(1)恋と歌人の遺伝子を受け継いだ

 

 小式部内侍(こしきぶ・の・ないし、999~1025)の母は、和泉式部(978~?)です。和泉式部は、恋多き、天才歌人です。父は、橘道貞(?~1016)で、和泉式部の最初の夫です。


 和泉式部については、『昔人の物語(75)』をご参考にしてください。とにかく、次から次へと恋をして、死ぬまで、恋、恋、恋です。そして、天才歌人です。どうやら、娘の小式部内侍は、母の恋と歌人の遺伝子を受け継いでいたようです。つまり、小式部内侍にもエロ話がありまして、それは、後半に書きます。前半は、教訓的なお話です。


「小式部」は、母親が「式部」なので、区別するために「小式部」となりました。「内侍」は、女官の総称です。「和泉式部の娘の女官」といった感じです。


 和泉式部の出身地、及び、小式部内侍が誕生した地に関しては、一般的に関心は低いようです。しかし、鳥取市では、和泉式部の出身地、小式部内侍が誕生した土地という伝承があり、そこそこ知られているようです。湖山池のすぐ近くです。和泉式部は、小式部内侍を妊娠した際、郷里に帰って、鳥取市鹿野野の住吉神社に安産祈願をしたとされています。また、住吉神社には、産湯に使用したとされる井戸が残っています。ただし、伝承であって、和泉式部の出身地とされる土地は、全国に数ヵ所あるようです。


 なんと言っても、王朝女性歌人で人気抜群は、小野小町と和泉式部の2人です。鳥取は、「因幡の白うさぎ」だけじゃない、和泉式部もいます、って感じで、いずれ和泉式部土産が店に並ぶかも……。


 時は、藤原道長(966~1028)の摂関政治全盛時代です。道長の長女・藤原彰子(しょうし/あきこ、988~1074)は一条天皇の皇后(中宮)となり、女房には、紫式部、和泉式部、赤染衛門、出羽弁、大弐三位(=越後弁、紫式部の娘)、伊勢大輔など豪華華麗なる文芸サロンが形成されました。


 そして、小式部内侍も母と同様、彰子に出仕するようになります。母と同じく、美貌と教養(和歌の才能)を兼ね備えていました。でも、最初は、「小式部内侍の和歌は、母のアドバイス、母のカンニングペーパーがあるのだろう」と噂されていたようです。


 そして、「大江山の歌のお話」となります。この話は、『金葉和歌集』、『十訓抄』、『古今著聞集』に載っています。ほぼ同一内容です。


『金葉和歌集』は、平安時代後期に編纂された勅撰和歌集です。


『十訓抄』は、教訓説話集で、序文によると1252年に編集されました。編者は、いろいろな説があり不明です。十の教訓に沿った説話が280話収められています。十の教訓とは、次のとおりです。

第1 人に恵を施すべき事

第2 傲慢(ごうまん)を離るべき事

第3 人倫を侮らざる事(人を馬鹿にしてはいけません)

第4 人の上を誡(いまし)むべき事(人をあげつらうのはいけません)

第5 朋友を選ぶべき事

第6 忠道を存ずべき事

第7 思慮を専らにすべき事

第8 諸事を堪忍すべき事

第9 懇望を停(とど)むべき事(何でも欲しがってはいけません)

第10 才芸を庶幾(しょき)すべき事(自分の才能をみがきなさい)


 小式部内侍の「大江山の歌のお話」は、「第3 人倫を侮らざる事」にあります。


『古今著聞集』は、教訓とは関係がなく、人間理解のための世俗説話集です。橘成季(なりすえ)が編集し1254年に一旦成立し、その後増補されました。20巻30編726話あります。


