①橘道貞……最初の夫


 和泉式部(推定978~?)は、王朝時代の色事スキャンダル女性ナンバーワンである。色事スキャンダルだけでなく、和歌でも女性ナンバーワンであった。最初は普通の幸せな結婚生活を営んでいた。


 和泉式部の両親は、受領階級である。受領とは、地方へ赴任して、税を集めて京へ送ることが最大の任務である。やり方によっては、ぼろ儲けができる地位であるが、身分的には下級貴族である。


 父の大江氏は菅原氏と同じ学問系の系統でもある。


 母は平氏4系統、すなわち、桓武平氏、仁明平氏、文徳平氏、光孝平氏のなかの光孝平氏の系統である。冷泉天皇(第63代、在位967~969)の中宮である昌子内親王の女房であった。そのため、和泉式部は子どもの頃、昌子内親王で女童であったようだ。つまり、昌子内親王の使い走りで、宮中の様子をそれなりに知っていた。


 和泉式部は、幼少より父から和歌の英才教育を受けていて、『古今和歌集』全20巻約1000首をすべて暗記したようだ。むろん、本人の天性の才能があって、独身時代から和歌の才能で注目された。しかし、しょせん下級貴族の娘に過ぎなかった。


 最初の夫は、橘道貞(?~1016)である。やはり、受領階級である。かなり能力のある人物で、和泉式部の父に気に入られて結婚した。橘道貞は、受領のぼろ儲けの能力も優れていて、すごい豪邸に住んでいた。身分こそ下級貴族だが、やり手の大変なお金持ちであった。受領のぼろ儲けの才能とは、単純に説明すると、赴任先から京へ送る税を10単位とすれば、30単位を徴収する。超過徴収の20単位のうち、権力者へ10単位を贈与する。すると、権力者は、任期を終えても別の赴任先を斡旋する。そんなカラクリである。


 夫婦円満、幸せな結婚生活だった。橘道貞が和泉国(現在の大阪府南西部)へ赴任したときも、彼女も和泉へ短期間出向いている。2人の間に娘も生まれた。この娘は、小式部内侍(こしきぶのないし、999頃~1025)と言い、母の遺伝子を継いで一流歌人に成長する。小式部内侍に関しては、後述する。


 夫婦円満の和歌も詠んでいる。


 娘の出産・育児のためか、田舎暮らしが性に合わなかったためか、新婚熱々ムードもやや冷めたためか、和泉式部は京へ戻った。そこへ、男、登場。和泉式部の色事スキャンダル人生の、はじまり、はじまり~。


②弾正宮為尊(ためたか)親王……冷泉院第3皇子


 男とは、冷泉院の第3皇子である弾正宮為尊親王(977~1002)である。女は下級貴族、男は親王である。いかに和泉式部が才色兼備であるにしても、親王が、身分違いの人妻に惚れちゃった。その頃、夫の橘道貞が浮気に走り、そのことが、彼女の色事本性を開花させたのかも知れない。


 白波の よるにはなびく 靡き藻の なびかじと思ふ われならなくに (和泉式部集)


 現代訳は、白波になびく藻のように(私の心は揺れています。)なびかないと思う、私ではないのですが。なびきたい、なびきたい、なびきたい……。


 彼女の正直な本心は、夫を愛しているが、どうして上手くいかないのかな~、美男の弾正宮との恋はめくるめく甘美であるが、冷静に考えれば長続きしないのではないか~。夫も愛している、弾正宮も恋してしまった、私はどうかなっちゃう~、エロドラマのキャッチコピーなら、「あなた許して、他の男にも恋しちゃったの」って感じかな。彼女は恍惚の悩みに浸ったのだろう。理性とは別に感情は、弾正宮への恋に一直線。恋の道の先に何があるのか。その頃、詠んだと和歌が次のものである。古来、和泉式部の名歌とされている。


 性空上人のもとに、よみてつかはしける     雅致女式部

 冥(くら)きより冥き道にぞ入りぬべき 遥かに照らせ山の端の月 (拾遺集哀傷・1342) 


 性空(しょうくう、910~1007)上人とは、『徒然草』69段でも紹介されている高名な僧である。


 雅致(まさむね)とは、和泉式部の父の名である。


 この歌は『法華経』の「化城喩品第七」の「冥(くら)きより冥きに入り、永く佛の名を聞かず」を取り入れた経句和歌の手法である。「品」(ほん)とは「章」の意味で、『法華経』は28品(章)あり、その第7番目が「化城喩品」である。当時のインテリは、『万葉集』『古今和歌集』『漢文』のみならず『法華経』などのお経も大脳に蓄積されていた。


