『三島由紀夫VS東大全共闘』(2020年/108分)。監督:豊島圭介
(公式サイトより。以下同)
中学2年だった。3つ上の兄は近隣の公立高で組織する「共闘会議」のメンバー。狭い借家の片隅で、灯油を滲ませた布切れをコーラ瓶に詰め込んで投げて見せ、「これが火炎瓶ぞ」と得意そうだった。ガリ版にビラ用の原稿を刻み、台所で冷や飯を煮て糊を作りバケツに入れて自転車で深夜、闇に消えた。地元の私大に通う3つ上の姉は、「(日大全共闘議長の)秋田明大が来た」、とミーハー娘のようにはしゃいでいた。当時はまだ『赤旗日曜版』の愛読者だった私は、チェコの騒ぎに気を揉んだ。この映画は、そんな政治の季節に展開された熱い討論の記録である。
私は三島由紀夫が嫌いだった。それは、一時期耽読した太宰治を罵倒する文章を読んだからだ。しかし数年後、哲学科に進んだ年上で文学好きの友人からこんこんと話を聞かされ、氷解した。『仮面の告白』や『金閣寺』を読み、太宰と同じくらい文書が上手いと見直した。だが、三島好きにはならず、坂口安吾や織田作之助を読み漁った。
三島が東大全共闘と討論会をしたことは薄々覚えているが、世間的には安田講堂の攻防戦が連日報道され、東大入試の中止決定で頂点に達した感があった。だから、その後開催されたこの討論会は、一部の識者を除いて大きな注目を浴びたとは言い難かったのではないか。
映画はまず、三島が討論に当たっての決意表明を述べるところから始まる。文章の上手い人は話も上手いというべきか、手元にメモくらいはあるかもしれないが、理路整然と言葉を繋ぐ明晰さに驚く。司会者が三島に「先生」と呼称して弁解を重ね、それを微笑ましく見守る三島の表情が何とも言えない。途中から、赤ん坊を抱いた風采の上がらない男が登場し、三島に議論を挑む。芥正彦という現役の演劇人だそうだ。話していることの半分もわからない。インタビューで再三出てきてもそれは変わらない。とんでもない奇人だが、赤ん坊の賢い表情が妙に記憶に残る。
三島は天皇を信奉する皇国主義者で全共闘は革命を志向する共産主義者という二項対立で見がちだが、「反米愛国」の点で一致していた。そのことがこの討論会を可能にした思想的な共通点である、という内田樹の分析は興味を引いた。平野啓一郎の三島に対する深い理解にも感銘した。平野が指摘する三島像を私なりに解釈すると、三島は生涯、「初めにロゴス(言葉)ありき」を拠り所にし、一方で御託を並べながら政治的な行動を起こさない文学者であることを拒否するという、矛盾を抱えながら苦闘した芸術家だった。
だから、「たとえ諸君の考え方に賛同しなくても、その熱意には共鳴する」「国家権力は合法的に暴力を行使するが、我々が暴力を用いるのは非合法においてであるという点でも諸君と一致する」、などとエールを送ったのだ。
スマホがなければ夜も日もないご時世に、この映画がどの程度インパクトを与えることができるか、大いに疑問ではある。言葉はなにも、重々しく考える必要はない。話すこと、書くことのなかに、少し神経を使い、気を配ることでその大切さがわかる。例えは悪いが、「おやじギャグ」が受けないのは、つまらないのではなく(そういうのもあるけれど)、楽しみ方がわからないからだ。ダジャレはユーモアに繋がる。言葉に馴染んでいなければ、洒落は飛ばせないのだ。「美人すぎる」「感謝しかない」、言葉遣いは麻のごとく乱れている(これも死語?)。誹謗中傷と罵詈雑言。インターネットの投稿が世論であるかのような退廃した世相に対する警句をこの映画で感じ取ってほしい。
もちろん、50年前の暑い季節や三島の人となりに触れるのもいい。平野啓一郎の三島論や、「楯の会」の存在を知るのもいいだろう。壇上にいた学生たちも70歳を過ぎ、示唆に富んだコメントを聞かせてくれる。昔の学生は、かくも真面目だった。(頓智頓才)