(1)女流俳人のナンバー3は大勢
江戸時代の俳人と言えば、松尾芭蕉(1644~1694)、与謝蕪村(1716~1784)、小林一茶(1763~1828)です。
それでは、女流俳人は誰だろう。
江戸時代の女流俳人で最も有名な人物は、加賀千代女(かがのちよじょ、1703~1775)です。朝顔を多く歌っていて、次の句は、誰しも聞き覚えがあると思います。
朝顔に つるべ取られて もらい水
加賀千代女の出身地である石川県白山市では、朝顔は市のシンボルになっています。『近世畸人伝』(1790年出版)の100人の中にも登場しています。
ナンバー2は、田捨女(1634~1698)ではなかろうか。兵庫県丹波市では、有名人である。代表作は、次の句で、これも、誰しも聞き覚えがあると思います。
雪の朝 二の字二の字の 下駄の跡
正岡子規(1867~1902)は、元禄四俳女として、智月尼(1633~1718)、斯波園女(1664~1726)、秋色女(1669~1725)、そして、田捨女を挙げています。
加賀千代女、田捨女までは、まぁまぁわかるのですが、「ナンバー3は誰だろう?」となると、もう、さっぱりわかりません。「ナンバー3は大勢いる」ということで、ご勘弁を。
「大勢」の中から、任意にピックアップしてみます。
●智月尼(1633~1718)は、河合智月(かわいちげつ)が本名で、山城国(現在の京都府)の生まれで、近江国の大津で生活した。芭蕉の女性門人のトップです。芭蕉は、かなり多く大津の智月尼の自宅を訪れています。どの句が代表作なのか知らないので、句は省略します。
●斯波園女(しばそのめ、1664~1726)は伊勢の神官の娘で、医師の斯波一有と結婚、そして夫婦で大坂に移住した。そして、芭蕉の弟子となった。俳句と同時に雑俳でも活躍した。雑俳は、俳句のようだが俳句ではないものの総称です。夫の死後、江戸の宝井其角(1661~1707)を頼って江戸へ移住した。宝井馬琴は芭蕉の弟子です。
●秋色女(しゅうしきじょ、1669~1725)は江戸の菓子屋に生まれた。現在も、港区三田3丁目の秋色庵大阪屋として存在しています。宝井其角に入門した。「秋の色の女って、どんな女?」ということなのか、数々の伝説が生まれ、錦絵・講談・歌舞伎の題材になりました。
●諸九尼(しょきゅに、1714~1781)は筑紫国(現の福岡県)の庄屋の娘として生まれ、やはり庄屋の男と結婚した。そして、26歳の人妻は旅の俳諧師有井湖白(後に浮風と改名)と出会い、駆け落ちした。2人は追手をかわすため間道を使って京都へ、そして大坂に定住。浮風の死後、女宗匠を目指す。間違いなく、有名な俳諧師となった。芭蕉の奥の細道を体験する大旅行をして「秋のかぜ記」を書いた。
女流俳人ナンバー3は、諸九尼と認定してもいいような気がします。
●羽鳥一紅(はとり・いっこう、1724~1795)は、「昔人の物語(105)」で紹介しました。上州(群馬県)の美女俳人です。
●田上菊舎(たがみ・きくしゃ、1753~1826)は、現在の下関市に生まれた。結婚したが、6年後に死別。尼になった後、俳諧の道を歩む。奥の細道の逆コースを歩く大旅行を実行した。その後も全国行脚をした。
●五十嵐浜藻(いがらし・はまも、1772~1848)の父は俳人です。現在の東京都町田市で生まれた。幼児の頃から俳諧を学んだ。34歳の浜藻は父とともに西国・北国を俳諧行脚した。美貌と俳諧才能によって、行く先々で、出会う人は、父の記憶は薄く浜藻の記憶は強烈に残ったようだ。1810年刊行の『八重山吹』は、女性のみの俳諧連句集です。代表句は
山ざくら 見ぬ人のため をしみける
なお、2019年に別所真紀子著『浜藻崎陽歌仙帖』が刊行されました。町田市民は知っているかな……。
(2)千葉の女流俳人
前述以外にも数多くの女流俳人がいます。そのひとりが、上総(現千葉県)富津の織本花嬌(?~1810)を取り上げてみます。理由は、なんとなくの直観です。
江戸時代の千葉の女流俳人として名をなしたのは、富津の織本花嬌と船橋の斎藤園女(そのじょ、1781~1867)の2人です。船橋の斎藤園女は、申し訳ないが省略して、富津の織本花嬌のお話を。
織本花嬌は、おそらく1755年頃の誕生です。豪農の娘として生まれ、酒造業と金融業を営む豪商・織本家の嘉右衛門に嫁ぎます。嘉右衛門は商売だけでなく教養もあり、江戸の俳人・大島蓼太(りょうた、1718~1787)に入門して俳諧を学んだ。大島蓼太は信濃国(長野県)出身で、芭蕉復帰を唱え、俳諧を盛り上げた人物です。入門者は3000人を超え、諸大名にも俳諧を指導する、江戸俳諧の最大の巨匠です。妻も夫に従って、大島蓼太に入門しました。本名は「園」ですが、師からいただいた俳号が「花嬌」です。「花」は文字どおり「花」です。「嬌」の意味は、「しなやかで美しい」「あでやか、なまめかしい」です。要するに、すばらしい美女なのであります。