 歌の意味は、(恋という)煩悩の世界から、(恋しかないという)さらに深い無明の世界へ入ってしまった。遥か彼方まで照らして、私を導いてください。山の端の月(である性空上人様)。


 恋という煩悩の先に何があるか。理性・常識じゃない、感情の赴くまま恋一直線の先にあるのは、破滅か、それとも、何かあるのか……。


 とりあえず、持ち上がったのは、父の激怒である。父の目には、弾正宮との恋の先は破滅しかない、と見えた。恋に溺れた娘は勘当されてしまった。父は娘を元の鞘へ収めようとしたのだ。しかし、娘は悩みながらも、破滅かも知れない恋の深みに身を投じていった。


 弾正宮も和泉式部に惚れこんでいた。1000年~1001年8月、京は疫病のため、道端は死体で溢れた。それにもかかわらず、弾正宮は夜な夜な和泉式部のもとへ通った。そのためか、弾正宮も病に斃れ、1002年6月に亡くなった。

 

③帥宮敦道(そちのみや・あつみち)親王……冷泉院第4皇子


 帥宮敦道親王(981~1007)が第3の男である。『和泉式部日記』は、その出会いから約10ヵ月間の2人の恋の歌物語である。和歌が多すぎて、読むのに骨が折れる。


『和泉式部日記』冒頭の文章は、「夢よりもはかなき世の中を、嘆きわびつつ明かし暮らすほどに、四月余日にもなりぬれば、木の下暗がりもてゆく」である。「世の中」は、現代では社会という意味で使用されているが、かつては「男女の間」の意味で使用されることも多かった。いいですねぇ~、「世の中」=「男女の仲」なの。


 1002年6月に弾正宮が亡くなった。夢より儚い男女の仲、和泉式部は、毎日、日夜、弾正宮との恋を悲しみ思い出しながら暮らしていました。1003年4月余日になりました。樹木の葉が茂り、樹木の下の木の葉の影が広がって暗さを増していく。


 冬は終わり、春が来ました。春ですね~、春は恋ですね~。嘆き悲しむ和泉式部の前に、帥宮敦道親王が登場する。


 帥宮は女性運に恵まれていなかった。最初の妻は、たぶん精神疾患でありました。それで離婚。2番目の妻は、雅(みやび)を解せない女性だった。性格の不一致というか、気が合わないというか、愛のない形だけの夫婦であった。帥宮は、我が身の女性運のなさを残念に思っていた。熱い恋なんて、しょせんフィクションだろうと思っていた。ところが、兄の弾正宮は身を焦がすほどの恋をしていた。ノンフィクションの熱い恋は現実にある。当然、帥宮は「熱い恋をした兄はイイナー」となり、「兄が惚れて惚れて惚れぬいた女性とは、どんな女性か」となった。


 まぁ、それで出会い、和歌のやり取りがあり、恍惚の一夜となる。ちょっとした行き違いがあったり、遠慮したり、じらしたり、かくして2人の恋は深化の一途。当然、貴族の狭い社会では、和泉式部スキャンダルは大炎上、「また、あの女が皇子をたらしこんだ。皇子だけじゃなく、他にも男がいるそうだ」ってな感じ。


 実際、多くの男が和泉式部にラブレターを送っていて、和泉式部の返歌の意味からすると、男女関係に至ったと思われるのもある。女は自分の多情な心に驚き、帥宮は女と他の男との噂話に嫉妬する。恋の道は初期においては一直線ではなく、揺れ動く。揺れ動くたびに、恋心は深化する。


 それにしても、帥宮がすごい。和泉式部と初めて一夜をともにした朝の歌は、もう、何と申しましょうか……まったく素直な歓喜の歌です。


 恋といへば 世の常のとや思ふらむ 今朝の心は たぐひだになし (和泉式部日記)


 現代訳の必要はないと思いますが、念のため。恋といえば、世間で普通のものと思うでしょう。しかし、しかし、しかし、今朝の私の心は、比べるものさえない。歓喜、歓喜、すばらしい、すばらしい。


 スキャンダルに対して帥宮の肝も据わっている。


 われが名は 花盗人(はなぬすひと)と 立たば立て ただ一枝は 折りてかへらむ (和泉式部集)


