医薬経済オンライン

医療・医薬業界をさまざまな視点・論点から示すメディア

From Local to Global 私と公衆衛生

過去から未来へ—医務技監への期待

第101回

日本尊厳死協会理事長 岩尾總一郎(元厚労省医政局長)

2017年3月1日号

 1883年、北里柴三郎(1853〜1931)は東京帝国大学卒業後、30歳で内務省衛生局に奉職する。長与専斎による「医制」が公布され、国─県─市町村という衛生行政制度が徐々に浸透していったが、公衆衛生対策としては伝染病予防が最大の課題だった。1879年のコレラ患者は16万2637人、死者10万5786人という統計が残っている。  北里は入省2年後の85年に6年にわたるドイツ留学で世界的細菌学者となって帰国し、内務省所管の伝染病研究所(伝研)で研究に邁進するが、1914年、時の総理大臣大隈重信は「文政一元化」という名目で伝研を文部省に移管し、東大の付置研とした。世界的な名声を博した北里と、母校東京帝大との長年にわたる確執があったとされている。  下野した北里は北里研究所(北研)を設立、その後、故人となった福沢諭吉の厚誼に報いるため、17年、慶應義塾大学医学部長・病院長に就任す...  1883年、北里柴三郎(1853〜1931)は東京帝国大学卒業後、30歳で内務省衛生局に奉職する。長与専斎による「医制」が公布され、国─県─市町村という衛生行政制度が徐々に浸透していったが、公衆衛生対策としては伝染病予防が最大の課題だった。1879年のコレラ患者は16万2637人、死者10万5786人という統計が残っている。  北里は入省2年後の85年に6年にわたるドイツ留学で世界的細菌学者となって帰国し、内務省所管の伝染病研究所(伝研)で研究に邁進するが、1914年、時の総理大臣大隈重信は「文政一元化」という名目で伝研を文部省に移管し、東大の付置研とした。世界的な名声を博した北里と、母校東京帝大との長年にわたる確執があったとされている。  下野した北里は北里研究所(北研)を設立、その後、故人となった福沢諭吉の厚誼に報いるため、17年、慶應義塾大学医学部長・病院長に就任する

有料会員限定

会員登録(有料)
この記事をお読みいただくためには、会員登録(有料)が必要です。
新規会員登録とマイページ > 購読情報から購入手続きをお願いいたします。
※IDをお持ちの方はログインからお進みください

【会員登録方法】
会員登録をクリックしていただくと、新規会員仮登録メール送信画面に移動します。
メールアドレスを入力して会員登録をお願い致します。
1ユーザーごとの登録をお願い致します。(1ユーザー1アカウントです)

googleAdScence