(1)人生の前半
私の本棚にある高校の日本史教科書『新詳説日本史(1993年発行)』(山川出版社)には、雨森芳洲(あめのもり・ほうしゅう、1668~1755)の名前はない。だから、ほとんどの人は知らないようだ。
近江国伊香郡雨森村(現在の滋賀県長浜市雨森)の町医者の子として生まれた。 最初は医者になるべく京都で医学を学んだが、「医学をよりも儒学だ」と決心する。決心のエピソードは省略するが、当時は、「医」よりも「儒」のほうが圧倒的に格上であった。
1683年(天和3年)、江戸へ出て、朱子学の木下順庵(1621~1699)の門下生となる。
「朱子学」なる言葉が出たので、若干の説明をしておきます。紀元前の孔子、孟子から出発したのが儒教であるが、この「古代の儒教」と南宋の朱熹(1130~1200)が始めた「朱子学」は、別物と割り切ったほうがよいと思う。
朱子学とは、四書五経+仏教+道教+抽象的概念(理と気)+エトセトラを壮大な体系にまとめあげた哲学である。「古代の儒教」は、『論語』などを読んでいれば、「ごもっとも、ごもっとも」と素朴に頷ける内容だが、朱子学は壮大かつ難解な体系なので、すべてを理解するのに莫大な勉強量が必要である。
その内容は、「上下の秩序は絶対に正しい」である。上の指示・命令に従うことは道徳的に正しい、上下の身分差別があることは道徳的に正しい……封建体制にとって実に便利なので、東アジアの権力者から歓迎された。
ただし、江戸期の朱子学は根本的矛盾を内在していた。天皇と将軍の関係である。突き詰めて考えれば、天皇が上なのだが、事実上は将軍が上である。この矛盾を覆い隠すための大デモンストレーションのひとつが、「朝鮮通信使」であった。李氏朝鮮の正式使節が、天皇ではなく将軍に挨拶に行く。しかも、500~600人の華やかなパレードをしながらである。当時の人々にとっては、ディズニーランドのパレードの100倍くらいワクワクして見物したのである。
江戸時代の初期・中期の朱子学は、第1は林羅山(1583~1657)の家系である。林羅山は幕府のお抱えとなり、朱子学の官学化に成功する。林羅山の子・孫……は代々、その地位を引き継いだ。
第2が、木下順庵(1621~1699)の系譜である。林羅山が幕府の常勤儒官ならば、木下順庵は幕府の非常勤儒官である。木下順庵は、「木門十哲」と呼ばれる優れた弟子を多数育てた。新井白石(1657~1725)、室鳩巣(1658~1734)、雨森芳洲(1668~1755)、祇園南海(1676~1751)……らである。弟子たちは、幕府・有力大名に仕官した。
第3が、「南学」と呼ばれる、土佐の野中兼山(1615~1664)、山崎闇斎(1619~1682)らである。野中兼山に関しては、『昔人の物語(43)野中兼山』をご参照ください。
朱子学ではない学派としては、中江藤樹(1608~1648)、熊沢蕃山(1619~1691)の陽明学派がある。明の王陽明(1472~1529)が始めた。ほとんど朱子学と同じであるが、朱子学・現政治への批判も大きく、「知行合一」の言葉のとおり実践を重んじる。武士だけでなく万民の幸福が大切だと、頭でわかっているだけではダメだ、行動が大事だ、というわけだ。朱子学・現政治への批判体質のため、体制から疎まれ、熊沢蕃山は追放・蟄居謹慎などを受けた。しかし、一般の人々からは尊敬された。
古学派というのもある。朱熹や王陽明に関係なく、古代の孔子・孟子に直接的に学ぼうという感じである。山鹿素行(1622~1685)、伊藤仁斎(1627~1705)、荻生徂徠(1666~1728)などである。概して、体制からは陽明学は危険思想とみなされたが、古学派は許容範囲であった。ただし、山鹿素行は朱子学を大批判したため、一時期、赤穂藩へお預けの身となった。
雨森芳洲の略歴に戻します。
1689年(元禄2年)、雨森芳洲は木下順庵の推薦で対馬藩に仕官する(22歳)。現代感覚からすると「対馬」は貧しい離島であるが、当時は、朝鮮・中国貿易で財力極めて豊かな藩であった。幕府の年収が約70万両、対馬藩は貿易で約6万両も稼いでいた。それと、儒教先進国の朝鮮と直接的関係があるのが対馬藩である。対馬藩に仕官すれば、儒教先進国・朝鮮へ行く機会があり、儒教文化に接する機会がある、と思ったのだろう。
