(1)無名の新人浮世絵師、大々的デビュー


 寛政6年(1794年)5月、突然、「東洲斎写楽」なる無名の新人浮世絵師が大々的に「蔦屋」(つたや)からデビューした。「大々的」というのは、役者の「大首絵」28点、一挙発売であった。


 衝撃的デビューであったが、活躍期間はわずか10ヵ月間だけであった。


 大正時代になると、「世界3大肖像画家」と称賛された。


 そんなことで、「謎の写楽」は大いに注目された。


 時代背景には、寛政の改革の終了ということがあった。


 1786年(天明6年)、老中田沼意次が失脚した。失脚の原因は、天明の大飢饉による社会的混乱がベースにあるものも、おそらく「成り上がり者」への「ネタミ」と思われる。


 1787年(天明7年)6月、松平定信が老中首座となり、寛政の改革が始まる。基本的な経済政策などは田沼意次とほとんど同じであった。田沼意次が汚職賄賂だらけ贅沢三昧というのは、どうやら「ネタミ」がつくった嘘話であった。「嘘も百回言えば真実になる」が田沼失脚の深層であった。田沼と松平の異なるなる点は、「表面的イメージ」が最大のものであろう。それと、倹約令や風俗統制令を田沼時代よりも、頻発・厳罰化したため、江戸が一層不景気になったことであろう。


 1793年(寛政5年)7月23日、松平定信が失脚。寛政の改革は6年間で終わった。松平定信が失脚しても、倹約令・風俗統制令は生きていた。江戸庶民は、幕府の方向がどうなるか、不明であった。


 寛政の改革と写楽の版元である蔦屋の関係をみてみます。


 蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう、1750~1797)は、吉原の書籍零細小売店から出発して、寛政の改革が始まる頃には、蔦屋は江戸最大の「版元」に成長していた。「版元」とは、いわば出版社である。蔦屋は、狂歌の中心人物・大田南畝(蜀山人)、洒落本・黄表紙のベストセラー作家・山東京伝を抱えていた。喜多川歌麿は、未だ多くの浮世絵師のなかのひとりに過ぎず、蔦屋の狂歌絵本の絵を描いていた。蔦屋は、いつかは芽を出すだろうということで、曲亭馬琴、十返舎一九を使用人としていた。


 寛政の改革の倹約令・風俗統制令が江戸を覆っていた。1791年(寛政3年)1月、江戸市中、男女混浴を禁ずる。不景気のため、江戸の正式な芝居小屋である江戸(歌舞伎)三座は3つとも経営破綻して、いわば代行屋が芝居興行をする有様だった。


 そして、1791年(寛政3年)になって、蔦屋重三郎は山東京伝の洒落本を発売した。洒落本とは、遊郭・花街の遊びを書いたものである。他の版元は、洒落本出版を自粛していたが、蔦屋は状況判断ミスで発売した。これが、大ベストセラーになってしまい、幕府はびっくり。その結果、山東京伝は手鎖50日の刑、蔦屋は財産半分没収となった。


 手鎖(てじょう)の刑は、牢に収容する程ではない軽微な犯罪で手錠をしたまま自宅で謹慎するものである。食事もトイレも手鎖のままである。


 蔦屋重三郎は、幕府の取締対象にならない出版活動を、あれこれ考えていた。むろん、蔦屋だけでなく、すべての版元が真剣に考えていた。「いかなる出版ならば、幕府のお咎めがないか」を真剣に研究するグループもできた。


 そうしたなか、喜多川歌麿(1753~1806)は美人画の「大首絵」を描いた。1791年(寛政3年)~1792年(寛政4年)の『婦女人相十品』『婦人相学十躰』である。この頃の浮世絵は、美人画と役者画の2つが人気の的であり、ともに全身画である。美人画は、完璧な八頭身美女の時代であった。


