(1)戦国時代の軍師


 そもそも「軍師」なる名称は戦国時代にはなかった。江戸時代に入って、「軍記物」という事実を基にした物語の中で登場するようになった。要するに、フィクションである。したがって、「軍師」なる称号はなかった。軍師と似た単語に、策士、参謀、顧問などがあり、意味に微妙な差があるようだが、枝葉末節なので説明省略。ということで、「軍師とは、……である」と明確に定義することは、かなり難しい。


 とにかく、戦国時代である。「勝つためには手段を選ばず」が大原則。義や仁はどうでもいい時代である。平和な江戸時代になって、義や仁が付け加わった。しかしながら、軍師が信頼されなければ将兵は動かない。それゆえ、ある程度は信頼に足る人格者であったに違いない。


 さて、後世、戦国時代の「軍師」と呼ばれた人物を、思いつくまま紹介してみよう。


 太田道灌(1432~1486)に関しては、『昔人の物語(88)』で取り上げました。


 竹中半兵衛(1544~1578)は、羽柴秀吉(=豊臣秀吉)に仕えた。


 黒田官兵衛(1546~1604)も、羽柴秀吉(=豊臣秀吉)に仕えた。竹中半兵衛と黒田官兵衛の2人は、「両兵衛」「二兵衛」と言われ、関係がとても深い。


 直江兼続(1560~1620)は、上杉謙信の後継である上杉景勝の家老である。NHK大河ドラマの主役になって、「愛」の文字の兜とともに、有名になった。


 島左近(1543~1600)は、筒井氏などに仕えた後、石田光成の家臣となった。関ヶ原合戦(1600)で戦死。


 山本勘助(?~1561)は、武田信玄に仕えた。川中島の合戦で討死。蛇足ですが、当てずっぽうを「ヤマカン」と言うが、山本勘助の名から来ているらしい。


 以上の6人は有名人であるが、以下はさほど知られていないようだ。


 太原雪斎(たいげん・せっさい、1496~1555)は、今川氏の譜代の家に生まれたが幼少より出家し、臨済宗の僧となった。今川義元の教育係となり、今川家の家督相続の乱では、今川義元の家督相続に大いに尽力した。以後、今川義元の政治・軍事に抜群の能力を発揮した。とりわけ、甲相駿三国同盟の成立の功績は大である。今川氏の全盛期を築いた人物とされる。なお、僧侶としても活躍している。


 片倉景綱(1557~1615)は、伊達政宗に仕えた。片倉景綱なくして伊達政宗の活躍はあり得ない。


 淡河定範(おうご・さだのり、1539?~1579?)は、播磨の別所長治に仕えた。織田と別所の友好同盟が破綻し、三木合戦(1578年5月~1580年2月)となる。


 三木合戦のワンシーンが、実に漫画的な「メス馬奇襲作戦」である。淡河城にいた淡河定範は、近郷近在から馬1頭300文で淡河城に馬を掻き集めた。ただしメス馬のみ。


 豊臣秀長(秀吉の弟)の軍が淡河城へ進軍する。秀長軍の騎馬は全部オスであった。淡河定範は、敵に向かって一斉にメス馬を放つ。秀長軍のオス馬は、多数のメス馬に興奮して人間の手綱を無視して、暴れ回る。そこを狙って、淡河定範軍が豊臣秀長軍を襲撃して、退却させた。このメス馬奇襲戦法、他に類例があるのだろうか。つらつら思うに、人間も似たような行動を取ることが、しばしばかも……。


 一旦は、豊臣秀長軍を退却させたが、戦況は圧倒的に不利で、淡河定範は淡河城を焼き払い、主君・別所長治のいる三木城へ入る。三木合戦の終盤、淡河定範は戦死する。


 なお、三木合戦の豊臣秀吉軍の陣中で、竹中半兵衛が病死した。


 角隅石宗(つのくま・せきそう、?~1578)は、豊後(現在の大分県)の大友義鑑(よしあき)・義鎮(よししげ、=宗麟)親子に仕えた。「軍配者」と呼ばれることが多い。軍配者とは、占術、天文、気象に優れた知識を有し、出陣日時、築城開始日時など、重要行動の日時や儀式を指示する。とりわけ気象予測は軍事上重要である。


 武田信玄に仕えた山本勘助も軍配者である。角隅石宗は当時、ナンバーワン人格者として知られ、イエズス会宣教師のルイス・フロイスは、「日本の宗派に通暁し、宗麟、義統(よしむね、宗麟の長男)、全武将から、尊崇されている」と書かれている。彼の教養・人格は、豊後に留まらず、九州全体に知られていた。石宗は島津氏との合戦で、自分の作戦が受け入れられず、負けるとわかっている突撃作戦に参加して戦死する。いかに、軍師が優秀でも、大将が能力不足では、悲劇の戦死しか道はなかった。


