「なかったことにしよう」
この一連の事例を通じて浮き彫りとなったのは、正しさと誠実さをもって事実に向き合い、それを伝えていく重要性である。医療や介護の現場においても、エビデンスを捻じ曲げたり、対象者を軽視したりすることで信頼が損なわれることのリスクを何度も見てきた。一方で、現場で実際に向き合っている人々の想いを正しく受け取り、それをエビデンスへと変える努力こそが未来をつくる原動力になるのではないかと信じている。
こうした「歪み」を目の当たりにした経験は、私自身にもある。以前、ある研究プロジェクトで一緒に仕事をしていた人物が、期待した結果が出ないために、重要なデータを「なかったことにしよう」と提案してきたことがあった。この提案を聞いたとき、私は大きな衝撃を受けた。なぜなら、そのデータは研究全体のなかで重要な事実のひとつであり、それを隠すことは科学的誠実さを根底から覆す行為だったからである。
研究のプロセスにおいて、すべてが計画通りに進むことはまれであり、予期しない結果や仮説と異なるデータが出てくるのはむしろ自然なことである。それらを受け入れ、それに基づいて新たな考察や仮説を立てることが、科学の進歩を支えている。しかし、その人物は、自分の立場や期待する成果に囚われていたのだろう。「結果が出なければ、研究の価値がない」という狭い視点から、都合の悪いデータを排除しようとした。
この一件をきっかけに、私はその人物との論文執筆をやめる決断をした。結果が思わしくないからといって事実を隠すことは、短期的には自身の業績を守れるかもしれないが、長期的には科学全体の信頼性を損ねる行為だ。さらに言えば、研究者としての良心をも失うことになる。論文を仕上げるための妥協は、科学的な真実を探求するという本来の目的から逸脱する行為であり、それを容認することはできなかった。
最近でも、今回の知事選に関連して、まだクーデターを企てようとしている県議会OB(?)のブログが話題となっている。そのなかで県民を「愚民」と記述している箇所があった。確かに愚民と呼ばれるような人々も存在するかもしれないが、自分の思い通りにならないものをすべてそう呼んでしまう姿勢には、大きな問題がある。
この連載でもかつて触れたが、ある市の保健師が、住民の健康診断結果を個々人のグラフとしてビジュアル化し、変遷が一目でわかるようにする案を私が提案した際、「市民は馬鹿だから理解できない」と発言したことがあった。市民へのサービスを提供する立場にある者が、その対象者を「馬鹿扱い」していては、何も伝わらないし、何も変わらないだろう。
私たちは、相手を軽んじるのではなく、正しさと誠実さをもって動くことで初めて信頼を得ることができる。それこそが人を動かし、エビデンスとして実際に機能するのだと確信している。
この経験は、私自身の研究姿勢を再確認させる機会ともなった。同時に、医療や介護の現場におけるエビデンスの扱いについても考えさせられる出来事であった。もし医療の意思決定が、こうした「歪み」を含む研究結果に基づいて行われるとしたら、その被害を受けるのは患者である。これは、現場の実践者としても絶対に見過ごしてはならない問題だ。
あるクラファンプロジェクト
この流れで今年の12月17日開始のクラウドファンディングプロジェクトを紹介する(QRコード参照)。このプロジェクトは、認知症の家族介護者の心を支えることを目的とし、地域全体のケアの質を向上させる仕組みを構築するものである。認知症の方と暮らす家族が少しでも穏やかで笑顔のある毎日を送れるよう、看護師や医師、ヘルパーなど多様な立場の専門家が力を合わせて活動している。これまでに180人以上の家族から話を聞き、気持ちを軽くするための個別サポートを開発したが、これらは研究対象者に一時的にしか使えない。
そのため、このプロジェクトでは、日常で使える「心が軽くなる方法」を小さな研究を通じて形にし、それを多くの人が利用できるようにする新たな挑戦を進めている。また、この取り組みに共感する仲間を集めるためのオンラインのつながりを構築し、認知症と向き合う本人と家族が「ひとりじゃない」と感じられる環境をつくることをめざしている。
このプロジェクトは、認知症の介護現場における「正しさ」と「想い」を具体的な形にするモデルケースである。ぜひこの活動を応援し、家族介護者がより良い未来を築くための一歩を後押ししてほしい。連載の場をプロジェクトの宣伝に使ってしまったが、これもまた正しさと誠実さをエビデンスに変えるための一環とご理解いただければ幸いである。