スイッチは果糖だが
肥満が治療の対象とされ、医薬品開発も進んできたのは肥満の科学的分析が進んできた裏付けともいえる。今回の読書は「肥満の科学」。著者は米国人。映像などで見ると米国市民はやはり太っている人が多い印象。中高年では肥満率は相当に高いのではないか。
著者のジョンソンは冒頭近くで、米国での肥満は1890年ころから始まった「感染性ではない流行病」だと位置づけている。現在米国では人口の30〜40%が肥満で、12%が糖尿病。彼は本書を通じて、肥満と糖尿病の関係に危機感を持ちつつ、糖尿病ケアとして肥満の科学的知識を得ることを奨めている。糖尿病が認知症に関与するとの認識も医療世界では広がりつつあるが、当然、ジョンソンもそこに着目している。
ジョンソンは、多くのダイエット・プランやエクササイズ・ルーチンなど肥満を脱するアプローチは減量には成功しているとして、ダイエット・ノウハウのビジネスは否定せずに、「減量を継続できない」ことに関心を示す。「脂肪をまた取り戻すためのプロセス」の解明。そのために、例えば冬眠などの動物の本能的食餌行為の意味、氷河期をくぐり抜けたヒトの生存史をあらゆる生物学、医学(遺伝学など)、栄養学、などから渉猟したことを明らかにしている。
結論は動物が生き延びるために活用する生物学的プロセスの引き金は、「果糖」(フルクトース)。本書はそれを「サバイバル・スイッチ」と呼んで、肥満の科学の物語を展開していく。
ただ、読者の私には少し違和感も拭えない。ダイエットで最も警戒すべきは果糖だというのは何度か耳にした。「研究の過程で、私たちは動物が生き延びる生物学的プロセスを同定した」とジョンソンは記しているが、いわゆる果糖主犯説はこれまでは論文ベースでの報告であり、「同定」はされていなかったということだろうか。さらに、ヒトは食糧調達が困難なときに備えてそのサバイバル・スイッチ(果糖)を準備しているのだが、現代人(ジョンソンによれば1890年以後)は、そのスイッチをオン状態にしたままとなり、故に脂肪を貯めこみ始めたのだというのも、新たな知見のようには思えない。彼は自らの研究グループを丹念に紹介しながら、「サバイバル・スイッチ仮説」は「私たちが提唱している」とも強調している。
科学の世界、その研究世界の階層性みたいなものに言及したくはないが、仮説が果糖代謝阻害剤の開発で脚光を浴びる日が近いようにも思えるなか、ジョンソンたちが陣取りを主張しているのではないかとの印象も持った。むろん、科学に無縁なポピュラーサイエンス読者の憶測にすぎず、現実に果糖代謝を抑制するウリカーゼ遺伝子(ヒトは失っている)の存在もこの読書までは知らなかったのは告白しておきたい。また、ジョンソン自身が自分たちの研究は動物実験が主流で「弱みがある」と率直に述べていることも付言しておく。
ジョンソンはサバイバル・スイッチ(の入りっぱなし)が、認知症まで含めた生活習慣病の要因だと何度も自身の見解を繰り返している。とくに肥満によって警戒すべき疾患として関心を強く示しているのは糖尿病と通風だ。第7章の小括「尿酸のパラドックス」は説得力が強い。
尿酸値の高い人は頭がいいという研究があるのは初めて知った。55年に物理学者のエゴン・オロワンが、尿酸は化学構造がカフェインに似ているため、脳の興奮を高める可能性があると指摘。多くの傑出した歴史上の人物が「痛風に苦しんだ」という証拠があるとオロワンは指摘した。つまり彼らは尿酸値が高かったらしいと。
しかしこの説はその後のいくつかの研究で否定されていることをジョンソンは明らかにしながら、一方で高校生の成績優秀者は尿酸値が平均より高いという研究(否定する研究も含めて)も紹介、尿酸値の高さとそのサバイバル・スイッチ・オンの期間の長さが何らかの反映を示し、ADHD(注意欠如多動症)のような脳の機能不全状態や認知症に進展する可能性も捨ててはいない。「少なくとも長期的な観点からみれば、血中尿酸値の高さは利点にはならない」。加えて、少々目立たないが、台湾やメディケアでの研究から、尿酸を低下させる薬を服用している人は認知症の発症リスクが有意に低いという報告も付け加えている。「アロプリノール」や「フェブキソスタット」に関心は高まるだろうか。
本書のもうひとつの主題は「糖」に対する渇望をいかに抑えるかである。ジョンソンが報告する米国の若者の加糖飲料の消費実態には少したじろぐが、ジョンソンは「渇望をブロックする手段はすぐそこまできている可能性がある」と述べる。そのうえで製薬業界が果糖代謝阻害薬の開発に努めている最中で、彼らのグループは「フルクトキナーゼを標的とする薬剤を開発中で、果糖を含む糖とアルコールの両方に対する渇望の阻止を目指している」ことも明かしている。
ジョンソンは糖への渇望は生まれつきのもので、「赤ちゃんは母乳より糖を好む」ことも指摘している。私は80年代始め頃、育児用粉ミルクに「ショ糖」が添加されている理由を取材したことがある。外資系企業の粉ミルクにはショ糖が入っていなかった。取材を続ける間に、国内企業も次々にショ糖の添加をやめた。その頃からまるまると太った乳児が「健康優良児」とされる気運が薄れていった。母乳はヒトの糖への渇望を抑制している。太った赤ちゃんはサバイバル・スイッチをオンにする欲を早めに獲得するのかもしれない。