 ほかにも、優秀な軍師は大勢いると思うが、この程度で。そして、今回の昔人「竹中半兵衛」に移ります。


(2)道三斉藤氏時代


 美濃斎藤氏は、あれやこれやで勢力が衰え、1538~1542年頃、下剋上により斎藤道三が美濃を支配した。


 ところが、1556年、斎藤道三は長男・斎藤義龍(よしたつ、1527または1529~1561)に、長良川の戦いによって、討たれる。道三と義龍の不和の原因は、道三が次男・三男を可愛がるようになった、義龍は本当の父は道三ではないと信じた、ということらしい。


 1561年、斎藤義龍が病死する。その子、斎藤龍興(たつおき、1547または1548~1573)が家督を相続する。若干14歳、しかも、愚鈍であった。


 竹中半兵衛は通称で、正式には、竹中重治(しげはる)である。竹中氏は美濃斉藤氏の有力家臣であった。道三の時代になると、道三に従っていた。竹中半兵衛の初陣、長良川の戦いでは、道三側についている。しかし、義龍に滅ぼされることなく、義龍に仕えた。義龍が病死し、龍興が跡を継ぐと、尾張の織田信長による美濃攻撃が激化した。龍興の美濃側は、なんとか防戦していたが、いかんせん、龍興はアホであった。一部の若い近習だけを寵愛し、重臣達を遠ざけた。竹中半兵衛も遠ざけられたひとりである。


 たぶんフィクションと思うが、こんな話がある。


 竹中半兵衛が下城の際、近習のひとりが櫓から小便をかけた。近習達は大笑いした。半兵衛は、完全に龍興及び近習達から馬鹿にされているのだ。


 この小便事件の真偽はさておいて、竹中半兵衛は、おそらく斎藤龍興に見切りをつけたのだろう。1564年、道三斎藤氏の居城である稲葉山城(後の岐阜城)を乗っ盗ったのである。しかも、たったの18人で。


 乗っ盗り方法は、まず、城内に人質としている竹中半兵衛の弟を仮病にする。竹中半兵衛が見舞いに行く。その際、看護や雑用のため16人の中間(ちゅうげん)・小者を連れて城中に入る。むろん、16人は武勇に優れた者の変装である。夜になると、半兵衛・弟・16人の合計18人で騒ぎを起こす。城外からは、半兵衛の舅の安藤守就(もりなり)の軍勢が城を襲う。安藤守就は美濃三人衆のひとりで実力者である。半兵衛は斎藤龍興の寝室を襲う。斎藤龍興は、大あわてで城を脱出した。かくして、稲葉山城乗っ盗り作戦は大成功した。


 半年後、竹中半兵衛は城を斎藤龍興に返還した。


 後世、竹中半兵衛の「義」を強調するため、返還理由を次のようにした。龍興を諫めるため、一時的に城を乗っ盗った。反省したようなので、返還した。


 でも事実は、半年間、斎藤龍興軍は城奪還のため戦闘を継続していた。したがって、竹中半兵衛・安藤守就と斎藤龍興の間で和睦が成立したから返還したのである。


 では、なぜ、稲葉山城を乗っ盗ったのか。あまりにも斎藤龍興が愚かであったため、稲葉山城を乗っ盗れば、美濃の武将達から拍手喝采され、斎藤氏のしかるべき血縁の者を新国主に迎える、そして、そのもとで精いっぱい働けるのではなかろうか……、そんな野心があったのではなかろうか。


(3)隠遁生活


 竹中半兵衛は稲葉山城を返還した後、隠遁生活に入る。


 1567年、織田信長が稲葉山城の攻略に成功した。竹中半兵衛は美濃を去り、北近江の浅井長政の客分となる。しかし、1年後、美濃に帰り、再び隠遁生活を送る。


 愚劣な上司の下にいた者は、誰でも、優秀な上司の下で働きたいと思う。織田信長からの誘いもあった。でも、信長の評価は、1560年の桶狭間の合戦で、「うつけ者」「たわけ者」から一変したが、竹中半兵衛の目には、「うつけ者」「たわけ者」と映っていたのだろう。浅井長政の客分になったから、通常の感覚からすれば、そのまま、浅井長政の配下で働くことになりそうだが、竹中半兵衛の目には、自分の上司に相応しくないと思ったのだろう。


 二度と意に添わぬ上司には従いたくない。自分が存分に働ける上司はいない、となると、静かな隠遁生活しかない。自分に相応しい上司はいない。いやいや働くよりは、静かに、何も考えず、つつましく暮らしたほうがいい。


 1570年、織田信長は越前の朝倉攻めに入った。しかし、突然、織田・浅井の同盟が決裂し、織田軍は金ヶ崎から大慌てで京へ逃げ戻った。信長は浅井を攻撃する準備に入った。近江の坂田郡は、美濃から近江への入り口で、そこを支配する堀家を味方にしたい。堀家調略の命が木下藤吉郎に下った。藤吉郎は堀家の実情から、家老である樋口家を説得することが肝心と思った。しかし、敵かもしれない堀家・樋口家へのこのこ出向くのは危険すぎる。樋口家の近くに、竹中半兵衛がひっそりと隠遁していることを知る。竹中半兵衛の稲葉山城乗っ盗りは広く知られた事件であるから、藤吉郎は興味津々であったろう。藤吉郎は半兵衛に会いに行く。そして、半兵衛は藤吉郎に惚れこんだ。


