(1)『日本文徳天皇実録』に登場


『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』を「六国史」という。これは、日本国家の正史である。その『日本文徳天皇実録』の854年7月22日の記事は、「米糞聖人」(こめくそせいじん)である。正史に書かれてあるということは、実話ということです。

 

 原文は漢文です。


《卷六齊衡元年(八五四)七月乙巳【廿二】》○乙巳。備前國貢一伊蒲塞。斷穀不食。有勅。安置神泉苑。男女雲會。觀者架肩。市里爲之空。數日之間。遍於天下。呼爲聖人。各乞私願。伊蒲塞仍有許諾。婦人之類。莫不眩惑奔咽。

後月餘日。或云。伊蒲塞夜人定後。以水飮送數升米。天曉如廁。有人窺之。米糞如積。由是聲價應時減折。兒婦人猶謂之米糞聖人。


 漢文のままでは理解困難なので、私なりに、注釈を交えて現代文に直してみました。


 854年7月22日 備前国は、(京が僧侶不足なので、京の求めに応じて)ひとりの在家僧を推挙した。


「伊蒲塞」とは優婆塞(うばそく)と同義語である。仏教徒で在家の男性信者は優婆塞といい、女性信者は優婆夷(うばい)という。


 この在家僧は、「断穀不食」すなわち、穀を断ちて食らわず、と紹介宣伝された。五穀あるいは十穀を食べない、ということは、当然、獣・魚も食べない。食物を焼いたり煮たりもしない。木の実や草のみを、そのまま食べると推理される。修験道の開祖である役小角(えんのおづぬ、通称「役行者」、624~701)も、主食は松の葉とされている。


 役小角に関しては、「昔人の物語(81)役小角」を参照ください。「断穀不食」の修行は、役小角のように、ものすごい霊能力・超能力が身につくと信じられていた。なお、「穀断」は、中世以降「木喰」(もくじき)とも言われるようになった。


 勅命によって、神泉苑に迎えられた。


 このときの天皇は、第55代文徳天皇(在位850~858、生没827~858)である。神泉苑とは、平安京大内裏に接してつくられた広大な庭園である。平安末期から荒廃・復興が繰り返され、現在は、かつての一部のみが、東寺の管理で存続している。


 善男善女が雲のように大勢集まり、(生き仏を見るように)仰ぎ見た。そのため洛中は人が消えたように閑散となった。数日の間に天下に広まり、皆は彼を「聖人」と呼んだ。各自は自分の願い事を彼にお願いした。彼はその願いを聞き入れた。婦人たちで、目が眩んで嗚咽しない者はいなかった。


 しかし、「後月餘日」(1~2ヵ月)もすると、ある噂が流れた。あの在家僧は、夜、皆が寝静まってから、水を以って数升の米を飲み込む。そして、朝に厠へ行く。ある人が厠を覗いた。すると「米糞如積」、すなわち、米糞が山のように積もっていた。


 これによって、聖人という評価は消滅した。子供・婦人たちは、彼を「米糞聖人」と言った。


 余談になりますが、「以水飮送數升米」に関して。直訳は「水を以って数升の米を飲み込む」となります。この「米」とは、もみ殻を取っただけの「生米」なのか、それとも、「干し飯」(ほしいい)を意味しているのか……。「干し飯」なら、現代の防災備蓄食料などに使われる「アルファ米」と同じである。お湯なら15分、水なら60分で、普段食べる「ご飯」になる。


 では、「生米」を水と一緒に飲み込むとどうなるか。生米を歯で砕いて水を飲んでも、非常に不味いことは確かである。飲み込むのではなく、噛んで食べると固いので「こめかみ」が痛くなるらしい。そのため、「こめかみ」という単語が生まれたらしい。ということは、古代では、薪が入手困難なときなどは、生米を食べたようだ。現代日本の料理は、肉ですら非常に柔らかく、外人が言うには「日本食は顎が要らない」という。とにかく、生米はとても固いのである。


 古代日本人が、生米を食べるにしても、噛んで食べるが、この在家僧は、歯が悪いのか、顎が弱いのか、噛まずに水で飲み込んでいたわけで、非常に消化が悪い。そのため、糞と一緒に米が出たのであろう。


 さて、この「米糞聖人」なる大ペテン師のその後の運命は、どうなったか。何も記録がないので、わからない。平安時代は「死刑のない時代」という、まことに大らかな時代なので、処罰されることもなく、こっそり逃げて、どこかで生き永らえたのだろう。