 現代訳。私の評判が、花盗人(≒女たらし)と立つのなら立ってもいい。私という花盗人は、一枝だけ(和泉式部だけ)は折って盗んで帰ろう。なお、鎌倉時代に入ると、狂言「花盗人」がヒットします。「花盗人」は、風流人という意味に進化しています。


 もう、2人のスキャンダルが大炎上しても構わない。2人で牛車に乗ってわくわくドキドキ。男は頻繁に女のもとを訪れる。女も逢引屋敷へ訪れて、みだれ髪で朝帰りをする。当時は、もっぱら男が朝帰りするもので、女の朝帰りは、不謹慎なスキャンダルです。それにしても、みだれ髪で朝帰り、エロいですね~。


 黒髪の みだれも知らず うち臥せば まづかきやりし人ぞ恋しき (後拾遺集・755・和泉式部) 


 現代訳。「まづかきやりし人」の「まづ」の解釈が、複数あるようだ。「最初の」という意味だと「初恋の人」になる。「最近の、最新の」という意味のだと、「さっきまで髪をかき撫でてくれていた人」ということになる。なんにしても、恍惚の一夜の余韻に浸っているわけであります。この「みだれ髪」は、ご承知のごとく与謝野晶子や美空ひばりが歌うこととなり、現代にも絶大な影響を及ぼしています。


 2人の恋は、「毎日一緒にいたい」となりました。帥宮は宮中に住んでいます。宮中には、冷え切った関係とはいえ、上流貴族出身の正妻がいる。和泉式部は、下級貴族出身であるから、正式な2号さん、お妾さんとして宮中に入れることもできない。そこで、帥宮は帥宮の召人(使用人)として宮中に住まわせた。帥宮と和泉式部の熱々関係は、すでに周知の事実だった。その当人が宮中に住んだのだから、もう大騒ぎ。正妻は帥宮に談判するが、物別れ。結果は、正妻は宮中を去って実家へ帰ってしまった(1004年1月)。


 不倫女、正妻に完全勝利。ここで『和泉式部日記』は終わっている。


 超大型スキャンダルであったが、その後、2人は宮中で、心おきなくラブラブ関係で、子も儲ける。しかし、約4年後の1007年11月、帥宮は死去。27歳であった。


 蛇足ながら、和泉式部が帥宮の誘いで宮中に住んでいた頃、最初の夫・橘道貞とは、まだ離婚していません。それどころか、和泉式部は未練たっぷりの歌を残しています。人の心は複雑なのであります。


④藤原保昌(やすまさ)と結婚


 和泉式部は帥宮の使用人だったから、帥宮の死去により、宮中を去り、どこかで暮らしていた。そして、1009年春、中宮藤原彰子(988~1074)へ女房として出仕することになった。和歌の才能ゆえの出仕である。


 彰子は、時の権力者・藤原道長(966~1028)の長女である。すでに権力は道長の手にあった。宮中は彰子を中心に輝いていた。女房には、紫式部、和泉式部、赤染衛門(『昔人の物語・第45話』で紹介)、出羽弁、伊勢大輔、越後弁(紫式部の娘)など、豪華絢爛たる文芸サロンが形成された。彰子の周辺では、即興で雅な和歌をつくることが重要視されていたようだ。だから、スキャンダル女の和泉式部も登用されたのだろう。


 なお、清少納言は、彰子の前の中宮定子に仕えていた。


 さて、宮中での評判は、紫式部が『紫式部日記』で述べていることが、最大公約数であろう。『和泉式部といふ人こそ、面白う書き交しける。されど、和泉はけしからぬ方こそあれ。(略)』と評している。「和歌はすばらしい。でも、スキャンダルな行いばかりで、けしからん」というわけだ。まったく、そのとおり、です。


 道長とのエピソードが面白い。


 ある人が扇を自慢していた。道長が「誰から頂いた扇か?」と尋ねたら、「あの女です」と応えた。あの女とは和泉式部である。道長は扇を手にして、「浮かれ女の扇」といたずら書きをした。そしたら、和泉式部が、その横に次の和歌を書き記した。


 越えもせむ 越さずもあらむ 逢坂の 関守ならぬ 人な咎(とが)めそ (和泉式部集225)


