石岡市は奈良時代に国府が置かれた町だった。
『医薬経済』本誌の10月1日号では、茨城県石岡市の病院再編問題にも関わっている「地域医療構想」について確認しました。
地域医療構想は、2025年の医療需要と病床の必要量の推計から、4つの機能ごとに病床数を適正規模に見直して、地域の関係者の話し合いによって切れ目のない医療と介護の提供体制を目指すものです。14年6月に成立した医療介護総合確保法によって医療法が改正され、国の指針に沿って都道府県は地域医療構想を策定。医療計画の一部に位置づけられ、地域医療構想の実現を目指した医療・介護の提供体制の見直しが行われています。
医療政策は、国民の命に関わるもので、たくさんの国費も投入されています。日本全国どこの地域でも、効率的で質の高い医療の提供体制を維持していくために、地域医療構想に限らず、都道府県の医療計画は、国の政策に沿って作られており、「国家」と「地方」は切っても切れない関係にあります。
このように、医療に限らず、地域生活を営むうえで、「国家」という存在はさまざまに関与していますが、日本において「国家」と「地方」の関係が強まりだすのは、645年の「大化の改新」以降です。
天皇を中心とした政治体制を目指したときの政府は、翌646年に改新の詔を発表し、公地公民制や班田収授法を打ち出すとともに、地方の行政区画を定めて中央集権的な国家作りを始めました。
その後、701年に文武天皇の御代のもとで大宝律令が完成し、日本は本格的な律令政治が行われるようになります。全国は畿内・七道の行政区に分けられ、その下に国・郡・里(のちに郷と改称)が設けられました。そして、住民を戸籍・計帳に登録させ、50戸ずつの里で管理して、律令政治を隅々まで行き渡らせるような仕組みが作られました。
地方行政の中心となったのは「国」で、それぞれの「国」には政務を執り行う国庁が置かれ、中央から派遣された貴族が国司を務めました。そして、国庁の周辺には関連施設が作られたり、市が建ったりしたことで、人の往来が多くなり、国府として発展していきました。
石岡市は、その国府が置かれた場所だったのです。
当時、茨城県は常陸国と呼ばれており、その下に新治、白壁、筑波、河内、信太、茨城、行方、鹿島、那賀、久慈、多珂の11郡が置かれていました。平安時代の漢和辞書である『和名類聚抄(和名抄)』には、「常陸国府、在茨城郡、行程三十日、下十五日」と記されており、茨城郡に国府があったことが記されています。この茨城郡こそが、現在の石岡市です。
往時を忍ばせる「常陸国府跡」の石碑
『常陸国風土記』(全訳注 秋本吉徳 講談社学術文庫)には、常陸国は「いはゆる水陸の府臓。物産の膏腴といへるものなり。古の人、常世の国といへるは、蓋し疑ふらくは此の地にならむか」と記されており、海産物が豊富で、全県的に豊かな土地柄であったことがうかがえます。そして、茨城郡(現在の石岡市)は、「芳菲の嘉辰、揺落の涼候、駕を命せて向ひ、舟に乗りて遊ぶ」と紹介されおり、豊かな自然と、そこに集う人々の姿が描かれています。
茨城郡は、霞ヶ浦に続く恋瀬川と天王川によって形成された石岡大地に位置しており、古代から水上交易の拠点となっていました。西には筑波山系の山々がそびえたっており、多くの人が暮らし、集っていたこの地に、国府が置かれたのは自然の成り行きだったのかもしれません。
では、国庁とそれをとりまく国衙は、茨城郡のどこに置かれていたのでしょうか。諸説ありましたが、1970年、1998~2007年の間に複数回にわたって行われた発掘調査によって、常陸国の国府は現在の石岡小学校の場所にあったことが明らかになりました。
国府跡の発掘調査が行われた石岡小学校の校庭
校庭を広範囲に掘り起こした一連の調査で、国府中枢部の建物群のあとが数多く発見され、7世紀末から11世紀頃まで、この地が国府として機能していたことが推測されています。
7世紀末、国庁に先行して作られた初期官衙院は、東を正面とする建物群が建てられていました。その後、新たな国庁の建設が行われ、8世紀前半から9世紀後半には、南を正面としてコの字型に正殿、前殿、脇殿、楼閣などが左右対称に配置されるようになります。また、国庁の敷地は一辺約100mの正方形に区画されており、その境界線は塀で囲まれていたことが、発掘調査によって明らかになりました。さらに時代が進むと、国庁の西側には、曹司(戸籍や税の管理など、実務的な行政を行う施設)が建設され、地域一帯が国府として発展していった様がうかがえます。このように国庁の全容が確認された例は珍しく、常陸国の国府跡は全国的に貴重な遺跡といえそうです。
発掘調査を終えたあと、常陸国の国府跡は埋め戻され、現在は小学校の校庭として使われています。残念ながら国府の建物は現存していませんが、小学校の敷地内にある「石岡市立ふるさと歴史館」には、発掘調査の様子や国庁の模型などが展示されていて、往時を忍ぶことができます。
石岡小学校の敷地内にある「ふるさと資料館」
常陸国の国府跡は、石岡市が古代から交通の要所として栄え、国家との結びつきの強い歴史のある町であったことを物語っています。