雨森芳洲は、対馬藩の江戸藩邸に住みながら木下順庵に通って朱子学の勉学に励んだ。当時は儒学と漢詩はセットのような雰囲気だったので、漢詩作りにも励んだが、どうも漢詩作りの才能はパッとしなかったようだ。だから、木下門下の兄弟弟子である新井白石に自作の漢詩の添削をお願いしていた。江戸では中国語の勉強も始めた。そのため、1692年(元禄5年)、長崎へ行って中国語の勉強をする。
1693年(元禄6年)、対馬国へ赴任する。
1696年(元禄9年)~1698年(元禄11年)、再び、長崎で中国語の勉強をする。
1698年(元禄11年)、長崎から対馬へ戻り、朝鮮方佐役となる。朝鮮担当部署の補佐役である。
1702年(元禄15年)、初めて朝鮮の釜山へ渡る(35歳)。釜山には倭館がある。釜山の草梁(チョリャン)にあったので、草梁倭館と言われる。李朝初期には倭館は朝鮮の主要都市数ヵ所にあったが、この時期は、釜山の草梁倭館1ヵ所だけであった。この時期の草梁倭館には、400~500人の対馬人が駐在していた。草梁倭館は、外交施設であると同時に貿易商館であった。
そして、雨森芳洲は、草梁倭館で朝鮮語を学び始めた。
いったん対馬へ帰ったが、1703年(元禄16年)~1705年(宝永2年)、草梁倭館で朝鮮語を学んだ。この3年間で、朝鮮語を学びながら16冊の朝鮮語教科書を作った。その中の1冊は明治になっても外国語学校で使用された。雨森芳洲はハングルを覚えるためにハングル小説『淑香伝』『李白瓊伝』を書き写した。『淑香伝』は有名な恋愛小説だが、『李白瓊伝』はどんな小説か調べたがわからなかった。「瓊」の意味は「玉のように美しい」とあるから、色白美女がヒロインの恋愛小説ではなかろうか。詩人の李白の伝記かな……。
1705年(宝永2年)に対馬に帰った。若干の事件はあったものの、平穏かつ退屈な日々が過ぎていく。
雨森芳洲の前半人生、40歳までは、朱子学を勉強した。中国語、朝鮮語を勉強した、そして、中国語も朝鮮語もペラペラになった。ある中国人に「君は多彩な語学に精通しているが、なかんずく日本語が最も流暢だ」と冗談を言われたほどである。
(2)朝鮮通信使
とりあえず、朝鮮通信使に関する予備知識を。
広義では、室町時代から江戸時代にかけて、李氏朝鮮から日本へ派遣された外交使節団をいう。一般的(狭義)には、江戸時代のものを意味する。江戸時代では、正式な国交のある国を「通信国」と呼び、朝鮮と琉球王国の2ヵ国のみが通信国であった。中国の明・清、ポルトガル(南蛮)、イギリス(紅毛)、オランダなどは「貿易国」と呼ばれた。
江戸期の朝鮮通信使は12回あった。
文禄・慶長の役(1592~1598)によって、当然、日朝の国交は断絶した。徳川幕府の時代となり、日朝双方に国交再開の機運・理由があり、1607年(慶長12年)の第1回の朝鮮通信使となった。
なお、第1~3回の名称は「回答兼刷還使」とされた。「回答」とは国書に答える、「刷還」とは在日の捕虜返還の意味である。第1~3回で朝鮮に帰国した朝鮮人は6000~7500人である。第4~12回は、室町時代の前例に則って「朝鮮通信使」とされた。
以下、第1~12回の将軍名と目的を列記する。第12回は、あれこれの原因により対馬止まりとなった。その後、新将軍就任のたび、招請はされたが、具体化されなかった。基本的に幕府の力が衰退していたからである。
第1回=1607年(慶長12年)徳川秀光=日朝国交回復、捕虜返還
第2回=1617年(元和3年)徳川秀光=大阪の役による国内平定祝賀、捕虜返還
第3回=1624年(寛永元年)徳川家光=家光襲封(しゅうほう)祝賀、捕虜返還
第4回=1636年(寛永13年)徳川家光
第5回=1643年(寛永20年)徳川家光=家綱誕生祝賀、日光東照宮落成祝賀
第6回=1655年(明暦元年)徳川家綱=家綱襲封祝賀
第7回=1682年(天和2年)徳川綱吉=綱吉襲封祝賀、木下順庵が江戸で応接
