特別展『観潮楼の逸品―鷗外に愛されたものたち』(6/27まで)というチラシを入手したとき、これはぜひとも行かなくてはと思ったのは、TV番組でエリート軍人だった森林太郎が軍医として断固主張したことで陸軍の脚気が蔓延し、多くの死者が出たという話を聞いて、それまで知っていた文学者、また子煩悩で子どもらに欧風の名前をつけ、先進的な考えの人物だったという森鷗外としての認識が大きく変わり、気になっていたからです。


 その展示が開催されている森鷗外記念館は緊急事態宣言で休館になってしまい、このまま閉館中に展示終了してしまわないかヤキモキしていたのですが、ようやく再開したので人の少なそうな平日の日中に行ってきました。



 団子坂にある記念館は2012年に建てられたとても現代的な建物で、中の造りもユニークでした。鷗外が亡くなるまで住んでいた自宅があったところで、当時は2階から上野の山、そしてその先の東京湾まで見えたことで〝観潮楼〟と名付けたそうです。戦争などで元の家は焼失してしまいましたが、大銀杏、三人冗語の石、正面口の敷石は残っています。



 鷗外はたくさんの印鑑を持っていたという展示で、確かに昔の人はいろいろ使い分けていたのだと改めて思ったり、最近覚えた画家の作品が何点かあり、いろんな人との交流が垣間見れたのもおもしろかったです。また、ここの常設展に掲げられた幕にあった「学問の自由研究と芸術の自由発展とを妨げる国は栄えるはずがない(文芸の主義)」という言葉が今まさに声高に言いたいことだと共感しました。


 森鷗外記念館を出て団子坂を降ろうとしたとき案内板が目に入り、ついでに旧安田楠雄邸も見学してきました。運よく再開した日でした(水・土のみ開館)。本来ガイドがついて細かく説明をしてくれるようなのですが、今は屋敷の見学順路を示した案内図を渡され、各自がまわるスタイルになっていました。でも、ここだけはと最初の居間の解説を2メートル離れながらしてくれました。関東大震災も戦火も奇跡的に免れ、居間に入る扉前の床板は欅の一枚板だとか、廊下のガラス戸からのぞむ庭は少し歪んで見えるのが幻想的で気に入っているとか、出窓のガラスは今では作れる職人さんがいない特別な結霜ガラスで、誰か若い人でこの技術を継承してくれないものかと熱心に話してくれ、いつかちゃんとガイド付きが復活したら再訪したと思いました。



 もともと藤田好三郎が建てた家で、そこを次に住んだ安田楠雄がほぼ改造することなく残したそうですが、藤田さんの存在が名前にないのが少し気の毒でした。入ってみるととんでもなく奥まで部屋が続いて驚きました。これでもまだ公開していない部屋があるそうです。帰りがけに落語会をやるのでよかったらと言われ、それもちょっと気になりました。単に公開するだけでなく、イベントをやっているのもいい取り組みですね。