遺伝子の変異は皮膚癌(悪性黒色腫)や多発性骨髄腫で見つかります。HRAS遺伝子の変異は稀ですが、膀胱癌や甲状腺癌の症例が報告されています。


●KRAS阻害薬が非小細胞性肺癌の薬になった。

 今年の春、RAS阻害薬として初の医薬品が承認されました。アムジェン社のKRAS阻害薬ソトラシブ(商品名ルマケラス)です。この新薬の適応はKRAS変異のそのまた一部の肺癌で、添付文書によれば、「癌化学療法後に増悪したKRAS・G12C変異陽性で切除不能な進行・再発の非小細胞肺癌」ということです。他に治療手段のない患者にとっては福音です。図3はソトラシブの化学構造と、それがKRASに結合するときの分子模型を示しています。



 では、コーヒーとKRASの関係を見てみましょう。先ずは最初に発表された論文を紹介します。


●KRAS遺伝子に変異のない膵臓癌患者は変異のある患者よりもコーヒーの摂取量が有意に少なかった(詳しくは → こちら )。

 1999年に発表されたこの論文によれば、調べた膵臓癌患者の94%でKRAS変異が起こっていて、コーヒーを飲む量が少ないほど、変異するリスクが低いとのことです。つまりKRAS遺伝子は、毎日コーヒーを飲む人よりもたまに飲む人の方が変異を起こす頻度が低くて、発癌リスクが高いというのです。これがこの論文の結論ですが、著者はこうも書いています・・・コーヒーを飲むことに関連するその他の要因(交絡因子)が、結論に影響している可能性がある。

 その後2017年になって、この疑いを晴らすかのような論文が発表されました。書いたのは慶応大薬学部の田村悦臣教授です。


●新発見:コーヒーにはKRAS阻害効果がある!(詳しくは → こちら )。

【実験】焙煎したコロンビア産アラビカ豆の8gを95℃の湯140mLで抽出し、水分を蒸発乾固して残渣の重量を測ってみると、コーヒー液1mLに8.4㎎の成分が入っていました。そこでこのコーヒー液の濃度を100%と定めました。次に、このコーヒー液を20倍に希釈して5%液とし、これを使ってヒト結腸癌細胞(Caco-2細胞)を培養して、細胞中のKRAS濃度の時間変化を24時間測定しました。

【結果】実験開始時点の濃度を1とすると、培養6時間で0.5以下に低下し、24時間経っても作用は持続していました(図4左)。また、コーヒー液の濃度を更に薄めて、1%(100倍希釈)とした実験でも、KRASは0.85低下して、その後は濃度3%で最低値に達しました(図4右)。



 この図が示すように、20倍に希釈したコーヒー液のKRAS抑制効果は、6時間後に50%以下に低下し、その後24時間まで持続していました。一体何がそんなに効いたのでしょうか?コーヒーの成分を培地に添加して実験しても、カフェインやクロロゲン酸に効果はありませんでした。次にヒントにしたのは「深く焙煎すると作用が強くなる」ということでした。しかし深煎りのニコチン酸やカテコールなどに作用はなく、未知の成分を探る以外に方策がなくなりました。すると、


●KRAS発現を抑制する深煎りコーヒーの関与成分はマイクロRNA(miR)だった!

 これは実に驚くべき発見です。miRとは、20-25個のリボ核酸塩基がつながった構造で、現在約2000種類が見つかっています。その主な働きは「遺伝子の発現を調節している」ということから、抗癌薬としても使えるとの考えで、創薬分野で盛んに研究されています(詳しくは → こちら )。

 田村教授の実験では、コーヒー液で培養した癌細胞から2種のmiR(miR-30cとmiR-96)が検出されました。どちらも培養開始3時間後に最大値を示し、12時間後に元に戻ったのです(図5のAとB)。そしてコーヒー液の濃度を0.5%(200倍希釈)にしても作用があり1%でほぼ最大値に達していたのです(図5のC)。



 図4と図5を見比べながら更につけ加えれば、3時間でmiRが増えて、6時間でKRASが減ったという時間差から、miRがKRASの発現を抑えたと考えることができそうです。しかし残念ながらその後の研究は、田村教授の定年退職で途絶えてしまいました。しかし、「世界は広い」と言われるように、田村教授の研究の続きと思えるような論文を、トルコの研究者が今からほんの1か月前に発表してくれました。


●深煎りコーヒーにはmiRを封じ込めたエキソゾームが溶けている(詳しくは → こちら )。

 これもビックリするような論文です。エキソゾームとは、細胞が放出するカプセル状の顆粒で、中に様々な「メッセージ物質」が詰まっていて、その1つがmiRなのです。昨年11月に、NHKスペシャルの「人体」で紹介されたとき、アカデミアの大きな期待が濃縮された小さなカプセルという感じでした(詳しくは → こちら )。国立がん研究センターはエキソゾームの医療への応用について取り組んでいます(詳しくは → こちら )。

 さて、ここで紹介する論文はトルコの首都アンカラにある小児病院の研究者が書いたものです。筆者が驚いたのは、「コーヒーがこれほど効くわけは、エキソゾームを含んでいるからに違いない」と単純に考えて実験をしてしまうセレンディピティ―の鋭さです。論より証拠と言いますから、論文に載っている2枚の写真を見てください。



 この写真に写っているコーヒーのエキソゾームには15種類のマイクロRNAが入っているそうです。それを知った著者が次にやった実験は、ヒト肝臓癌細胞の培養液にコーヒーを加えることでした。すると思っていた通りに癌細胞の増殖が抑制されたのです。では、この論文に書いてある15種類のmiRの中に、田村教授が見つけた2つのmiRは入っているでしょうか?残念ながら筆者にはその判断ができません。確かに言えることは、コーヒーの疫学研究で示唆されている、少なくとも結腸や肝臓などの発癌リスクの低下は、コーヒーに含まれているか、またはコーヒーで誘導されるmiRと関連がありそうだということです。


●コーヒーが臓器発癌リスクを下げるという疫学データの説明にエキソゾームのmiR説は有力である。

 この関係を図7のように表現してみました。そう遠くない将来にコーヒー・エキソゾームが、癌の予防薬や治療薬になるかも知れません。その時は恐らく牛乳入りのカフェオレやカプチーノの人気が高まると思われます。何故なら牛乳はエキソゾームを多く含む飲み物だからです。



●ミルク(牛乳)のmiRについては酪農科学シンポジウム2019で発表されたレビューをネット閲覧できます(詳しくは → こちら )。

(第486話 完)