『マイルス・デイビス クールの誕生』(2020年/115分/アメリカ)。監督:スタンリー・ネルソン
耳にタコができるほど聴いたマイルスだが、その半生となると歯医者の息子という以外あまり知らなかった。劇場公開は9月だが動画配信のNetflixが先行上映している。昨年、米のサンダンス映画祭で初公開された最新のドキュメンタリー映画である。
マイルス・デイビス(1926―1991)は、とにかく格好がいい。顔かたちもいいし、トランペットを持つ姿も、いちいち決まっている。実に、サマになる男である。そのことでたいそう得をしている部分がある。それに加えて繊細な音作りと綿密な構成に裏打ちされた曲を次々と世に送り出したのだから、映画のなかで登場する評論家の「彼は黒人のスーパーマン」との表現がぴったりと来る。
マイルスの出世作は、1955年に出た『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』。20代最後の年に確実な第一歩を踏み出した。2年後に渡仏。パリで演奏した折に、新進の映画監督ルイ・マルから音楽担当を依頼され、名作『死刑台のエレベーター』を即興で作り上げたといわれる。
その名を決定的にしたのは、「カインド・オブ・ブルー」(1959)。モダンジャスの最高傑作としていまだに世界中で売れているロングセラーである。個人的には、上記「ラウンド・ミッドナイト」、「マイルストーンズ」(1958)とともに彼の代表的な3大アルバムと思う。このころは、ジョン・コルトレーンやビル・エバンス、ポール・チェンバースなどビッグネームが参加した。
「カインド・オブ・ブルー」でジャズ界における不動の地位を築いたマイルスだったが、好事魔多し。大ヒットを飛ばしたこの年、ニューヨークのジャズクラブで演奏中に中座し外でタバコを吸いに行った際、警官と揉めて殴られる事件があった。有頂天になって言葉が過ぎたようだが、逮捕される。結局裁判で無罪を勝ち取ることになるが、これを境にマイルスは、「一層冷たい性格になっていった」との証言が映画の中で出てくる。有名になり評価が高まっても、黒人差別はなくならないと悟る。
1960年代は新たに若手を採用し第2期黄金時代を迎える。ハービー・ハンコック、ウエイン・ショーターなど、のちに大物になるプレーヤーがマイルスの薫陶を得て才能を伸ばした。このころマイルスは有名なダンサーだったフランシス・テイラーと結婚。その後、ジャケットのモデルにも使うなど安定期を迎えた。
1969年に発表した「ビッチェズ・ブリュー」は、サイケデリックなジャケットと演奏内容で、ジャズファンの間に賛否両論の嵐が吹き荒れた。このころのことを、映画はかなり詳しく伝える。当時は反戦ムードが高まり、ロック全盛で野外コンサートが大盛況だった。あんな音楽性の低い曲で大金が稼げるなら、俺もやろうじゃないか。孤高のマイルスだったが、一方で時流に敏感でもあった。ハンコックなどとのセッションでジャズとロックの融合に新境地を見出していたが、このアルバムで、なにかこう、ひとつ突き抜けてしまった。
1975年に交通事故を起こす。手術を繰り返すがはかばかしくなく、その後遺症に悩むようになる。痛みに耐えかねて再び麻薬に手を出すなどして演奏から遠ざかり、6年間の休養期間に入った。その後は鳴かず飛ばずの時期が続き、変人ぶりが目立ったとされる。1991年クインシー・ジョーンズと15年越しの初共演を果たすが、65年の生涯を閉じた。
ジャズとの出会いは、故郷のジャズ喫茶である。高校3年の夏、ジャズ好きの同級生A君が運転するホンダのダックス70CCに乗って、久留米市にある「ルーレット」に行った。そこには定時制高校に通う友人B君が働いていたからだった。マスターは少し気難しく、子どもの私たちが談笑するのに眉を潜めていたので、マスターが店を後にする22時ごろに集まる習わしだった。そこで好きな曲をかけて盛り上がった。その後、B君は30歳を前に病死し、A君は5年前に逝ってしまった。ジャズの話をすると悲しい記憶が蘇る。しかし「ルーレット」は息子さんが継いでおられるらしく、健在なことがとても嬉しい。
ジャズの巨人マイルスは多く取り上げられてきた。5年前にはドン・チーゲルが脚本・監督・主演した『マイルス・アヘッド』がある。評伝は数知れず、面白おかしい記事も数知れない。この映画は、マイルスの親族を含めた多くの関係者の証言をもとにかなり綿密に構成されており、監督の手堅い手腕が光る。現時点ではマイルスの自伝的作品として最右翼ではないか。(頓智頓才)