大河ドラマ『晴天を衝け』を見ていると、江戸や京都で内戦状態ばかり描かれていた幕末に多くの日本人が西洋へ行き、また文献も出回って、実に様々なところから外国の情報が入ってきていたのがよくわかります。学生時代は、残り少ない3学期にいきなり多くの出来事が世界史絡みで起こる近代の日本史を駆け足で勉強することになり、キーワードの事件や人物をテストのために覚えるのが大変だったことしか記憶にないので、内容をすっかり忘れた今は新鮮に思えます。幕府と薩摩や長州だけが動いていたわけではなく、あらゆる人々がまったく未知の時代の波に乗っていたのですね。
そういう教科書にない歴史の中の営みをこれまでに訪れた展覧会でもそうでしたが、今回もまた別の角度からその時代の人々の生活を見ることができた展覧会が、世田谷代田駅から徒歩数分の齋田記念館で開催されている『蘭字―知られざる輸出茶ラベルの世界―』(7/30まで)です。外国へ輸出する茶箱に貼られたいわゆるラベル(蘭字)から日本と海外の貿易に着目して、当時を考察するものでした。ここの前回の展示が「渡邊省亭」だった関連でこの美術館の存在を知ったのですが行きそびれたので、今回は猛暑の中行ってみました。
もともとここは地元の旧家・斎田家があって、維新後に本格的に製茶を開始し、いろんな博覧会で入賞もしていたという関連から、まさにここにふさわしい展示だったわけです。製茶業は明治22年に東海道線全線が開通して宇治の茶が多く入ってくるようになって東京の市場は衰退してやめたそうです。
それにしても到着してみると、どこまで続くかわからない塀に囲まれた敷地内は緑に溢れ、思っていたのと違っていたので驚きました。約3000坪の敷地があり、幕末に焼失した近代数寄屋造りを昭和初期に再建した約200坪の建物は、平成に世田谷区の文化財に指定されたそうですが、閉ざされた立派な門の向こうで見ることはできませんでした。その門の手前に建つ蔵のようなデザインの建物が記念館で、それほど大きくありませんでしたが十分堪能できました。解説も詳しくいろいろなことがわかりました。この蘭字は今でいうパッケージデザインのようで、外国に受ける図柄や装飾的なアルファベットなど当時の人の様々な工夫が見て取れます。茶葉の品質を区別する名称については、中国人技工士によって中国茶の仕上がりを美しく見せるために着色された葉は〝COLORD〟で、それと差別化した無着色の〝UNCOLORD〟は後にアメリカで着色茶が禁止になったので、慶応元年には茶がアメリカ向け総輸出額の2割を超えていたそうですし、浮世絵師でこの蘭字の制作を手掛ける者もいて、二代目歌川広重は〝茶箱広重〟と呼ばれていたのを初めて知りましたし、日本で営業していたモリヤン・ハイマン商会は明治3年に倒産したあのグラバー商会と別の商会が母体だったとか教科書では教わらないことに気づかされるのも面白いです。時代の大変革期に生きた人々の様子を垣間見れた展示でした。