パターナリズムとは父権主義、親権主義、温情主義、家父長主義、保護主義、家父長的温情主義など多くの訳語がある。
一般的な訳として「父権主義」が使われているが、単一な訳語に定着しないで、多くの日本語訳が生まれているのはパターナリズムに対する解釈や見方・考え方が多様であることを意味している。
パターナリズムは分かりやすく言えば「父親が自分の子供に対してすることを、同じように誰かにふるまう」ことを言う。すなわち、父が善意で子の指導や育成を行っていることそのものがパターナリズムである。一方で、子の自立を尊重しないやり方や本人が決めるべき事を代わって決めてしまうとか、特定の情報を本人のためを思い、知らせないこともパターナリズムに含まれている。
『新版 精神医学事典』(弘文堂)によれば、パターナリズムの語源であるラテン語のpaterは父、権威、絶対者を意味しており、父が子に対するような善意に満ちた干渉を指す。つまり、「絶対的真理を持つと信じられている権威者が、他者の利益を守るために、本人の意思に関係なく父権的介入を行うこと」を指している。
元来、パターナリズムという用語は社会学や法学及び思想の世界で用いられてきたものであるが、医療の世界では「ヒポクラテスの誓い」の中に、その原点を見出すことができるという。ヒポクラテスの誓いの文中では直接触れられていないが、彼の言葉の中には、医師の心得として、「素人である患者に、あれこれと病状や治療のことを話したりすることは、やたらに患者に不安を与えるだけであるし、また病気のことで素人判断させることは、結局は患者の益にならない」と考えていたと紹介されている(森岡泰彦著『インフォームド・コンセント』より)。さらに、「医療については専門家である医師に任せ、医師は患者の利益を考え、わが子を思う心をもって誠心誠意尽くすべきであるとする医師の義務感は、西洋のキリスト教の愛の精神と合体して医師の心に深く浸透し、医師はこれを守り続けてきた」と解説している。
ところが、インフォームド・コンセントの重要性や患者中心の医療の考え方が芽生えてきたことにより、医師の守るべき信条であったパターナリズムは新しい局面を迎えた。すなわち、医療は専門家の職能であり、専門家の知識は一般人には理解できないもので、理解しても仕方がないという両者の見方から「お任せ医療」になっていたものが、自己責任や自己選択・決定の思想がこれを干犯した。さらに、増える医療訴訟や情報化社会はそれを後押しした。
パターナリズムには専門的には多くの分類がある。その一例をみると、㈰真正のパターナリズム㈪依頼されたパターナリズム㈫依頼なしのパターナリズム、に分けられている。㈰は乳幼児や重度の知的・精神的障害者、意識のない救急患者など、医療パターナリズムに頼らざるを得ないもの。㈪は信託にもとづいた医療を指し、運用法や文書の有無が重要である。㈫は患者の選択権を無視し、患者の利益に適うとして行う押し付けのパターナリズムである。
時々話題になる安楽死とパターナリズムについて記すには更に1ページが必要である。
閑話休題…今日のように父権の権威がかなり失墜した世の中になり、説明と理解・同意が医療の常識になってくると、パターナリズムという言葉自体はどのようになってゆくのか? 50年後にパターナリズムがどう説明されるかを想像すると興味がわく。
神原秋男 著
『医薬経済』 2006年5月1日号