シリーズ『くすりになったコーヒー』
謹賀新年
2008年の12月に始めたブログが10年目を迎えました。書き続けたことも驚きですが、この間のコーヒー事情の激変には目を見張るものがありました。年頭に当たり振り返ってみたいと思います。十年一昔の足跡を記憶することが、次の10年に向けての心構えになりますから。
10年前のコーヒー事情といえば、コーヒーはコクと香りがすべてであって、病気を予防するなどと聞いたことはありませんでした。病気になって医者にかかると「体に無駄な負担がかかるから止めなさい」と言われました。しかしその裏側で、コーヒーと病気の疫学研究が進んでいたのです。
2002年、オランダの疫学者ファンダムが、毎日のコーヒーが2型糖尿病になるリスクを下げるとランセット誌に書きましたが、反響は大きくありませんでした。その後ハーバードへ移った2006年に総説論文「コーヒーと2型糖尿病―豆からβ細胞まで」を発表し、翌2007年にはカロリンスカのウォルクが肝臓がんとコーヒーのメタ解析論文を発表しました。10年前のこれらの論文のお蔭で、一般人も「コーヒーと健康」に気づき始めました。
同じ年国内では、コーヒー疫学をまとめた拙著「珈琲一杯の薬理学(医薬経済社)」が出版されました。題名の妙からか発売直後から評判を呼び、雑誌の取材や講演依頼が舞い込むようになりました。そしてその年の暮れ、天声人語(朝日新聞)が「コーヒーの肝臓がん予防効果に厚労省が太鼓判」と大袈裟に書き立てました。ようやくコーヒーを見る世間のまなざし、というよりも研究者のまなざしに大きな変化が起こったのです。
メディアの関心が更なる研究に拍車を掛けました。研究者は切磋琢磨し、5年後の2012年「コーヒーを飲んでいると寿命が延びる」という大胆な論文の影響が、疫学以外の医学界に及んだのです。何故ならその掲載誌が医学界で最も権威あるニューイングランド医学誌だったからです。論文を書いたのはこれも世界一の研究機関、米国NIHのグループで、「コーヒーで全死亡リスクが下がる理由は、死亡率の高い疾患で死亡リスクが下がるから」との説明に自信が漲っているようでした。
権威ある医学誌の論文に多くの学術誌が賛同しました。例を挙げてみましょう。ネイチャー誌の解説記事には、ヒト肝臓を描いたマグカップが載りました。セルサイクル誌には、The cup of youthという名の巨大なコーヒーカップが登場し、普通のカップを手にした若い女性の入浴シーンが描かれました(挿絵を参照)。このお風呂に入るとオートファジーが活性化して若返るというのです。そして翌2015年のノーベル生理医学賞に、オートファジーを発見した大隅博士が選ばれたのです。筆者にとって実に印象に残るニュースでした。
コーヒー事情の変化はまだまだ続きました。大きな転換期となったのは、国際がん研究機関の驚くべき発表で、2016年6月のことでした。それまでコーヒーは喉頭がんと食道がんの原因となっていたのですが、本当の原因は65℃以上の熱い飲み物であると訂正されたのです。訂正は他にもありました。肺がんと膀胱がんは「コーヒーで発がんするかも知れない」となっていたのが、実は喫煙歴の交絡を消し切れていなかったのです。そして、コーヒーはすべての臓器がんにおいて原因ではないとの太鼓判が押されたのです。
この発表にはメディアも学会も素早く対応しました。特に印象に残ったのは、発表から3か月後の9月、NYタイムズ紙が書いたコーヒー・マインドフルネスの記事でした。その内容は、まだコーヒーの効果がはっきりしていなかった2008年に出版された「禅とコーヒー(チャドウイック著)」からの引用でした。コーヒーを飲みながら深く瞑想することが心身に健康を齎すというのです。
最後に、コーヒーを研究している専門家の動きも見逃せません。10年前には誰も書かなかったコーヒーの勧めを、「コーヒーの疾患予防効果を患者にどう説明するか」というような表題の解説論文が書かれるようになったのです。その傾向は2017年に加速しました。筆者が知る限りでも、カナダ、米国、フランス、ドイツ、オーストラリア、オランダ、ポーランド等々の著名な研究者が、自らを諭すように論文を発表しています。
このように、過去10年のコーヒー事情の変化は凄まじいものでした。そのお陰で健康人対象の疫学研究は終りつつあり、2017年の論文数は減少しています。代わりに、病気に罹った患者が飲むコーヒーは良いのか悪いのか・・・患者だからこそ毎日コーヒーを飲み続けたい・・・そんな思いに応えるような論文が見られるようになりました。コーヒーと健康の研究は、新たな時代に向けて着実に舵を切ったのです。
(第336話 完)
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