 日本三大説話集とは、『今昔物語』(平安末期、編著者不明)、『宇治拾遺物語』(鎌倉前期、編著者不明)そして『古今著聞集』をいいます。


(2)大江山の歌


「大江山の歌のお話」を、若干の補足を加えて現代文で紹介します。


 和泉式部が藤原保昌の妻だった時のことです。保昌が受領として丹後に赴任しました(1020年)。和泉式部も一緒に行きました。小式部内侍は、その頃、すでに宮中の女房になっています。宮中で歌合(うたあわせ)があり、小式部内侍もメンバーに選ばれました。歌合は、歌人を左右に分けて、優劣を争う遊びですが、単なる遊びではなく、能力判定会でもあり重要行事です。歌合に選ばれるだけでも、「能力のある人物」という評価につながります。


 その歌合の前に、中納言・藤原定頼(995~1045)が小式部内侍の部屋の前を通りました。中納言は、たわむれに、「丹後へつかわした人は戻ってきましたか」と、からかった。その意図は、和歌の天才であるママに代作・アドバイスをもらうために、使者を丹後へ派遣したのでしょう、ということです。


 小式部内侍は、ムッとしたのでしょう。御簾(みす)より体を半分乗り出して、中納言の直衣(のうし、なおし)の袖をつかんで引き止めて、即興の歌を詠みました。


 おお江やま いく野のみちの とほければ まだふみも見ず 天のはしだて


 中納言は、思わぬ展開に驚き、「なんと!」としか言えず、返歌もできず、袖を振り切って逃げてしまいました。


 中納言が驚いたのは、なによりも、大江山の歌のすばらしさです。当時のマナーとしては、歌を詠まれたら、返歌を詠わなければならないのですが、大江山の歌がすばらし過ぎて、それに見合う歌が浮かばなかったのでしょう。中納言・藤原定頼は和歌の能力が低くはありません。彼は、中古三十六歌仙のひとりであり、百人一首にも選ばれています。その彼が、「大江山の歌」を聞いて、逃げてしまったのです。


 小式部内侍は、この出来事以後、歌詠みの世界で名を知られるようになりました。


 というのが「大江山の歌のお話」です。高校の古文の教科書にも載っていますし、試験問題にも、よく出題されるそうです。それでは、「大江山の歌」のどこが、そんなにすばらしいのでしょうか。京から丹後への道筋に、大江山、生野、天橋立があり、それを読み込んでいる。「生野」と「行く」が掛詞に、「踏み」と「文」が掛詞になっている……、高校レベルでは、そんな解説です。


 レベルアップすると、「おほえ」は、「大江」山と「おほい(多い)」山、「おほい(大きい)」山の3つ掛詞、「いく野」は、「幾多の野→幾野」、「行く」、「生野」の3つの掛詞。地名の歌枕が大江山、生野、天橋立と3つある。道、ふみ、橋という縁語がある。大江山は3ヵ所にある(高校レベルでは2ヵ所)。生野も3ヵ所にある。天橋立は地名でもあり、「尼の端立て(母の暮らしの知らせ)」をも意味する。さらに、中納言・藤原定頼の父・藤原公任の次の和歌の本歌取りとも推測されます。


 小倉山 嵐の風の 寒ければ 紅葉の錦 きぬ人ぞなき (『大鏡』)


 つまり、「中納言さんのお父様だって、『小倉山に来た人はいない』とおっしゃっていますよ。丹後は小倉山よりも、はるかに遠いから、来ませんわよ」となります。「大江山の歌」には、言外に、父の歌まで含んでいるので、中納言・藤原定頼はギブアップするしかなかった。


 とにかく、「大江山の歌」は、大変な評判となり、小倉百人一首にも選ばれています。


 なお、「大江山の歌」の出来事は、「2人のお芝居じゃないか」とも言われています。お芝居であろうがなかろうが、「大江山の歌」が非常にすばらしいことに間違いありません。


 ついでに、中納言・藤原定頼、父・藤原公任の2人は小倉百人一首に選ばれていますので紹介しておきます。


 朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々(せぜ)の網代木(あじろぎ) (権中納言定頼、『千載和歌集』)