第8回=1711年(正徳元年)徳川家宣=家宣襲封祝賀、雨森芳洲が随行
第9回=1719年(享保4年)徳川吉宗=吉宗襲封祝賀、雨森芳洲が随行
第10回=1748年(寛延元年)徳川家重=家重襲封祝賀
第11回=1764年(宝暦14年)徳川家治=家治襲封祝賀
第12回=1811年(文化8年)徳川家斉=家斉襲封祝賀(対馬に差し止め)
すべてを説明できないので、第7回の朝鮮通信使(1682年・天和2年)の若干の説明で、その様子を推察していただきたい。
一言で言えば、華やで楽しい大パレードである。総勢500人の大行列、異国ファッション、笛や太鼓の楽団、馬術の曲芸、強弓をあやつる武芸者……見物人は驚き楽しんだ。
パレードが楽しいだけではない。正使、副使、従事官は科挙の試験に合格したインテリの文人官僚である。朱子学を熟知・丸暗記しているだけでなく、漢詩の能力に秀でていなければ科挙の試験に合格できない。朝鮮側も文化差を日本に見せつけるためトップクラスの文人官僚(つまり、トップクラスの漢詩の詩人)を派遣した。彼らは、出会った人を評価するのに、その人が作った漢詩で評価するのである。
通信使一行の旅の途中、江戸滞在中、多くの日本人儒者が彼らと交流した。日本人儒者は朝鮮語を知らないので、中国語での筆談である。そして、自作の漢詩を遣り取りする。儒教先進国の文人官僚から漢詩を褒められれば、それは日本人儒者にとって、大変な名誉となった。
朝鮮通信使の正史らと正式な直接面会し、接待したのは、木下順庵である。すでに格式ばかりの林家は国内では通用しても、朝鮮の一流文人に通用しないのである。木下順庵は筆談で応接した。朝鮮の正史は木下順庵の人柄・学識・漢詩の才能を高く認めた。また、木下順庵も朝鮮正史を高く評価した。木下順庵が朝鮮正史に差し出した漢詩の超意訳です。
筆談が通じて眉が上がり、心から喜びました。
高堂で相対していると、情が溢れてきます。
朝鮮と日本は三万里も隔たっていますが、
錦の袋に清らかな詩を一緒に入れましょう。
古今東西、外交の基本的方策は2つに分かれる。ひとつは、人種・文化の平等を深く認識し、誠実に対応する。もうひとつは、その反対で、相手国を軽蔑して、マキャベリ的に卑怯・買収・恫喝を当然とする。アクション映画では、相手外交官・政治家をハニートラップ・買収でイイナリにさせるのが常である。映画ではなく実際、外国に生殺与奪を握られている有力政治家がいる。平和が到来しないのは、後者の思考形態が強いからであろう。
木下順庵の応接は、むろん前者であった。それは、雨森芳洲によりしっかりと継承される。
(3)正徳の朝鮮通信使(第8回)で活躍
1709年(宝永6年)、第5代将軍徳川綱吉(在位1680~1709)が亡くなった。第6代の新将軍は徳川家宣(在位1709~1712)である。新将軍慶賀のため、第8回朝鮮通信使がやってくる。雨森芳洲は、朝鮮語ペラペラ、儒学も一流である。いよいよ自分の出番である、と思った。しかも、徳川家宣の実際の政治を動かしたのは側用人・間部詮房(まべあきふさ、1666~1720)と新井白石であった。前述したように、新井白石は木下順庵の門下生で雨森芳洲と親密な仲である。間違いなく、自分の晴れ舞台だ、とワクワクである。
ところが、新井白石から大問題がもたらされた。朝鮮と日本が取り交わす国書に従来の「日本大君」ではなく「日本国王」にすると要請したのだ。その交渉を対馬藩が行わなければならない。雨森芳洲と新井白石の間で手紙による大論争が展開された。雨森芳洲の論は、「日本国王=日本天皇」であるから、よろしくない、というものだ。
実は、室町時代から将軍を「日本国王」とすべきかは大問題であった。対馬藩は日本側国書の「日本国 源某」を改竄して「日本国王 源某」に改ざんしたこともあった。なお、対馬藩の国書改ざんは頻繁になされていた。日本と朝鮮の仲を取り持たねばならない対馬藩としては、日本の面子もたてる、朝鮮の面子もたてる、そのため決死のやむなき改ざんであった。
