From Local to Global 私と公衆衛生
衛生行政と医系技官
第100回
日本尊厳死協会理事長 岩尾總一郎(元厚労省医政局長)
2017年2月1日号
本誌16年11月15日号に、岡田裕二氏が医系技官の存在に批判的な記事を書いている。氏の指摘するエイズ、ハンセン病や専門医制度など、私も医系技官として関わった。技官であれ事務官であれ、行政官はさまざまだ。本連載の拙文をご一読、些かでも「役に立つ技官がいる」ことを理解していただければありがたい。
「私と公衆衛生」と題し、本連載もめでたく100回を迎えることができた。厚生労働省を退職して12年が過ぎ、昔の記憶が薄れてきた。この辺で連載を終了することにしたい。今号と次号で、衛生行政と医系技官と題し、明治期の「医制」制定と第2次大戦後の医系技官が果たした公衆衛生行政について記す。
長与専斎(1838〜1902)の生家は代々長崎、大村藩の侍医であった。専斎は16歳で緒方洪庵の適塾に入門、5年近くを大阪で過ごした。1858(安政5)年、福沢諭吉の後任として1年間塾頭を勤...
本誌16年11月15日号に、岡田裕二氏が医系技官の存在に批判的な記事を書いている。氏の指摘するエイズ、ハンセン病や専門医制度など、私も医系技官として関わった。技官であれ事務官であれ、行政官はさまざまだ。本連載の拙文をご一読、些かでも「役に立つ技官がいる」ことを理解していただければありがたい。
「私と公衆衛生」と題し、本連載もめでたく100回を迎えることができた。厚生労働省を退職して12年が過ぎ、昔の記憶が薄れてきた。この辺で連載を終了することにしたい。今号と次号で、衛生行政と医系技官と題し、明治期の「医制」制定と第2次大戦後の医系技官が果たした公衆衛生行政について記す。
長与専斎(1838〜1902)の生家は代々長崎、大村藩の侍医であった。専斎は16歳で緒方洪庵の適塾に入門、5年近くを大阪で過ごした。1858(安政5)年、福沢諭吉の後任として1年間塾頭を勤めた
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