ラテン転々
独裁者のいる風景
No.18
三山喬
2011年11月15日号
カダフィ殺害のニュースに関連して、このところ「独裁者」という言葉をよく耳にする。私がラテンアメリカに抱いていたイメージも、数々の〝独裁者〟にまつわるものだった。 ドミニカのトルヒーヨ、ニカラグアのソモサ、チリのピノチェト……。冷戦時代には数々の独裁者が犇めいていた。しかし、私がこの地域に関わるようになった十数年前にはもう、いずれの治世も歴史上の話になっていた。 エクアドルから陸路でペルーに入ったとき、バスで隣り合ったアルゼンチン人にそう言うと、「この国に、まだいるよ」と返事が返ってきた。フジモリのことだった。 確かに、近年で言えば、フジモリやベネズエラのチャベス、そしてキューバのカストロも、「独裁者」の範疇に入るのかもしれないが、私の感覚では、今ひとつだった。 おかしな話だが、私は「独裁者のいる風景」に憧れていた。国家元首...
カダフィ殺害のニュースに関連して、このところ「独裁者」という言葉をよく耳にする。私がラテンアメリカに抱いていたイメージも、数々の〝独裁者〟にまつわるものだった。 ドミニカのトルヒーヨ、ニカラグアのソモサ、チリのピノチェト……。冷戦時代には数々の独裁者が犇めいていた。しかし、私がこの地域に関わるようになった十数年前にはもう、いずれの治世も歴史上の話になっていた。 エクアドルから陸路でペルーに入ったとき、バスで隣り合ったアルゼンチン人にそう言うと、「この国に、まだいるよ」と返事が返ってきた。フジモリのことだった。 確かに、近年で言えば、フジモリやベネズエラのチャベス、そしてキューバのカストロも、「独裁者」の範疇に入るのかもしれないが、私の感覚では、今ひとつだった。 おかしな話だが、私は「独裁者のいる風景」に憧れていた。国家元首でな
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