幕府の大実力者・新井白石に辺境の対馬藩の臣下・雨森芳洲が文句をつけるということは、弾圧される危険性もあった。もっとも、新井白石はそんな小さな器ではなく、亡くなるまで芳洲と付き合っていた。幕府のナンバー1実力者に対して、大義名分を大事にする雨森芳洲は一歩も引かなかった。
結果、日本からの「日本国王」要請に対して、使節が釜山へ向かっているし、ごたごたするのは面倒だし、まぁ今回だけは仕方がないので「日本国王」にするか、ということになった。
新井白石、雨森芳洲の「天皇と将軍」をめぐる論理・思想は、面倒な話なので省略します。なお、江戸期にあっては「日本国王」はこのときだけである。
白石の朝鮮観は、豊臣秀吉の朝鮮出兵を終結させたのは、徳川家康の和平提案であるとして、朝鮮は家康に感謝すべきである、というものである。芳洲の朝鮮観は、徳川政権は豊臣政権を引き継いだのだから、当然、朝鮮出兵の責任も引き継いだとする。朝鮮出兵から、すでに100年が経過している、国交も回復している、しかし、「朝鮮出兵の責任論」は基本的に大問題であったのだ。
なお、新井白石は、「天皇よりも将軍優位」「朝鮮よりも日本優位(つまり朝鮮を軽蔑)」という思考が根底にあることは間違いない。
新井白石は、朝鮮通信費にかかる費用の節約も打ち出した。前回の第7回朝鮮通信使には100万両がかかった。幕府の年収は70万両であるから、大変な額である。幕府の権威を知らしめるためとはいえ、費用が巨大すぎる。その影響は、結局のところ農民への重負担となる。雨森芳洲は、新井白石の費用節約方針には反対しなかった。節約の効果によって、60万両に抑えられた。
さて、雨森芳洲は釜山まで朝鮮通信使を迎えに行き、対馬、瀬戸内海、大阪、京都、江戸へとずっと随行した。途中、新井白石の朝鮮蔑視と費用節約で、現場にあった対馬藩及び雨森芳洲は大変に苦労した。
例えば大阪の宿泊所では、白石の手紙は、日本側の使者に対して朝鮮正使が2階から1階へ降りて出迎える、と指示した。要するに、朝鮮正使が将軍使者にへりくだることを意味し、すったもんだの末、白石の血霧を吹かしてもという恫喝によって、朝鮮側が折れた。その他、江戸においても、あれこれの場面で白石は朝鮮通信使の面子をつぶす要求をし、朝鮮側はそれに屈辱的に譲歩した。
むろん、博学な白石は、古典を根拠にした理屈・理論をもって要求したのだが、基本的には「将軍の権威向上」であった。「将軍の権威向上」のためなら、屁理屈でもなんでも動員した。
間に立つ雨森芳洲と対馬藩の心労・心痛は大変なものであった。帰路、通信使の正使以下の主な人々は、皆、芳洲に感謝の漢詩を贈っている。芳洲が、朝鮮通信使と幕府の仲介役として、大事に至らぬよう懸命の努力したことをわかっていたのである。通信使の書記官は対馬で芳洲と別れる際に、
広い知識をもった儒者が僻地に居ることは惜しい。
君の才能は誰よりも優れている。
客の応接に礼をもって、儀に欠けることなし。
と詠んだ。
通信使は、帰国後、度重なる譲歩のため、朝鮮の国体を損なったとして処罰された。朝鮮では、白石の強引な方策は別として、抜群の学識と漢詩の才能は並みではない、と正当に評価している。
(4)享保の朝鮮通信使(第9回)
正徳の朝鮮通信使(1711~1712)の翌年、徳川家宣は、50歳で亡くなった。第7代は家宣の子、わずか4歳の徳川家継(在職1713~1716)であった。実権は、家宣のときと同じで、側用人・間部詮房と新井白石であった。
白石は、銀・銅の流出を制限する政策を実行した。対馬藩は朝鮮から生糸・絹織物・人参などの物産を輸入する対価を銀で支払っていた。銀・銅の流出制限とは、貿易量の縮小を意味し、対馬藩にとっては大打撃である。雨森芳洲は対馬藩を代表して江戸へ赴き新井白石と談判し、対馬藩に限って従来どおりの銀の量を認めさせた。
雨森芳洲は新井白石との交渉に成功すると、たびたび江戸を訪れるようになった。対馬藩は、雨森芳洲の幕府との交渉力を高く評価したのである。
1716年(正徳6年=享保元年)、徳川家継が亡くなる。同時に、新井白石も失脚した。
