(1)日本3大妖怪


 民俗学者の小松和彦(1947~)は、「中世京都の人々は、日本3大妖怪として、酒吞童子、玉藻前、大嶽丸を挙げる」と論じている。3妖怪の死骸・首は、いずれも「宇治の宝蔵」に収められたとされている。妖怪の死骸が「お宝」として大切に保管されるという思想の説明は省略。「宇治の宝蔵」とは、「宇治平等院」のことと推測されるが、妖怪の「お宝」はないようだ。


 大江山の酒吞童子は、『昔人の物語(71)・源頼光』昔人の物語(71) 源頼光「酒呑童子を退治したヒーローだが……」 | 医薬経済オンライン (iyakukeizai.com)を参考にしてください。大酒飲みの鬼で、源頼光が退治する。


 大嶽丸(おおたけまる)は鈴鹿山に住む鬼で、暴風・雷雨・火の雨を操る。坂上田村丸が鈴鹿御前(天女)と協力して退治する。鈴鹿御前はスケベ観客大喜びのエロシーンとなっている。なお、征夷大将軍・坂上田村麻呂の歴史的事実とは無関係に、坂上田村丸は物語・説話・伝説として頻繁に登場する架空の人物である。


 玉藻前(たまものまえ)の正体は妖怪狐で、モデルは美福門院とされている。


 とりあえず、玉藻前のお話を簡単に紹介します。玉藻前のお話は、いろいろなバリエーションがあるので、最大公約数と思ってください。


 その正体な「九尾の狐」という物凄い妖狐である。


 最初は古代中国・殷王朝の最後の王・紂王(ちゅうおう)の妃・妲己(だっき)として登場した。「酒池肉林」どころか暴虐非道の日々で、周の武王に滅ぼされた。武王の軍師が、名高い太公望(呂尚・りょしょう)である。妲己は処刑を免れるため妖術を用いるが、太公望は照魔鏡で妖術を防ぐ。妲己は、やむなく九尾の狐の姿を現す。そこを、すかさず宝剣で狐を3つに切り離す。3つに裂かれた狐の各部は、上空に飛び去り消えた。


 九尾の狐は、天竺のマガダ国の斑足王の妃・華陽婦人として復活。斑足王は千人の王の首をとろうと連続殺戮をなした。医師・ジーヴァカ(耆婆、ぎば)は、華陽婦人の正体を見破り、薬王樹の杖で打つ。そのため、空に飛び去る。なお、古代インドでは非常に医学が発達していて、疱瘡のワクチンすらあった。


 その後、九尾の狐は少女に化けて、奈良時代に遣唐使船に乗って日本へやってきた。


 子供がいない夫婦によって育てられ、メチャ美少女に成長。宮中の下働きとなるや、すぐに超美貌なるがゆえに、鳥羽上皇の女官となり、鳥羽上皇の寵愛を受け、「玉藻前」(たまものまえ)と呼ばれるようになる。玉藻前は美貌だけでなく教養も振舞いも超一流で、鳥羽上皇は玉藻前にゾッコンとなる。


 その頃から、鳥羽上皇が次第に原因不明の病に犯され床に伏せるようになった。陰陽師・安倍泰成(やすちか)は原因が玉藻前であり、本性が九尾の狐であることを見破る。安倍泰成は有名な安倍晴明の5代目である。呪術合戦の結果、敗れた玉藻前は逃走して姿を隠す。


 しばらくして、九尾の妖狐が下野(しもつけ、現在の栃木県)の那須野原に現れた。


 朝廷は討伐軍を編成する。三浦義明、千葉常胤(つねたね)、上総広常、そして、陰陽師・安倍泰成、数万の大軍勢で妖狐退治に向かった。合戦経過は省略して、妖狐は息絶えた。


 しかし、九尾の狐は、死してなお、巨大な毒石『殺生石』へと姿を変えた。この『殺生石』は、鳥羽上皇の崩御後も、近づく生物を殺し続けた。


 二百数十年後、源翁(げんのう、1329~1400)和尚が殺生石を打ち砕いた。そのカケラは全国に飛散した。その結果、全国各地に殺生石なる石がある。また、石を砕く大きな金づちを「ゲンノウ」と呼ぶようになった。


 なお、この話では、鳥羽上皇を病気にさせただけで、古代中国・天竺のような非常な悪逆・非道をしていないと思われるかも知れない。しかし、玉藻前のモデルである美福門院は保元・平治の乱の元凶で、死刑のない貴族の平安時代を終わらせ、親兄弟間で殺し合う武士の時代を到来させたのである。