 ※「網代」は、冬に氷魚(ひお、鮎の稚魚)を取る仕掛け。川の浅瀬に杭(網代木)を打ち、竹や木で編んだざるを仕掛ける。平安時代の宇治川の風物詩でした。なお、『千載和歌集』は勅撰和歌集です。


 滝の音(おと)は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ (大納言公任、『千載和歌集』)

 ※嵯峨天皇の離宮である大覚寺には滝があった。藤原公任の時代には荒廃して滝はなかった。滝の評判は今も流れて、いまだに聞こえてくる。


(3)エロの三角関係


「大江山の歌のお話」では、中納言定頼はおっちょこちょいの引き立て役に過ぎません。百人一首のひとりということを知らなければ、おしゃべり男のイメージしかない。ところがどっこい、そうじゃない。


 中納言定頼と小式部内侍は、「大江山の歌のお話」の前からなのか、後からなのか、そこはわかりませんが、できちゃっているの! そして、小式部内侍は、同時に藤原教通(のりみち、996~1075)とも、できちゃっていたの! 藤原教通は、道長の5男で、関白にまでなります。別名を「大二条殿」といいます。


『宇治拾遺物語』に「小式部内侍、定頼卿の経にめでたる事」(3-3)というお話があります。三角関係のすごいエロ話です。以下は、自己流の説明つき現代訳です。



 今は昔、小式部内侍に中納言定頼が求愛し続けていました。その頃、藤原教通も通っていました。むろん、おしゃべりのために通うのではなく、恋のためです。


『宇治拾遺物語』では、藤原教通を「時の関白」と書いてありますが、藤原教通が関白になったのは、小式部内侍の死後で、まだ関白になっていません。その頃の3人の年齢関係は、


 小式部内侍――999年誕生、1025年逝去(26~27歳で亡くなった)

 中納言定頼――995年誕生

 藤原教通――996年誕生


 なので、男2人は、女より6~7歳年上ということです。教通が関白になったのは、70歳代です。


 あるとき、藤原教通が小式部内侍の局(つぼね)に入って、小式部内侍と寝ていました。局とは、宮中の高級女房に与えられた部屋です。中納言定頼は、そうとは知らず、部屋の戸をトントン叩いた。部屋つきの女童が、「藤原教通さまがお越しになって、今、お2人は寝ている最中です。部屋へは入れません」と説明しました。


 中納言定頼は沓(くつ)をはいて出ていきました。少し歩き去ってから、突然、声を張り上げて、経を読み始めた。


 一言解説を。読経するのは僧侶の専売特許ではありません。在家も読経します。そして、僧侶でも在家でも、美しく上手に読経すると、人気が出ます。イスラムのコーランは、美しく歌っていますが、読経も美しいと評判が上がります。当時は、「美しく読経する」は、今の「美しく歌謡曲を歌う」と似たような感覚であったようです。


 中納言定頼は、和歌、音楽、書、読経の名手であり、イケメンでした。当然、モテ男で、正室以外の多くの女性とも関係をもちました。小式部内侍に関していえば、恋人関係説と片思い説の両方ありますが、どっちでもいいと思います。どんなお経かわかりませんが、読経の名人は、お経を暗記していました。歌手が歌詞を暗記しているのと同じです。したがって、短いお経、あるいは、経典の気に入った一部分だけと推理します。


 読経の名人が、美しく大きな声で、小式部内侍に聞こえるように、お経を歌うがごとく唱え始めた。


 小式部内侍は、藤原教通に抱かれながら、誰の声だろうと、耳をそばだてました。すぐに、中納言定頼の読経の声とわかりました。


 藤原教通も、あの声は誰だろう、小式部内侍の様子が変だ、そう思い始めました。教通は、読経の声が少し遠ざかっているので、そのまま消えていくと思っていたら、そうでもない。