 それから一言。『日本文徳天皇実録』の編者は、天皇を巻き込んだスキャンダルを正史に堂々と掲載したわけで、そこにいかなる政治的背景があるのか知りませんが、かなり勇気ある行動と推測します。それから、「正史に書いてあるから事実だ」という一般論に対して、「小さな事件を大袈裟に記述した」に過ぎない、という見解もあるようだ。大か小か……、ただ事件はあったに違いない。


(2)歴史家、法学者、大学者、宗教家も重大視した


 天皇を含め京の全住民が、一旦は、このペテン師を信じた。「平安時代の人間はバカだった」と思ってはいけません。現代の選挙風景を想起すれば、「実現不可能な公約」を信じてしまう有権者は少なくない。信じるというか、「どうせ選挙公約なんて、口先だけ。でも、ひょっとしたら……」程度の感覚かも知れない。それでもって、「実現不可能な公約」を掲げた者が当選することもある。


 さらに、マスコミなどは「実現不可能な公約」を忘れて、その当選者を称賛することもしばしばである。平安時代の人間はペテン師の嘘を1~2ヵ月で見破り、事実上、見限った。でも、現代マスコミは、「実現不可能な公約」の者を、いつまでも称賛している。どう考えても、平安時代の人間のほうが、現代人よりも賢い。なんともはや……、ため息は健康によくないので、深呼吸をしよう。


 それはともかく、「米糞聖人」の事件は、珍しい大事件であった。だから、その後も、しっかり記録した。再び、バカな事件が発生しないように、という戒めにしたのである。


『日本紀略』は、編纂者は不明であるが、平安時代末期に編纂された歴史書で、「六国史の抜粋」プラス「六国史最後の年」(887年~1036年」が記されている。「米糞聖人」の事件は、歴史書編纂者にとっても、しっかり掲載し、記憶に残すべき事件だったのである。


『政事要略』は、明法博士の惟宗允亮(これむね・の・まさすけ、?~1009)が編集した政務運営の事例集。ここにも、「米糞聖人」は記載されている。法律家にとっても、「米糞聖人」事件はしっかり記録すべきものだったのである。


 室町時代の一条兼良(1402~1481)は、摂政・関白・太政大臣を務めた公卿であると同時に、数百年に1人という大学者である。大学者・一条兼良の『令抄』にも、「米糞聖人」を僧尼令違反の破戒僧の事例として取り上げられている。


 なお、一条兼良の主要著書は70歳以降である。子供は全部で26人と推定されているが、そのうち、70歳以降が3人である。精力絶倫の方法は、彼の著書『尺素往来』に詳しく書いてあるということなので、暇な人は調べてみてください。薬草の話が中心かも知れない。


 江戸時代の泊如運敞(はくにょ・うんしょう、1614~1693)は、真言宗智山派の最高学僧で、徳川家綱(4代将軍、在職1651~1680、生没1641~1680)、後水尾上皇(108代天皇、天皇在位1611~1629、生没1596~1680)からも帰依を受け、智山派全盛を築いた。


 真言宗は空海(弘法大師)を開祖とするが、時代が下るに従って、組織分裂が繰り返され、8派が存在するのか、10派以上が存在するのか、複雑な経過があり、私にはよくわからない。ともかくも、泊如運敞が活躍していた頃は、真言宗智山派の全盛期であった。


 泊如運敞の『寂照堂谷響集』巻5の「贋僧が人をたぶらかす話」の中に、「米糞聖人」が登場している。『寂照堂谷響集』は、智山派の役職を引退し、寂照堂に隠せいしているときに、来客の質疑への応答を侍者に筆記させたものである。全680項目のうち、400余項目(整理して368項目)の抄訳が『佛事百般釈義問答―谷響集―抄訳』(青山社刊)となっている。


 泊如運敞は当時の仏教の最高学識の僧であるが、その霊能力も優れていて、1668年の大旱魃に際して雨乞いを成功させた。


 このように、硬い本にも、「米糞聖人」事件は度々登場した。それだけ、この衝撃的事件は、忘れてはいけない事件、教訓にすべき事件と意識されていた。


(3)『今昔物語』『宇治拾遺物語』


 さりながら、一般庶民は、前述のような硬い書物を読む機会がない。そこで登場するのが説話である。日本3大説話集とは、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』『古今著聞集』(ここんちょもんじゅう)を云う。そして、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』には、「米糞聖人」の話が登場している。


