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この国につけるクスリ 社会保障よもやま話

尊厳死法と臓器移植法

東京福祉大学・大学院 副学長 喜多村悦史

2015年3月15日号

 人は必ず死ぬ。この摂理には、誰ひとり逆らえない。しかし、その時期を多少ずらすことは、医学の力を借りれば可能である。もちろんそこには「生命倫理」の壁がある。許容範囲はどこまでか。 すべての個体が、自然状態のまま天寿を全うできるわけではない。事故や病気そのほかの理由で、一定数が若くして死亡する。近代医学が発達する2〜3世紀前までは多くがそうして亡くなっていた。 今では90歳は当たり前(日本女性の平均寿命はこれに近い)だし、「父親が105歳で亡くなり、喪に服しております」といった年賀欠礼状を何通も受け取る。 家族の長寿はめでたいことだが、当人にとってもそうであったかは別問題だ。配偶者はとっくに亡くなり、当人は長患いであったかもしれない。重度の認知症で、周囲の状況把握はおろか、自身の人格も失われていたかもしれない。「自分がどういう生き方をするか自分で...  人は必ず死ぬ。この摂理には、誰ひとり逆らえない。しかし、その時期を多少ずらすことは、医学の力を借りれば可能である。もちろんそこには「生命倫理」の壁がある。許容範囲はどこまでか。 すべての個体が、自然状態のまま天寿を全うできるわけではない。事故や病気そのほかの理由で、一定数が若くして死亡する。近代医学が発達する2〜3世紀前までは多くがそうして亡くなっていた。 今では90歳は当たり前(日本女性の平均寿命はこれに近い)だし、「父親が105歳で亡くなり、喪に服しております」といった年賀欠礼状を何通も受け取る。 家族の長寿はめでたいことだが、当人にとってもそうであったかは別問題だ。配偶者はとっくに亡くなり、当人は長患いであったかもしれない。重度の認知症で、周囲の状況把握はおろか、自身の人格も失われていたかもしれない。「自分がどういう生き方をするか自分で決

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