意図せず祖父の後追う
秋吉氏は57年、東京都葛飾区で製紙会社勤務の父と専業主婦の母との間の長男として生まれた。4歳違いの姉がいる。同じ年に九州大学工学部に応用化学科から分かれた合成化学科が誕生した。創設したのは父方の祖父(三郎氏、61年まで教授)だった。秋吉氏が2歳のとき、父は福岡県へ帰り、その後、北九州市で特定郵便局長になった。
秋吉氏は、私立明治学園中学校へ進んだ後、県立小倉高校へ入った。76年、高校時代に興味を持った化学を勉強したいと思い、九大工学部合成化学科へ進学した。
教養課程の2年間をノンビリ過ごし、3年生で学部の講義が始まってから大変な所に来てしまったと思った。教授が全員、祖父のお弟子さんで、一挙手一投足を注目されていると感じた。
青山安宏助手(当時、後に京大教授)の学生実験で、勃興しつつあったバイオミメティック(生体模倣)化学に触れて面白く感じ、4年生から青山氏の所属する第2講座(村上幸人教授)に入れてもらった。将来は研究者になるのだろうと周囲から期待され、自分でもそう思うようになった。
80年、修士課程へ進むと、生体関連化学を専門とする村上氏から、補酵素ビタミンB6の誘導体と金属イオンを両親媒性分子の自己組織化2分子膜内に入れた人工のアミノ基転移酵素で、酵素なみの性能をめざすようテーマを与えられた。毎年夏、かつて講座の助手・助教授だった砂本順三・長崎大学工学部教授の研究室と合同で研究発表会が行われていた。博士課程でも同じテーマに取り組み、ある程度活性のある人工酵素をつくり上げて、85年に学位を取得した。
海外留学したいと村上氏に伝えたところ、村上氏の友人だった根岸英一・米パデュー大学化学科教授(根岸カップリングの発見で10年ノーベル化学賞受賞)のラボにポスドクとして受け入れてもらえることになり、新婚10日で夫婦揃って渡米した。
有機金属化学の知見は、博士課程の資格試験としてパラジウムのクロスカップリング反応について総説とプロポーザルを書いたことがあっただけ。だが「ポスドクはデータを出してナンボです」との根岸氏の厳しい指導の下で必死に実験を繰り返していたら、2年滞在する間に新反応の発見も含めて論文7報を仕上げることができ、2年目には最も活躍したラボスタッフとして表彰されるに至った。
砂本氏から誘われて87年、長崎大講師として帰国した。