 余談の余談ですが、九尾の狐の話だけだと、狐に申し訳ない気がするので、狐について。仏教などの思想が流入する以前の古代大和にあっては、ネズミは穀物を食い荒らしたり、田の土手に穴を開ける害獣で、ネズミを食べる狐は益獣であった。狐の尿をつけた石を置くとネズミが来ない効果があると経験的に知られていた。ネズミの害を防止するため、田や食料倉庫の近くに祠を設けて、狐の好物(例えば油揚げ)を供えて狐を餌付けするようになった。そんなことで、狐は神様として信仰された。


 その一方で、狐が人騙す妖怪であるという外来思想が流入された。従って、日本には、良い狐と悪い狐が混在するようになった。良い狐にしろ悪い狐にしろ、狐の超能力話は1960年代になって、急速に消滅していった。


(2)女院の時代


 美福門院が活躍した時期は、「女院全盛」であった。女院を語らずして、平安末期から鎌倉初期の日本史はわからないのだが、今なお、あまり語られない。


 女院とは、平安時代中期に創設された朝廷での女性の地位で、明治維新で廃止された。明治政府の男尊女卑思考のひとつである。女院になった女性は総数百人以上であるが、平安末期から鎌倉初期は「女院全盛」であった。つまり、その頃は女性が政治権力のど真ん中に位置していたのである。その頃の女院でとりわけ有名な女院を4人列記します。〇数字は、何番目の女院かを示している。


⑥待賢門院……藤原璋子(1101~1145)――1124年(女院宣下年、以下同じ)「たまこ」とも「しょうし」とも読まれる。

⑧美福門院……藤原得子(1117~1160)――1149年「なりこ」とも「とくし」とも読まれる。

⑪八条院……暲子内親王(1137~1211)――1162年

⑮建礼門院……平徳子(1155~1214)――1182年


(3)藤原璋子(待賢門院)と藤原得子(美福門院)の対立


 鳥羽天皇(第74代、在位1107~1123、生没1103~1156)は、5歳で第74代天皇に即位した。政務の実権は白河法王にあった。つまり、白河法王の院政である。鳥羽天皇15歳のとき、白河法王の養女・藤原璋子(後の待賢門院)17歳が入内し、中宮となった。藤原璋子は大変な美女である。しかも、白河法王は、璋子を性的快楽に奔放な女性に育てあげた。白河法王との男女関係が公然の秘密であった。


 それだけでなく、多くの男性との男女関係が噂されていた。白河法王の淫乱話は、多すぎるほどあるが、白河法王に文字通り肌を接して育てられた璋子が、そうなるのも当然だろう。鳥羽天皇は、藤原璋子のスキャンダル噂を承知していたものの、絶対権力者白河法王の命令には逆らえず璋子を中宮とした。しかしながら、鳥羽天皇は璋子の類希なる美貌と性的魅惑の虜になって、5男2女を儲ける。


 鳥羽天皇は20歳で、第1皇子・崇徳天皇(第75代、鳥羽と璋子の子、ただし、白河と璋子の子という噂もある)に譲位したが、相変わらず白河院政が継続した。白河院政の絶対性を象徴する言葉として、『平家物語』に「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞ、わが心にかなわぬもの」とある。


 そして、1129年、白河法王が77歳で崩御した。政務の実権は、崇徳天皇か鳥羽上皇か、いずれに移るか……。結果は鳥羽上皇の院政が始まった。白河法王亡き後の鳥羽上皇は、いろいろな女性に手を出したが、藤原得子(後の美福門院)を猛烈に寵愛し始めた。


 藤原得子は、いわば中流貴族の出身である。当時の常識としては、名門ではない。鳥羽上皇の猛烈な寵愛の結果、娘2人を生み、そして待望の男子出産。


 この男子は、1142年、わずか3歳で近衛天皇(第76代、在位1142~1155、生没1139~1155)として即位する。


 この即位は陰謀によって成し遂げられた。


 崇徳天皇が譲位しなければ、近衛は即位できない。


 藤原得子は考えた。「どうしたら、崇徳天皇はスンナリ譲位するだろうか?」


 崇徳天皇が譲位して上皇となり院政を行えれば、スンナリ譲位するだろう。院政は「子が天皇の場合、親が院政を行える」ということなのだが、問題は崇徳天皇の子である。


 崇徳天皇の中宮は藤原聖子(関白藤原忠通の長女)で、円満夫婦であるが子がいない。そこで、藤原得子は、生まれたばかりの近衛を藤原聖子の養子にしたのだ。その後、崇徳天皇と女房・兵衛佐局の間に、重仁親王が誕生したが、こちらは藤原得子の養子とした。


