10年ほど前に、EBM(Evidence-Based Medicine)という言葉を初めて目にしたとき、自分の英語力にいささかの自信をなくした。直訳して「根拠に基づいた医療」では、あまりにも当たり前であり、現在の医療が根拠のない医療になってしまうではないか。そんなことはないからこれは誤訳であろう。では、何と訳すのか…と戸惑ったのである。
しかし、これは杞憂に終わった。専門家に聞いたところ「科学的根拠に基づいた医療」と訳すという。今までの医療が科学的根拠に基づいていない場合が少なくないから、医療を科学的根拠に基づいたものにしようとする主張であり、運動だと教えられた。
そこで思い出したのは、日本の結核・臨床薬理学の先駆者である砂原茂一先生から聞いた「医療は経験主義 権威主義 経済主義に侵されている」という言葉である。砂原先生は40年前に、すでに医療の革新にはEBMが重要だと洞察されていたのだと思いその偉大さに改めて敬服した(もちろん、当時、EBMなる言葉はなかった)。
「根拠に基づいた医療」という日本語が、あまりに一般的な用語であるために、EBMの本質が誤解されている面も少なくない。
EBMは91年カナダのマクマスター大学の内科グループから提唱された。表の手順により患者への適切な行動(治療)を探索する指針である。すなわち診療上の疑問について文献(エビデンス)検索を行い、その文献を批判的角度から評価したうえで、自分の患者に適切かどうかを判断して診療することを言う。エビデンス(研究成果)の批判的吟味には研究計画からみた評価尺度が決められている。このような方法が可能になったのはITの進歩がもたらした効用であり、今日、EBMが普及してきたのも納得がいく。ただし、いかに情報化時代とはいえ、診療医がエビデンスを個々に調べるのは実用的ではない。これを助ける意味で医学の教科書や診療ガイドラインがEBMをベースに書き変えられつつある。
EBMという言葉が及ぼした影響は計り知れない。EBMは自らの経験や教授などの権威に支配されやすい診療行為への忠告でもある。真摯な専門医はこの言葉に動かされ、自らの診療姿勢を反省すると同時に専門領域疾患の実地診療のあり方に警鐘を鳴らした。
学会や行政は科学的志向のこの言葉に敏感に反応した。日本の医療を動かす核である「診療指針や診療ガイドライン」をEBMの視点から改訂するために厚生科学研究費が出され全面的に見直された。
一方、この改訂プロセスで日本人の患者についての科学的エビデンス(研究成果)がきわめて少ないことが明らかになった。日本の臨床試験や疫学研究の貧弱さを物語り、今後の課題を明白にした。
ちなみに、EBMという言葉は医学出版界にも大きな影響を与えた。医学雑誌の特集、単行本、各種改訂版の発行などのほか「EBMジャーナル」なる専門誌も発行された。仮に、医学出版界を儲けさせた用語ベストテンがあればEBMは入るであろう。話がそれたついでに福井次矢著「EBM・正しい治療がわかる本」を家庭医学書として常備されることを薦める。
実地診療の進め方に直接的なインパクトを与えた言葉。日常の診療行為を科学化する言葉。EBMがより広く定着することを願う。また、EBMはEBM(看護)へも発展している。
EBMの手順
①診療上の疑問をキーワード化
②文献の検索
③文献の批判的吟味(信頼性評価)
④患者への適用性の判断
神原秋男 著
『医薬経済』 2005年10月1日号