田んぼ鏡に魅せられて


 2020年2月、茨城県の石岡市、かすみがうら市、小美玉市は、3市合同で地域医療の課題を解決するための「石岡地域医療計画」を策定し、2つの民間病院を再編統合して、地域医療の中核となる新たな公立病院をつくることを発表しました。


 3市が医療計画づくりをしていたのは、地域医療構想の実現のために、厚生労働省が「再編・統合に向けた検討が必要な公立・公的医療機関」として、全国にある424病院(いわゆる424リスト)を名指しし、大混乱に陥っていた時期と重なります。国が公立・公的病院の縮小を促そうとするなかで、あえて公立病院をつくるという計画は、多くの人の目に突飛なことに映ったはずです。


 けれども、石岡地域の病院再編は、最初から公立病院の設立ありきでスタートしたわけではありません。計画づくりは、地域の医療関係者、地域医療に詳しい研究者などによって組織された「地域医療に係る対策を検討する専門委員会」で、地域医療の課題を解決するための具体策を協議したうえで、進められていきました。


 2019年9月に行われた専門委員会の第2回会合では、事務局から、次の3つの案が提示されました。


A案 既存病院の医療機能の拡充(増床を含む)

B案 地域内の複数病院の再編統合と病床の融通

C案 地域医療連携推進法人の設立

                                                                       

 このなかで、多くの委員が推したのがB案で、国の病院事業債を利用して公立病院を設立するというスキームが提示されていたのです。提案したのは、石岡市内で診療を行っている石岡第一病院を運営している地域医療振興協会で、会合に先立ち、一通の要望書が提出されていました。


 石岡地域の公立病院の設立計画は、地域医療の専門家が協議し、政策決定のプロセスを踏んだうえで出されたものでした。『医薬経済』本誌の5月15日号では、専門委員会で提示された3つの再編案を、当時の発表文書をもとに整理しています。ぜひ、こちらも読んでみてください。


 現状では、公立病院の設立計画は白紙となり、石岡市は改定された医療計画のもとで、医療の提供体制の充実を目指しているところです。とはいえ、産科は再開されておらず、休日夜間の初期救急の停止したままで、根本的な解決には今しばらく時間がかかりそうです。


 それでも、いやおうなく季節はめぐり、2020年2月に石岡地域医療計画が発表されてから、3回目の新緑の季節が訪れました。木々が芽吹き、日に日に山の緑が濃くなるこの時期は、石岡市の八郷地区が一年でいちばん美しい季節です。八郷に移住してから、毎年、この季節になると、今か今かと待ち望むようになったのが田んぼに水が入る瞬間です。


 農村地帯の八郷地区では、4月の中旬になると、田起こしのためのトラクターが町中を走りまわり、田植えの準備が始まります。そして、稲を植えやすくするための代掻きをして、地表を平にならすと、田んぼに水が入れられます。


 冬の間、カラカラに乾いていた田んぼは、満々と水が張られると、巨大な水鏡に変身します。そして、その田んぼ鏡には、周辺の美しい景色が映し出されるのです。


 青空に浮かぶ白い雲。新緑に覆われた里山。夕日に染められた赤い空。そして、圧巻なのが、逆さ筑波です。八郷地区の西側に位置する筑波山が、たんぼ鏡に逆さに映るさまは、ため息が出るほどの美しさで、1日中でも眺めていたいほどです。


石岡市八郷地区の田んぼ鏡に映る逆さ筑波


 この田んぼ鏡が見られるのは、1年のうちで、ほんの1週間ほど。稲が生長し、背丈が大きくなりだすと、水面は緑に覆われて、あっという間に田んぼ鏡は消えてしまいます。ほんの一瞬しか見られない儚さを秘めているからこそ、田んぼ鏡はより美しく感じるのかもしれません。


 でも、このところ、田んぼ鏡には、あちこちに虫食いが見られるようになっています。農業人口の高齢化などによって、耕作されずに荒れ地となった田んぼや畑が目につくようになっているからです。それは、私が移住した2016年以降もジワジワと進んでいるように感じます。


 毎年5月の田んぼ鏡は、田起こしや代掻きをして、水を張り、田植えをしてくれる人がいるからこそ、見ることができる風景であって、当たり前のことではないのだと。知らない誰かが、その風景を作り出してくれているからこそ、その美しさに感動できるのだということを、虫食いの田んぼ鏡を見ると痛感させられます。


 田んぼには、米をつくるという役割のほかにも、土砂崩れや土壌の流出、洪水を防ぐ巨大な水がめの役割も担っています。また、カエルやホタル、トンボなどの生物を育てる独特の生態系があります。その田んぼが減ってしまうということは、食料自給の問題に加えて、自然災害の頻発や生態系の破壊など、環境への影響も心配されます。


 「茨城県常住人口調査」によると、2021年10月1日現在の石岡市の高齢化率(人口に占める65歳以上の人の割合)は34.4%で、全国平均の29.1%を上回っています。地域医療の問題も、根本にあるのは人口減少や高齢化で、農業の担い手不足と同じ構造を持っています。


 「林檎の南限、蜜柑の北限」というキャッチフレーズの通り、石岡市の魅力は肥沃な土壌が生み出す農産物です。今後、どのように農業の担い手を増やすのか、少ない人口で農地を守る仕組みをどのように作っていくのかも、医療問題とともに石岡市の重要な課題となっています。