 藤原得子は、崇徳天皇に働きかける。


「子(養子)の近衛に譲位すれば、父(養父)であるあなたが院政を行えますよ」


 崇徳天皇は、それを信じた。


 そして、崇徳天皇は譲位したが、詔勅を見て仰天した。そこには、「皇太子」(天皇の子供)ではなく「皇太弟」(天皇の弟)と書かれてあった。

 

 整理します。


 崇徳天皇(第75代)……鳥羽天皇(第74代)と藤原璋子(後の待賢門院)の子。鳥羽天皇の祖父である白河天皇(法王)の子という噂もある。


 近衛天皇(第76代)……鳥羽上皇と藤原得子(後の美福門院)の子。生まれてすぐ藤原璋子の養子になった。


 つまり、近衛は崇徳天皇の異母弟であり、崇徳天皇の子(養子)でもある。詔勅に「近衛は弟」と書かれてしまっては、崇徳は院政をできない。鳥羽上皇の院政が継続された。崇徳天皇は、藤原得子と鳥羽上皇に騙されたのだ。


 藤原得子の内心は、「藤原璋子なんかに負けませんわ。あちらさんは名門の出でしょうが、なにさ、夫(鳥羽)と祖父(白河)の2人相手の変態女じゃないの。もともと、変態女の子の崇徳なんて、私は嫌いだったの」って、感じかな。


 鳥羽上皇の心理は、「自分は天皇になっても上皇になっても、祖父(白河)の院政で自分は操り人形に過ぎず不自由だった。祖父(白河)の胤かも知れない崇徳なんて、好きじゃない。でも、藤原璋子はいい女だな~」って、感じかな。


 1142年、近衛天皇が即位すると、藤原得子は天皇の母(国母)を根拠に、鳥羽上皇の妃なのに「皇后」となる。これは異例・特例な事件であった。そもそも、中流貴族出身者が皇后になれるわけがないのである。そして、皇后得子を中心に、政治勢力が一挙に形成される。現代なら「得子新党結成」である。


 さらに同年には、皇后得子を呪詛する事件、すなわち日吉社呪詛事件・広田社巫呪詛事件が連続的に発覚し、その黒幕は藤原璋子(待賢門院)であるとする風評が流された。また、崇徳院は白河法王の胤とする風評も流された。「得子新党」の初仕事は藤原璋子と崇徳院へのプロパガンダであった。鳥羽上皇の寵愛が藤原璋子へ向かっては「得子新党」は壊滅してしまう。そのためには、徹底的に藤原璋子を排除する必要性があった。


 かくして、藤原璋子は出家し、1145年に45歳で崩御した。鳥羽上皇は、臨終に駆け付け大声で泣き叫び悲しんだ。藤原得子はニヤリと安堵したことだろう。


 歴史を知る者は、その後の保元の乱(1156)、崇徳院の悲劇を見ずに崩御したことは、よかったかもしれないな~、と思ったりする。


 1149年、藤原得子は、美福門院の女院号を宣下された。得子の体制は、一応は、盤石となった。


(4)多子と呈子の入内競争


 中流貴族出身の美福門院(藤原得子)は、ライバルの藤原璋子(待賢門院)が名門出身であったため、家柄コンプレックスがあったと思われます。亡き父を太政大臣の地位を贈ったり、母を正一位にしたり、上流貴族からすれば、やりたい放題であった。従って、上流貴族の多くは、口には出さずとも内心は「成り上がり女が、出鱈目をやっている」と思っていた。


 その代表格は摂関家の藤原頼長(1120~1156)である。この頃の摂関家は、長男の摂政藤原忠通(親得子派)と三男の左大臣藤原頼長(反得子派)が対立していた。そして、朝廷内の実力では藤原頼長が上にあった。


