モハメド・アリの一撃
私は団塊世代で、1961年、小学6年生でポリオ生ワクチンを投与された世代だ。講堂に並ばされ、スプーンに掬われた生ワクチンを舌の上に落とされた。1クラスはだいたい60人学級で、半数ほどのクラスにポリオに罹患した子がいた。隣のクラスのI君は後遺症で足に麻痺があり、遠足や社会見学などでは体の大きいクラスメートがおぶって参加した。日常でそうした光景に触れると、ポリオ生ワクチンを服用しないという選択はなかったし、親も教育者も同じ思いだったろう。
著者のポール・A・オフィットによれば、米国でもポリオワクチンの投与は50〜60年代の75%以上の子どもが受けたとされる。米国では56年、エルヴィス・プレスリーがエド・サリバンショー中で「ハウンド・ドッグ」を歌う前にポリオワクチンの接種を受けた。70年代にはスター・ウォーズのキャラクターが受診キャンペーンを行い、セサミストリートのビッグバードも受診を奨めた。
一方で78年には、伝説のプロボクサー、モハメド・アリがワクチン受診を奨めるなかで、「選択の余地はない」と発言、これが右派の「選択の自由を認めない」という反発を受けてしまった。オフィットはこの1件が反ワクチン運動に一定の基礎づくりをさせたのではないかと示唆する。
さらに話がややこしくなるのは、SNSの登場だ。CDC(米国疾病予防管理センター)が小児(5〜11歳)への新型コロナワクチン投与を承認した21年11月、ビッグバードは子どもたち向けに接種を奨めるツイートをした。共和党上院議員の一部は「ビッグバードは共産主義者だ」とまで言ったという。政府が何かを奨めると「義務化」と受け取られ、自由を阻害されるという「民主主義原理主義」に凝り固まった人々の存在、それも堅牢なグループの存在に改めて今回の読書で気付く。日本風の国民皆保険制度など相いれないというのは、この読書で実感させられる。
ワクチンを含む医薬品開発は凄まじい速度で進化している。そのなかで旧来の考え方、治療法が否定されるケースが生まれるのは、科学にとっていわば当然の帰趨だが、反ワクチン派、保守派は「連中の言うことはころころ変わる」としてこれを認めない。オフィットは「科学と医学の慎重さも変わりやすさも嫌がる人たちがいるのは確かだが、それこそが科学のプロセスを信頼すべき理由でもある。医者や科学者は新しく出てきた証拠を無視するほど頭が固くはない」(第9章)と述べる。オフィットの腹立たしさもよくわかるが、反科学の人たちを「頭が固い」と定義するのもどうかという気がしないでもない。米国社会の「反科学」には、どこか「エリート嫌い」の匂いもする。
オフィットはワクチン接種義務化に関する米国での一連の訴訟の流れをみながら、一定の義務化に対する理解を求める姿勢を打ち出しているが、反対論者に対してはケンカ腰の記述も目立つ。例えば、狂犬病ワクチンは打たなければ自分が重篤になるだけで他人には感染させないが、新型コロナは感染症だと叩きつけるように前提を示して、「新型コロナワクチンの接種を拒否するのは(中略)、『命に関わる可能性のある感染症にかかって、その病気を誰かにうつすことは憲法で保障された私の権利だ』と言っているようなものだ」(第12章)と激しく責めている。こうした記述にちょっと怯む分、読者の私のほうが米国社会の対ワクチン観が歪なのかもしれないと思わされる。
読後はしかし、「対岸の火事」だとは思えなくなった。オフィットはエピローグに今後のための教訓として14項目の提言を示しているが、そのうちの「教訓6=デマの拡散を食い止める」で、SNSの浸透、進化でフェイク動画などが拡散されている状況は日本も無縁ではない。米国と日本が違うのは宗教的バックグラウンドだが、「同調圧力」という点では軌道が重なるかもしれない。そしてSNSはその軌道を広げて拡散速度を高める。差別はその傷口を拡大する。
「教訓8=政治と科学を分離する」「教訓9=科学に従う」も、日本でも意識しておいていいのではないだろうか。政治が科学を標的とする時代について、オフィットは「政治屋が支持者の前で拍手喝さいを浴びるようなセリフを口にする代わりに、政治家として公正かつ誠実に行動させるのは、金魚に代数を教えるのと同じくらい難しいのかもしれない」と皮肉っているが、科学研究基盤予算に無関心な日本の政治家も同根。
あまり触れられなかったが、同書の前半、米国におけるパンデミック時の混沌ぶりは記録としての価値が大きい。読んでおいて損はない。