 そのなかで、顔をアップにした「美女大首絵」が登場したのである。顔を大きく描くことができるので、表情が豊かに描くことができ、歌麿の「美女大首絵」は大人気となり、歌麿のモデルになった遊女・花魁・茶屋娘は一躍有名になった。幕府は、歌麿に対しては、「色っぽい美人画は風紀を乱す」として、再三「ご注意」をした。歌麿と蔦屋は幕府の「ご注意」に対して、事前に弁明書を提出したり、抜け穴的手法を用いて、なんとか切り抜けていた。


 しかし、1804年(文化元年)に、歌麿は美人画ではなく、『絵本太閤記』の挿絵で捕縛され、手鎖50日の刑となった。織田信長・豊臣秀吉以降の人物の絵は禁止されていたのである。いわば、「別件逮捕」であった。歌麿は、これによって病気となり、1806年(文化2年)に亡くなった。


(2)誰も言わない「大きな謎」


 蔦屋重三郎は、次のように考えたに違いない。歌麿の「美女大首絵」が大ヒットしたから、「役者大首絵」も大ヒットするだろう、また、松平定信が、1793年(寛政5年)7月に失脚しているから、歌舞伎PRの浮世絵も「描き方次第」では容認されるかも知れない。そこまでなら、理解できるのだが……、「大きな謎」が残る。


 歌麿の「美女大首絵」は、美女をさらに美しく、色っぽく描くものであった。ところが、写楽の「役者大首絵」は、役者(男)をさらに格好よく描くのではなく、なにかしら、「あれー!」と感じさせるものであった。


 私は絵画には2つの描き方があると思う。ひとつは、「写生派」である。言葉のとおり、ありのままを描く。たとえば、仁王像の憤怒の顔つきは、「一瞬の表情」を見事に捉えたものである。思い出すのですが、貴乃花の千秋楽優勝を決する大一番で、貴乃花は勝負を決する最後の一瞬、全力を振り絞ったとき、仁王そっくりの憤怒の形相になった。私は、あの時、仁王像は写生派と確信した。


 もうひとつは「印象派」である。ありのままでなく強く印象に残ったものを、ものすごく強調して描く。幼児・子どもは、印象派である。人間を描く場合、顔を大きく描く。風景を描けば、空には赤い太陽を描く。富士山を毎日見ている高校生に教室内で富士山を描かせれば、本物よりも鋭角的な富士山を描く。印象派なのだ。


 印象派は、自分の印象に強烈に残ってものを強調して描く。


 歌麿は、印象派である。しかし、印象に残る「美しさだけ」を強調する。


 写楽も、印象派である。しかし、「美しさではなく、変な部分」を強調する。


 思うに、歌麿と写楽は、印象派に違いないが、印象に残る部分が、まるで違うのだ。写楽が歌麿と同じような感性ならば、ものすごく格好いい役者になるはずだが、写楽の「役者大首絵」を見ると、「ムー、これはー、ムー」と唸ってしまう。


 写楽の代表作中の代表作の作品名は、『三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛』である。その意味は「三代目大谷鬼次が演じるゴロツキ野郎・江戸兵衛の役」ということである。「ゴロツキ野郎だから格好悪く書いた」ということかな~、だったら、書かなきゃいいじゃないか。


『三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛』に関しては、後述します。


 私の勝手な推理では、写楽は人間社会には、「善人もいれば悪人もいる」と考えたに違いない。歌麿の「美女大首絵」は、スーパー美女ばかりであるが、それは女性のほんの一部分にすぎない。人間社会には不美人もいる。スーパー美女を描いて売り出せば、売れるだろう。でも、それは人間社会の偏った一面である。不美人を描いて売り出すことができれば、結構なことなのだがなぁ~。