 1150年正月4日、近衛天皇が元服となった。さぁ、誰を嫁に選ぶか……。ここに、多子・呈子の入内競争が展開される。


 正月10日、藤原頼長の養女・多子(1140~1202)が入内、近衛天皇12歳、多子11歳である。19日に女御となり、3月14日に皇后となった。


 同年、4月21日、藤原忠通の養女・呈子(1131~1176)20歳が入内。呈子は美福門院(藤原得子)の養女でもあった。6月22日、中宮となる。


 この入内競争で、頼長と忠通は決定的に対立することになった。


 美福門院は、当然ながら、呈子の早期出産を期待する。そして、美福門院の念力もむなしく、漫画的な想像妊娠の大騒ぎとなった。


 それにしても、貴族の権力争いは、武士の時代と違って合戦・殺人がなく、「どの女性が愛されるか、どの女性が男子を出産するか」ということで、実に平和的と言うか、おとぎ話的と言うか、当事者は真剣・必死なのだが、のどかだな~と思ってしまう。


(5)近衛天皇の崩御


 そうこうしていたら、元来病弱な近衛天皇は、1155年、子供がいないまま、17歳で崩御する。さぁ、後継ぎは?


 美福門院(藤原得子)には、持ち駒としては、2人の養子がいた。すでに、近衛天皇が子供なしで崩御した場合の対策を整えていたのである。


 第1は、重仁親王。前述したように、崇徳天皇と女房・兵衛佐局の間に生まれた男子である。


 第2は、守仁王。これは、鳥羽天皇と藤原璋子(待賢門院)の子で、崇徳天皇の弟である雅仁親王の子である。しかし、守仁王(1143~1165)は出家するため仁和寺に住んでいたので枠外とみなされていた。


 ここで、美福門院は考えに考えた。


 重仁親王を天皇にすれば、実父である崇徳院が力をつけ院政を始めるのではないか……と。従って、次期天皇は、守仁王が望ましい。


 あれやこれや議論があって、最終的に、守仁王は若すぎるので、中継ぎワンポイントリリーフとして、雅仁親王が第77代天皇となった。これが後白河天皇(在位1155~1158、生没1127~1192)である。


 なお、雅仁親王(後の後白河天皇)は、家系図からすれば天皇候補になってもいいはずだが、当初から論外の人物だった。理由は、勉学を一切せずに、毎日毎晩遊び惚けていたからで、誰もが認めるアホ馬鹿親王だったのである。


 美福門院・藤原忠通・信西らは、「鳥羽上皇―後白河天皇―守仁王」の新体制を構築していたら、1156年7月、鳥羽上皇が崩御した。そして、保元の乱の勃発。乱の経過は省略するが、結果は「後白河」側の勝利、「崇徳院」側の敗北である。崇徳院は讃岐へ流される。死後、怨霊となる。日本3大怨霊とは、菅原道真、平将門、そして崇徳院である。

 

 乱後の1158年、当初の約束どおり、後白河天皇は譲位し、守仁王が二条天皇(第78代、在位1158~1165、生没1143~1165)に即位した。これは、「仏と仏との評定」と言われるもので、美福門院と信西(後白河天皇の側近)の2人の話し合いで決まったのである。美福門院は、守仁王の即位を熱望していたのである。


 二条天皇の即位は実現したが、今度は、信西一派、二条天皇親政派、後白河院制派の対立が生まれ、平治の乱(1160年1月)へと繋がる。


 そして、1160年11月、美福門院の崩御、44歳である。


 鳥羽上皇は、自分の遺骸を納めるため安楽寿院(京都市伏見区)境内に本御塔を設置した。その隣に、美福門院の遺骸を納める新御塔を準備しておいた。しかし、美福門院は新御塔に納められることを拒否した。そして、彼女の遺言どおり、火葬して高野山に納められた。


 なぜだろう。美福門院は、100%鳥羽上皇を愛していなかったのだろう。鳥羽上皇は待賢門院が死ぬまで好きだった、たぶん、それが気に入らなかったのだろう。いやいや、そんな浮いた話ではない、美福門院の超能力密教、高野山信仰に原因があるのではないか。謎だな~。


 なお、美福門院の莫大な財産(荘園)は、鳥羽上皇と美福門院の娘の曈子(あきこ)内親王に相続された。彼女は近衛天皇崩御の新天皇の候補名にノミネートされている。曈子内親王は、美福門院の死の直後に、八条院という女院になった。それから、安徳天皇が西走して京が天皇不在になったときも、新天皇候補になった。美福門院の娘・八条院も、相当の政治力を有していた。


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太田哲二(おおたてつじ

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。