夫婦仲よく俳諧を学んでいると、次第に、その周りに仲間が増えていきました。
そんなある日、大島蓼太は富津へひとりの青年を伴ってやってきました。その青年が小林一茶です。小林一茶は、富津へ頻繁に来るようになります。織本家の待遇がよかったのか、花嬌の美貌のためか、おそらく両方でしょう。
幸福な歳月が流れましたが、花嬌が40歳頃、夫が亡くなり未亡人となりました。ショックで俳諧から、しばらく遠ざかるほどでしたが、徐々に、復帰していきます。
1798年2月、大島蓼太の門人3人と花嬌は、鹿野山神野寺(君津市)に芭蕉の句碑を建立しました。芭蕉は10月12日に亡くなったので、通常、芭蕉の句碑は10月に建立するのですが、あえて2月に建立しました。理由は、花嬌の夫が2月3日に亡くなったからです。夫の供養になると考えたのでしょう。
その頃、一茶は俳諧の立場で危機に陥りました。
一茶は、江戸東部、房総方面に基盤を有する葛飾派に所属していた。大島蓼太の系統と葛飾派が、いかなる関係にあるか、よくわからないのですが、ともに芭蕉の系統です。ともかくも、一茶は葛飾派内で急速に名を上げていった。しかし、1800年前後、葛飾内に一茶の作風(後に「一茶調」へ発展)やら人間関係やら、あれやこれやで、葛飾派から事実上の除名となってしまった。そうなると、葛飾派なるがゆえの収入が途絶え、どん底の貧困に陥った。
それを救済したのが、房総の複数の俳句サークルであった。花嬌など十数人の房総の俳人は、俳諧各派の垣根を超えて「一茶園」(いっさえん)という団体をつくった。会員は、会費を納める。毎月、自分の句を江戸の一茶に送り、一茶はそれらをまとめて『一茶園月並』(いっさえん・つきなみ)という機関誌を発行する。花嬌の句は毎回掲載されています。この「一茶園」によって、一茶は、なんとか生活ができたのです。
我われ凡人は、週刊誌的に、未亡人花嬌と一茶の恋愛について、想像をたくましくします。花嬌は推定1755年生まれ、一茶は1763年生まれ。年齢差は8歳。1800年時点で、花嬌は45歳、一茶は37歳である。年齢的には、恋愛感情は有り得るでしょう。ただし、内心の「思うだけ」のレベルであったようだ。決して、ストレートな愛の告白など、なかった。この頃、富津で一茶が詠んだ句があります。
我星(わがほし)は 上総の空を うろつくか
一茶は富津の花嬌を始め房総の俳人達の援助で生活しているから、その感謝の気持ちを詠んだものとされています。でも、それ以上の思いが含まれているのかも知れません。恋愛感情があったにしても、決して表面には現わさない「秘めたる恋心」ということでしょう。しかしながら、我われ凡人は、さらに、探求したい欲求がわくのですが、さてさて、いかがなものか……。
1809年、花嬌は親友・貞印(ていいん)と、成田山経由で江戸まで旅をして、紀行文『すみれの袖』を書きました。花嬌にとって、旅をして、芭蕉の『奥の細道』のような紀行文を書くのが夢だったようです。
翌年の1810年、花嬌は亡くなりました。
一茶が、花嬌の死を知ったのは葬儀の後でした。しかし、富津での「百ヵ日法要」には参列しました。一茶の追悼句は次の2句です。
草花や いふもかたるも 秋の風
あさがおの 花もきのふの きのふかな
一茶にとって、花嬌は「花」だったのでしょう。
さらに、花嬌の三回忌に詠んだ追悼句があります。この追悼句は有名のようです。
目覚しの ぼたん芍薬で ありしよな
何をいふ はりあひもなし 芥子(けし)の花
「ぼたん」も「芍薬」も「芥子」も、とても美しい花です。花嬌は、本当に美しい女性だった、というわけです。
一茶は、遺族の依頼で、花嬌の句集『花嬌家集』『花嬌遺稿集』を編集しましたが、紛失して現存しません。
花嬌の代表句としては、次のものでしょう。
用のない 髪とおもへば 暑さかな
名月や 乳房くはへて 指さして
暑い日、女の長い髪は役に立つものではないと思うと、よけい暑さを感じる。
赤ちゃんが、乳房をくわえて、月を指さしています。なんて可愛いんだろう。
なお、富津市の大乗寺に花嬌の墓があります。
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太田哲二(おおたてつじ)
中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を10期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。『「世帯分離」で家計を守る』(中央経済社)、『住民税非課税制度活用術』(緑風出版)など著書多数。