曲げられる無機デバイス


 当時、柔らかく曲げられる電子デバイスをつくるため、柔らかな有機半導体を使う手法とシリコン半導体を柔らかなフィルムに転写する手法が研究開発の主流だった。前者は安価に製造できるけれど性能が安定せず、後者は高性能だけれど高価だった。


 ジャビー氏は、シリコン半導体全体をつくってからフィルムに転写するのではなく、半導体の無機ナノ構造物を順々に転写するようにすれば、両者のいいとこどりをできるのでないかと考え、実現に必要な印刷技術や転写技術を開発していた。竹井氏は、そうした技術を使ったデバイス作製に取り組み、渡米翌年から論文を量産するようになった。


 まず10年、人工皮膚に使う想定で7㎝×7㎝のナノワイヤ回路をつくって『Nature Materials』誌に、曲げられるインジウムヒ素のナノワイヤトランジスタをつくって『ACS Nano』誌に、絶縁体層上に10 nm程度のインジウムヒ素薄膜を形成すると半導体が高性能化することを発見して『Nature』誌に、それぞれ発表した。


 11年に入ってからも、インジウムヒ素薄膜層の厚さと半導体性能の関係を明らかにして『Applied Physics Letters』誌に、厚さがナノレベルのとき、どの程度の量子閉じ込め効果が生じるかを明らかにして『Nano Letters』誌に論文報告した。


 また、通常のシリコン半導体も、薄膜を結晶成長させてから加工する手法ではなく、無機ナノ構造物を順々に転写することでつくれるのでないかというジャビー氏のアイデアの実証にも取り組み、12年の『Nano Letters』誌、13年の『Applied Physics Letters』誌、『Journal of Physical Chemistry C』誌、14年の『米国科学アカデミー紀要(PNAS)』などで論文報告した。


 こうした実績を引っ提げて13年、大阪府立大学電子物理工学課程のテニュアトラック助教に応募、採用されて帰国した。直後、『MIT Technology Review』誌が年1回主催して世界的な若手イノベーターを顕彰する「Innovators Under 35」(当時はグローバル版のみ存在)に選出された。


 ジャビーラボでつくった素材をウェアラブルデバイスとして統合印刷することに研究目標を定めると、帰国翌年の14年には早くも論文量産が始まった。タッチセンサと温度センサ、薬物送達システム、無線コイルを統合印刷した「スマート絆創膏」を提案して『Advanced Functional Materials』誌に、ひずみセンサと温度センサを統合印刷して『ACS Nano』誌に、カーボンナノチューブとポリマーの複合インクを用いた折り畳み可能な印刷電極を提案して『Physica Status Solidi A』誌に、人工皮膚用の3軸触覚・滑り力・温度センサを印刷して『ACS Nano』誌に、それぞれ報告した。


 この年には、科研費の若手研究(A)に「ヘルスモニタリング用高性能・多機能無線フレキシブルCMOS/MEMSデバイス」が採択され、あまり研究費に苦労することがなくなった。


 翌15年、文部科学省科学技術・学術政策研究所が年1回、科学技術への顕著な貢献者を顕彰する「ナイスステップな研究者」に選ばれた。


 16年に入ると、それまでの集大成として、加速度、皮膚温度、心電、紫外線のセンサをフィルム上に印刷して絆創膏のように柔らかな貼付型ウェアラブルデバイスをつくり、『Science Advances』誌で報告した。


 17年、テニュアの准教授に昇進した。同時に科研費若手研究(A)に「ハイブリッド化学・物理検出機能集積フレキシブル健康管理パッチ」で再び採択された。


 さらに10月、さきがけの「人とインタラクションの未来」領域に、「連続的多種健康・環境データ解析に向けたデバイスプラットフォームの創出」が採択された。バイタルデータや室内環境の複数情報を連続的に計測し、それらの相関関係を解析、「未病の発見」や「予防医学」への発展をめざす構想だった。竹井氏が、構想に従って研究を続け、着実に目標へ近づいていること、お気づきだろう。


 翌18年4月、「無機ナノ材料応用による新規フレキシブルデバイス開発」で文部科学大臣表彰若手科学者賞を受賞した。


 その11月には、高感度で柔らかいpHセンサを開発し、『Nature Electronics』誌で報告している。


 翌19年、38歳の若さで教授に昇進した。


 さきがけや若手研究(A)が20年度に終了した後は、22年度からの科研費基盤研究(A)に「瞬時データ解析脳を有した常時健康管理センサパッチの開発」が採択され、現在も継続中だ。


 同じ22年、大阪市立大学との統合で大阪公立大学が発足、それに伴って学内が若干ザワついたことから、落ち着いて研究できる環境を求めて23年、公募の出ていた現職に応募、採用されて北海道へ戻ってきた。