『今昔物語集』は、編者・作者は不明で、平安時代末期の成立とされている。各説話の冒頭は「今は昔」で始まり、最後は「と、なむ語り伝えたると也」で終わる。そんなことで、『今昔物語集』と通称されている。全31巻、約1200話。ただし、8巻・18巻・21巻は所在不明。芥川龍之介の『羅生門』・『鼻』は『今昔物語集』の中にある。また、水木しげるや甲斐謙二の漫画にもなっている。誰しも、『今昔物語集』のいくつかの説話は、聞き覚えがあると思う。


『今昔物語集』巻28の第24話が「米糞聖人」の説話である。『今昔物語集』では「穀断聖人」となっている。原文のままだとわかりにくい部分は、やや直してあります。


 穀断聖人(こくたち・の・しょうにん)、持米被咲語(よねをもちて・わらはるること) 第24

 今は昔、文徳天皇の御代に、波太岐の山という所に聖人あり(※波太岐の山がどこかは不明)。穀を断て、年来(としごろ)を経(へ)にけり。

 天皇、此の由(よし)を聞こしめして、召出(めしいだ)して神泉にすえられて、帰依せさせ給う事かぎりなし。此の聖人、永く穀を断たる者なれば、木の葉を以って食としてなむ有ける。

 しかる間、数人の若く勇たる殿上人は物笑いす。「いざ、行って彼の穀断の聖人を見む」と言って、彼の聖人の居たる所に行ぬ。

 聖人の極(いみじ)く貴気にて居たるを見て、殿上人たち、礼拝して問て云(いわく)。「聖人、穀を断て何年(いくと)せに成給ひす。また、年は何(いくつ)にか成給ふ」と。

 聖人の云く、「年すでに七十にまかり成ぬるに、若(わかく)より穀を断たれば、五十余年にはまかり成ぬ」と云う。

 それを聞いて、一人の殿上人が忍びて云く、「穀断のしたる屎(くそ)は何様(いかよう)にか有らむ。普通の人とは、似ていない。さあ、行て見む」と云合せて、二三人だけで、厠に行て見れば、米屎を多く痢(ひ)り置たり(※痢は腹下しの意味)。

 此れを見て、穀断はいかで此(か)くは可為(すべ)きぞと怪(あやし)び疑ひて、聖人の居所に返り行たれば、聖人がちょっと座をはずしている間に、居たる畳を引返して見れば、板敷に穴有り。下に土を少し堀(ほり)たり。怪しと思てよく見れば、布の袋に白き米をつつみて置たり。殿上人たち此を見て、さればよ(※やはりそうか)と思て、畳をもとの如く敷て居るに、聖人返(かえり)ぬ。

 其の時に、殿上人たち頬(ほほ)咲(ゑみ)て、「米屎(よねくそ)の聖(ひじり)、米屎の聖」と呼びののしりて咲(わらひ)ければ、聖人、恥て逃て去けり。其の後、行けむ方を人知らずして止(やみ)にけり。

 人の謀(はかり)て貴ばれむと思て、密に米を隠して持たりけるを知らずして、穀断と信じて、天皇も帰依せさせ給ひ、人も貴びける也けり、となむ語り伝へたると也。


 要するに、『日本文徳天皇実録』の「米糞聖人」の実話が、『今昔物語集』では若干脚色された「穀断聖人=米屎の聖」の説話になった、ということです。


 次に、『宇治拾遺物語』に移ります。


『宇治拾遺物語』も、編者・作者は不明で、鎌倉時代前期の成立と推定されている。全15巻、197話である。先行する『今昔物語集』とは約60話と類似の説話がある。「宇治拾遺」の意味は、宇治大納言が編纂した説話集『宇治大納言物語』から漏れた説話を拾い集めた、という意味である。残念なことに、『宇治大納言物語』は存在していたことは間違いないが、現存しない。『宇治拾遺物語』には、「わらしべ長者」「雀の恩返し」「こぶとりじいさん」など、なじみ深い説話がある。


 そして、『宇治拾遺物語』巻12の第9話が「穀断ちの聖(ひじり)露顕(ろけん)の事」で、「米糞聖人」の話である。内容は、『今昔物語集』の「穀断聖人=米屎の聖」とほぼ同じなので割愛します。


 ついでなので、『古今著聞集』について。鎌倉時代前期に橘成季(?~1282?)が編纂した。20巻726話ある。ここには「米糞聖人」の話はありません。


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太田哲二(おおたてつじ

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を10期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。『「世帯分離」で家計を守る』(中央経済社)、『住民税非課税制度活用術』(緑風出版)など著書多数。