薬学系の現地調査は創薬シーズ探索を目的とするものが非常に多く、そういう場合は、なるべくたくさんの種類の天然資源を収集することが調査での主たる作業になる。筆者の経験では、先に調査報告が少ない(あるいは皆無の)地域だった、中央アジア各国での現地調査は、この創薬シーズ探索のための資料と情報収集が多くの時間を占めた。調査旅行中の行動パターンとしては、なるべくこれまでに行っていないところ、新しい場所、を探してそこへ行く、ことになる。知らない場所に飛び込んでいくので、予想外の事態の連続になることも多く、一喜一憂、浮き沈みの激しい旅になる。冒険物語としてはこちらのタイプのほうが、面白い。


1995年。ホーチミン市内中心部に近いエリアの交差点。

自動車はほとんどなく、バイク、シクロが主な移動手段。自転車はあったが、高級品だった。


 他方、ひとつ、ふたつの研究対象を追いかけて、同じ場所に何度も通うようなタイプの現地調査もある。調査対象を全方位から知りたい、と思うような場合である。こちらは現地の人たちに顔馴染みができたり、異なる季節の行事や食べ物を楽しめたりするほか、その地域の年単位の時間経過による変化を観察することができる。多くの場合、調査地域の町や村の変化は、同じ時間内に起きる日本の街の変化よりも変動幅が大きく、それを、半年とか1年、あるいは数年に1回等の頻度で訪問してみることになるので、20〜30年も経つと、記憶の中にタイムラプスが作られているかのような感じになる。人であれば「お互い、老けたねえ」だし、街の様子は「綺麗になったねえ」である。


1995年。ホーチミン市内、中心部から少し外れた商業地区入り口の大通り。

2005年。上の写真と同じ大通り。綺麗な車のタクシーが走り、公衆電話も整備されている。

道路両脇の大きなフタバガキ科の街路樹だけが、変わらない風景。


 筆者の東南アジア地域での現地調査は後者のタイプであることが多く、ベトナム、タイ、ラオス、インドネシアなどの地方都市が、劇的に変化していく様を眺めてきた。この忘備録シリーズの(3)に書いた通り、筆者が初めて現地調査で訪れた外国の国はベトナムだったが、ベトナムには今もときどき調査に出かけている。今では、ベトナム人の若者がたくさん実習生として来日していて、日本の企業でベトナム国内に工場や支店を構えるところもたくさんあって、ベトナムは日本に馴染みのある国になったと思うが、90年代半ばにベトナムに調査に行くと言うと、半数以上の人から返された言葉は、「山の中は地雷が埋まっていて危ないんじゃないの?」であった。


 その頃、日本でベトナムに関連する話で有名だったのは、ベトナム戦争で米軍が散布した枯葉剤による市民の健康被害と、その影響で、二人の身体の一部が結合した形で生まれてきた双子の兄弟、ベトくんとドクくんの話題だったように思う。というより、今のようにインターネットで世界中がつながっている時代ではなく、ベトナムの人たちの普段の様子など、日本の一般市民には情報がほとんど届いていない状況で、日本から医療的支援が行われていたベトくんとドクくんの話は、いろんな意味で象徴的に日本国内で報道されていたという方が正しいのかもしれない。


1995年。ベトナム中部の田舎の村道。農村部には動力付きの移動手段等がほとんどないので、何もかもが人力頼み。

道の両脇にいる二人は、重い薪を担いで運ぶ途中、1本の棒に腰掛けるようにして休憩中。


 ベトナム戦争でアメリカに勝ってしまったベトナムは、戦後復興の際に手を差し伸べてくれた国がほとんど無かったのだそうだ。これは、現地で活動していた貧困対策NGOの職員を通して聞いた、ホーチミン大学の先生の話からの情報である。そんなところに、人と技術を持って実質的な復興支援に来たのが、日本だった、らしい。


 我々が、軍から払い下げられたおんぼろジープで田舎の山の中を走って薬用植物の調査をしたのが1995年ごろで、ベトナム戦争終結を1975年とすると、ちょうど戦後20年ほど経ってから、ということになる。ベトナムの山にも川がたくさんあるが、戦争が始まると、敵軍への物資輸送を断つために川にかかる橋はことごとく破壊されたそうである。戦後復興の際には、まずその橋を再建してインフラを整える必要があるが、ここに、日本の技術者と支援物資が大きく役立ったのだそうだ。確かに、都市からかなり離れた山奥の川の橋、里山の川にかかる橋にも、そのたもとには、それが日本の援助で作られた橋であることを、ベトナム語と日本語で記した記念碑が建てられていることが非常に多かった。


2001年。ホーチミン市内の生薬問屋街。人の移動も荷物の運搬も、ほぼ100%がバイク。

バイクの種類は、ホンダカブに代わって、タイ製やインドネシア製のバイクが急速に増えていた時期。


 この時の調査であちこち移動した際に、田舎の山中でベトナム語日本語併記の碑を見たのは、このたくさんの橋のたもとと、もうひとつ、たくさんの小学校の入り口だった。これから復興していく社会を担う子どもたちの教育は非常に重要だ、というベトナムからの要請に応えて、日本の資金的援助でたくさんの小学校が作られたらしい。


 ほかにも、日本からベトナムに送られたものはたくさんあったようで、神戸市バスや京都市バスのお古が、行き先表示もそのまま、ボディーの広告看板もそのままに市民の足として走っていたり、日本の建設会社の社名が入ったままのパワーショベルやクレーンなどの重機が土木工事現場で活躍していたり、何よりたくさんあったのは、新聞配達や銀行の営業廻りで使われていたホンダカブのバイクのお古だった。


 こんな様子だから、ベトナムでは日本からのモノには親しみがあって、それを一般市民もよく知っていたということだと思うが、都市部でも田舎でも、調査で突然やってきた我々エイリアンに対して、ベトナムの人々は親切で協力的だった。


 あれからさらに20年以上経ち、筆者は2015、2017、2019年にも同じ地域を訪問している。道路はきれいに舗装されて道幅も広くなり、家並みが広がって、あたりの風景は一変しており、かつての山の中の小さな橋と記念碑は、2015年に1ヶ所で再会したが、ほかはでは見ていない。ヒトやモノが多く行き交うようになって、道路とその周りが発展し、戦後復興は過去のものになったということだろうと思った。


2015年。ホーチミン市内中心部にある最も大きくて有名な市場の前。

ゴミが綺麗になくなり、道路は綺麗に舗装されて、観光名所のひとつになっている。日本の企業の看板もたくさん。


 フィールドワークはマクロレンズ的に一部を見るのも面白いが、こうして経験を蓄積してきたからこそ話せる、3D的な話もあるよなあと、ふと思った次第である。

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伊藤美千穂(いとうみちほ) 1969年大阪生まれ。京都大学大学院薬学研究科准教授。専門は生薬学・薬用植物学。18歳で京都大学に入学して以来、1年弱の米国留学期間を除けばずっと京都大学にいるが、研究手法のひとつにフィールドワークをとりいれており、途上国から先進国まで海外経験は豊富。大学での教育・研究の傍ら厚生労働省、内閣府やPMDAの各種委員、日本学術会議連携会員としての活動、WHOやISOの国際会議出席なども多い。