1719年(享保4年)、徳川吉宗(在職1716~1745)の第8代将軍職就任を慶賀する第9回朝鮮通信使が訪れた。約500人の規模である。朝鮮通信使の接遇は、第7回天和の朝鮮通信使に戻すことになったので、基本的に平穏に推移した。新井白石の改革は否定されたのである。雨森芳洲は、対馬から随行した。
特筆すべきことは、製述官・申維翰(シンユハン、1681~1752)が著した紀行文『海游録』(かいゆうろく)である。製述官とは書記官のことで、漢詩が上手な者が選ばれる。朝鮮の紀行文学の中でも有名なものである。
申維翰は、第8回正徳の朝鮮通信使が日本側から屈辱的扱いを受けたことに対して、見返してやる、といった感情があったのかも知れない。対馬に着くや対馬藩に対してイイガカリのような要求をする。そして、雨森芳洲(52歳)と申維翰(38歳)は口喧嘩となる。しかし、旅を共にするうちに、互いの才能を認め合い親密になって、冗談すら言える仲となっていく。
申維翰が大阪の繁栄、妓楼の繁盛を詳細に書いたついでに、日本の男色の盛んなことを批判したら、雨森芳洲が「学士は未だその楽しみを知らざるのみ」と応えた。申維翰は、雨森芳洲ほどの学識豊かな儒者が、男色を肯定するとは……と、憤慨している。雨森芳洲自身が男色なのか、他人の男色を容認しているだけなのか、よくわからない。なお、芳洲は1696年頃、結婚し子も儲けている。
第9回享保の朝鮮通信使は少々の誤解やら行き違いがあったが、江戸での役目を果たし、帰路も無事、雨森芳洲は対馬で申維翰と別れる。文才があれば、涙の別離シーンである。
(5)『交隣提醒』
1720年(享保5年)、朝鮮の景宗の即位を祝賀する派遣団に加わって、釜山へ渡る。
翌1721年(享保6年)、朝鮮方佐役を辞任した(54歳)。対馬藩の密貿易取締の事実上容認への抗議であったようだ。密貿易関係者だけが潤い、藩の利益は減少する。こんなわかり切った不正にすら対策がとれない対馬藩への憤怒と諦めである。
そして、1755年(宝暦5年)、88歳で没するまで、思索と教育と著述の引退生活となる。
そのなかでも最高の著作は、1728年(享保13年)、61歳の著作『交隣提醒』(こうりんていせい)である。対馬藩主に朝鮮外交の心得を、細々説いたものである。
次のような話がある。
ある日本人が朝鮮の訳官に「朝鮮国王は庭に何を植えるか?」と尋ねた。
朝鮮訳官は「麦を植えている」と答えた。
日本人は「さてさて下国に候」と笑った。「なんて、無風流な」というわけだ。
朝鮮訳官の心は、「麦を植える、すなわち国王は常に農耕・農民を忘れないという古来からの美徳であるから、日本人は感心するに違いない」と思っていた。それなのに日本人から馬鹿にされた。
日本と朝鮮では風俗習慣が違うことに注意しよう。注意せずに、日本側の考えで、相手の言葉・行動を判断してはいけない。
こうしたことによる偏見、蔑視が、いかに多いことか……。
また次のような文章もある。
「朝鮮人の嫌ひ申し候事を、かまひ申さず、日本人の不埒を存じ改めずして落着、日本人の難儀になり候事これあり候」
朝鮮人が不快に思うことを構わず押し通し、日本人の不埒を改めずに一件落着させても、(長い目で見れば)日本人の不利益になることがある。
1729年(享保14年)、引退していたが、釜山への「特使」として派遣される。内容は、輸入品の品質を交渉することで、交渉はダラダラと2年もかかった。その間、正徳の朝鮮通信使の一員と再会した。倭館の隣に「誠信堂」がある。朝鮮人通訳等が滞在する建物である。彼が、その「誠信堂」を新築落成した。雨森芳洲は『誠信堂記』を著した。「誠信」こそが外交の基本だと格調高く説いた。
思うに、自分の誠信は疑わないのだが、相手の誠信は信用しない、ということばかり。自分は正義、相手は悪人、というわけだ。それでは外交にならない。雨森芳洲の『交隣提醒』を読んでほしい。
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太田哲二(おおたてつじ)
中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書