 なぜ、惚れ込んだのか。木下藤吉郎は天性の「人たらし」のナニカがあるのだろう。


 後世、藤吉郎が「三顧の礼」をとったとされている。『三国志』の劉備が諸葛孔明を三顧の礼で迎えたという話を、そのまま活用したのであるが、藤吉郎が隠遁の半兵衛をどう説得したのかは、興味深いシーンである。事実・真相は誰も知らないので、どんなフィクションも成り立つ。フィクション作家の腕の見せ所である。


 ともかく、半兵衛は藤吉郎の下で、知略を存分に働かすことになった。


 最初の仕事は、堀家・樋口家の説得であるが、むろん成功した。


(4)黒田官兵衛の子・松寿丸を救う


 1570年から始まった織田信長の浅井・朝倉との合戦は、1573年の小谷城落城で幕を閉じる。その間、姉川の血戦、横山城防衛戦、小谷城攻めとお市の方救出などで、軍師・竹中半兵衛の知略は、いかんなく発揮された。


 とくに注目されるのは、姉川の戦いでの陣形変更である。各武将は皆、鶴翼の陣であったのを、木下軍だけは円陣に陣替えをした。単なる円陣ではなく、円陣の前方だけは強力配備である。浅井軍は、本陣目指して一点突破の攻撃に出る。鶴翼の陣では、一点突破攻撃を阻止できない。この陣形変更で、みごと浅井軍の一点突破攻撃を阻止できたのである。


 1575年の武田勝頼と織田・徳川の長篠の合戦でも、竹中半兵衛の状況判断力がスゴイとわかる。秀吉は秀吉全軍の移動を命じた。しかし、半兵衛軍1000人は、従わなかった。この軍規違反が勝利の一因となった。「知らぬ顔の半兵衛」なる言葉は、ここから生まれた。


 1577年、秀吉は、越後の上杉謙信と対峙している柴田勝家の援軍を命じられた。援軍に出向いたが、信長に無断で帰還してしまう。理由は、「勝てない」と判断したのだろう。この判断にも、竹中半兵衛のアドバイスがあったとされている。案の定、勝家は手酷い敗北を期している。当然、信長は秀吉を叱り飛ばし、秀吉の運命は風前の灯となったが、なんとか叱責だけに終わった。秀吉は、その後、松永久秀との合戦で活躍し、信長の信頼を回復した。


 1577年、秀吉は、中国路方面の攻略を命じられた。むろん、半兵衛も同行した。秀吉の播磨・但馬攻略は、最初は順調に進展した。黒田官兵衛はすでに信長の傘下にいたが、秀吉の播磨攻略が始まると、自分の居城・姫路城を秀吉に明け渡して、秀吉の軍師として活躍するようになった。むろん、竹中半兵衛とも深い信頼関係ができた。


 まぁまぁ順調に播磨・但馬攻略は推移していたが、播磨三木城の別所長治との三木合戦(1578年5月~1580年2月)が開始された。


 荒木村重は信長に従っていた。そして、三木合戦でも秀吉軍に加わっていた。それが、突然、1578年10月、謀反を起こした。理由は、信長の無慈悲残虐性を悟ったからである。村重は毛利の援軍を期待して有岡城に籠城した。黒田官兵衛は村重説得に有岡城に出向くが、土牢に入れられてしまう。官兵衛と秀吉との連絡が途絶えた。信長は、官兵衛が村重側に寝返ったと思い込んだ。そして、秀吉に、官兵衛の嫡嗣・松寿丸(後の黒田長政)の殺害を命じた。


 秀吉も竹中半兵衛も、官兵衛の裏切りは、有り得ないことだ、と信じていた。したがって、秀吉は苦悩した。そんな秀吉を見て、半兵衛は「松寿丸の件は、私にお任せください」と言った。半兵衛は、松寿丸の「偽の首」を提出して、松寿丸を自身の領地の家臣の家にかくまった。バレれば、信長の激怒を買い、一族郎党皆殺しに遭う。そんな危険を冒してまで、松寿丸の命を助けた。


 竹中半兵衛の最も感動的なシーンである。竹中半兵衛は「義」の人、すばらしい人格者だ、という評価の最大根拠となった。


 1579年4月、竹中半兵衛は三木合戦の陣中で病となり、陣中で死亡した(36歳)。


 1579年10月、官兵衛は救出された。1年半の土牢監禁で官兵衛の足は障害をもった。


 1580年2月に、三木城は完全落城する。その前後から、信長の荒木一族郎党、女房に至るまで悪魔のような残虐報復が行われた。目撃者は「かやうのおそろしきご成敗は、仏之御代より此方のはじめ成」と記した。


 秀吉は天下をとると、信長のような悪魔性を発揮した。そんな秀吉を見ずに、竹中半兵衛は、いいときに死亡した、という評論が多い。


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太田哲二(おおたてつじ

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を10期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。『「世帯分離」で家計を守る』(中央経済社)、『住民税非課税制度活用術』(緑風出版)など著書多数。