 後で述べますが、写楽の本業は能役者である。能役者は面をつける。観客は思い思いの顔を想像する。歌舞伎は役者の顔に厚化粧する。厚化粧で美男子役なら、それらしい化粧をする。悪人役なら、それらしい化粧をする。ということは、「役者本人の素顔」と「役の化粧顔」の二重構造となっている。さらに、善人でも悪の心を秘めている、悪人でも善人の心を秘めている。能は複雑性を熟知しているから、能面にした。


 写楽は熟慮に熟慮した。「美女大首絵」は単純でいいなぁ~。「役者大首絵」は複雑だなぁ~、でも、やってやる、描いてやろうじゃないか、複雑なる「役者大首絵」を世に出してやろうじゃないか。

 

 蔦屋重三郎は、1794年(寛政6年)5月公演の歌舞伎の役者画を売り出す方針で準備万端整えていた。しかし、幕府は歌舞伎の賑やかさを快く思っていなかったので、寛政6年になっても、5月公演の演目すら決まらない状況であった。5月公演が始まったら、意中の画家を会場に派遣して、すかさず画を描かせて、電光石火のごとく発売する。


 蔦屋重三郎が、いつ、いかなる縁で写楽と出会いったのかは不明です。しかし、蔦屋重三郎は、最初の1枚を見て、衝撃を受けたに違いない。歌麿は「美しさ」であるが、写楽は「人間の悲哀、人間の真実」がにじみ出ている。蔦屋は「画期的な絵だ」「大々的に売り出そう」と決断した。


「役者大首絵」28枚を一挙に売り出す。歌麿の「美女大首絵」の背景は白雲母摺(しろ・きらずり)であるが、写楽の「役者大首絵」の背景は黒雲母摺(くろ・きらずり)である。これは、かなり金がかかる手法である。


 かくして、1794年(寛政6年)5月、無名の新人、一挙28枚、「役者大首絵」、大々的に発売となった。江戸庶民は、衝撃をもって受け取った。


「なんだ、なんだ、この役者絵はなんだ!未だかつてない絵じゃないか」


 でも、庶民の大半は、「変わった絵だなぁ~」の衝撃はあったものの、「人間の悲哀、人間の真実」を認識する者は少なかったようだ。むろん、写楽の「役者大首絵」に関して、賛否の議論はあったと思う。議論はあっても、大半は「変な絵だなぁ~」の感想で終わったのでは、なかろうか。


 役者のなかには、「もう少し、いい男に描いてくれたらなぁ~」と思う者もいたであろう。役者ファンのなかには、「格好よく書いてあれば、購入して自分の部屋に飾って毎日、眺めるのだけど……」という者もいたであろう。


 そんなことで、写楽の「役者大首絵」は、江戸市中に衝撃を与えたものの、購入する者は少なかったようだ。


 狂歌の大田南畝(蜀山人)の『浮世絵類考』では、「役者の似顔をうつせしが、あまりにも真実を画かんとして、あらぬ(違った)さまのまま描いたから、すぐに流行らなくなった、しかし、筆力雅趣があって賞すべし」とあります。さすがに、大田南畝の評は大したものだ。


 現代の俳優・タレントのブロマイド・写真集でも、大量に売れるのは、美女・美男子の美しく、格好いい写真である。プロのカメラマンが撮った数千枚の写真から、一番よく写った写真を選ぶのである。内面が表れているような芸術的写真は、さほど売れないものだ。


 写楽の活動は、たったの10ヵ月間である。


 第1期が、1794年(寛政6年)5月の「役者大首絵」28枚である。


 第2期が7~8月で、2人全身画7点、1人全身画30点。第1期の「役者大首絵」が売れなかったので方向転換したのだろう。


 1期2期は、芸術性が高いが、3期4期は、別人が描いたのではないか、と疑われるほど、芸術性が低いと言われている。3期4期は、気力喪失ということだろう。


 第3期が11~閏11月、第4期が1795年(寛政7年)1~2月である。


 1期~4期で、合計145点である。そして、3期は、11点の「役者大首絵」がある。つまり、写楽の真髄は、第1期だけであった。