 読経の声が四声五声続いたとき、小式部内侍は「う」と言って、後ろ向きに寝返りをしてしまった。


 藤原教通は、後に「あれほど恥ずかしいことはなかった」とおっしゃいました、とか。


 以上が三角関係のお話です。


 重要ポイントは、「小式部内侍は『う』と言って」のところです。「う」は、一応、感嘆、感涙、うめき声です。現代のエロ本作家なら、どんな表現をするのかな……、「アッハーン」とか「い、い、いい……」とかにするのかな。


 わかりやすく言えば、「小式部内侍は、身体は藤原教通に抱かれているが、耳から心は中納言定頼のところにある」ということです。身体と心が別々の男に同時に愛され絶頂に達した女、なんか、完全にエロ本ですね。


 中納言定頼の心境も興味深いです。小式部内侍を抱くべく行ったら、そのときは、別の男に抱かれていた。ガックリきたが、ただでは帰らない。自分の美声で邪魔してやろう、というわけです。


 藤原教通は、最初はわからなかったが、小式部内侍が恍惚の「う」と発し、寝返りを打たれてわかった。「寝返り」は、単なる寝返りではなく、絶頂ゆえの身体の動きではなかろうか。小式部内侍が悶えている快楽は、中納言定頼の美声が決定打になっている、と知ったのであります。


(4)他にも男がいます


 小式部内侍の男関係を整理してみます。


 中納言藤原定頼は、なんとなく小式部内侍の引き立て役になっています。恋人関係になったか不明ですが、あの時代は自由恋愛ですから、恋人関係にあっても不思議ではありません。ただし、2人の間には、子供はいません。


 小式部内侍は藤原教通との間に、2人の子をもうけています。静円(1016~1074)と光円法師母(?)です。静円は、僧としても歌人としても、それなりに活躍したようです。光円法師母(女性)も無事に成長して、藤原北家一族のしかるべき人物の妻になったようです。


 2人の恋愛関係については、『今物語』の中の「桜木の精」というお話もあります。『今物語』は鎌倉時代の説話集で53話あります。藤原信実が編纂したとされています。「桜木の精」の内容を要約してみます。


 小式部内侍は、大二条殿(教通)が久しく通ってこないので、ひたすら待ちわびていた。そして夢を見た。直衣の袖に糸のついた針を刺しているところで夢から覚めた。数日後、大二条殿がいらっしゃって、朝お帰りになりました。目の前の桜の木になにやら糸がぶらさがっている。確かめると、夢の中の針でした。一途に、思うと、草木でも不思議なことが起きますね。


 小式部内侍は、大二条殿の正式な妻ではなく、いわば愛人でした。でも、子供が2人生まれていますので、妻同然です。それにしても、当時の女性はひたすら男が通うのを待つというシステムです。夢と現(うつつ)が交差するのも、あり得るのでしょう。


 小式部内侍は藤原範永(のりなが、993~1070以降)との間に、女子をもうけています。この女子も無事成長しました。


 小式部内侍は、藤原公成(きんなり、999~1043)との間にも、子をもうけました。その子は無事に成長したのですが、小式部内侍は出産後に亡くなりました。


 和泉式部が、悲しんで詠んだ歌があります。かなり有名な歌です。


 とどめおきて 誰をあはれと 思ふらむ 子はまさらむ 子はまさりけり

 ※親(和泉式部)と子供を残して死んでしまった。(死んだ娘は、親と子供の)どちらを愛していたのでしょうか。親より子供への愛がまさっていたでしょう。(私も親との死に別れよりも)子との死に別れのほうがつらい。


 小式部内侍は、母・和泉式部と同じように自由恋愛を楽しみました。世の中、いろいろな制限やら拘束が沢山ありますが、小式部内侍は自由を謳歌した女性です。


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太田哲二(おおたてつじ

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を10期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。『「世帯分離」で家計を守る』(中央経済社)、『住民税非課税制度活用術』(緑風出版)など著書多数。