 現代訳は、男女の逢瀬の関を越える人もいれば、越えない人もいる。(道長様は)関守でもないのに、私のことを咎めないでください。時の権力者に対して、恋の道、和歌の道に関しては、「忖度なし」である。強いですねぇ~。


 30歳の美熟女が、宮中で新たな大スキャンダルを起こすかもしれない。それを防ぐためには、しっかりした男と再婚させたほうがよい。道長には、そんな意図があったのだろう。この頃、和泉式部は最初の夫・橘道貞とは離婚していた。


 1013年頃、道長の斡旋により、和泉式部と藤原保昌(958~1036)が結婚する。保昌は52歳ながら筋肉系男子である。まだまだ体力が漲っている。武勇の人だけでなく、横笛も吹く風流人でもあり、和歌も残している。身分的には、下級貴族であるが、受領としての才能があり、お金持ちである。


 道長に武勇で仕える道長4天王と称された人物のひとりが藤原保昌である。他の3人は、源頼信、平維衛、平致頼。


 保昌の武勇のお話としては、大江山の酒吞童子の鬼退治である。大将は源頼光(『昔人の物語・第71話』で紹介)、副将が藤原保昌である。『宇治拾遺物語』『今昔物語』には盗賊・袴垂(はかまだれ)を退治したお話がある。


 和泉式部との関係としては、祇園祭の山鉾(やまぼこ)のひとつに「保昌山」(ほうしゃやま)があり、その「花盗人」のお話がある。和泉式部は、保昌の求愛に対して、「紫宸殿の紅梅」を求めた。紫宸殿の紅梅を盗み出すのは犯罪である。警護も堅く、難題だ。保昌は、警護の北面の武士に矢を射られたが、「花盗人」は成功した。そして、和泉式部と結婚した。この話の出典を探したがわからなかった。おそらく、帥宮の「花盗人」の歌、「袴垂」では横笛を吹く風流人、保昌の武勇、それらが合体して生まれたのだろう。


 貴船神社(京都市左京区)でのお話はエロで面白く、かつ奥が深い。無住(1227~1312)の『沙石集』にある。


 和泉式部は藤原保昌と再婚したが、一時期、保昌は和泉式部への愛がなくなってしまった。彼女は、愛を取り戻すため、貴船神社の巫女に相談した。そして貴船神社で、愛を取り戻す儀式をすることになった。その話を知った保昌は、どんな儀式をするのかな、と興味を持ち、内緒で貴船神社へ行き、樹木に隠れて儀式を盗み見した。


 巫女は、儀式の最後に、裾の前をかき上げて、女陰を露わにして、女陰を叩きながら3度廻った。


 巫女は「これと同じことをなさいませ」と言う。


 和泉式部は、顔を真っ赤にして応えない。


 巫女は「なず、ためらうか」と催促する。


 保昌は、面白いものがみられそうだとニタニタ顔。


 和泉式部は、しばらくしてから、歌を詠んだ。


 ちはやぶる 神の見る目も 恥ずかしや 身を思うとて 身をや捨つべき


 現代訳は、神様が見ているので恥ずかしい。わが身を大切に思うので、我が身を捨てることはできません。要するに、そんな恥ずかしいことはできません。


 和泉式部のいじらしい優雅な姿に、保昌の愛が一気に復活した。保昌は姿を現し、和泉式部を連れて帰った。めでたし、めでたし。


 余談をいくつか述べておきます。

 

 巫女の元祖は、アメノウズメで、天岩戸のストリップショーで有名。つまり、古代神道の秘儀のひとつに、「女陰を晒す」ことがあった。その秘儀は、少なくとも『沙石集』が書かれた鎌倉時代には残っていたようだ。


 無住は僧であるが、どこの宗派にも属していなかった。宗派の儀式には無用なもの、変なものがあると考えていた。そのことを、このエロ説話で述べている。『沙石集』は仏教説話集で約150話ある。『沙石集』は「しゃせき」または「させき」と読むが、その意味は「沙(すな)から金を、石から玉を引き出す」で、世俗的な事件から仏教の本質を説くというものである。無住の説法の対象は、読み書きができない庶民であった。そのため、面白おかしい説法に努めた。話芸の祖とも言われている。無住は尾張国矢田村(現在の名古屋市東区矢田町)の長母寺(ちょうぼじ)を開いた。そこでの説法は、面白おかしく、法華経万歳と言われ、尾張万歳に引き継がれた。


 私事ですが、私は小学校低学年のとき、長母寺の隣接に住んでいた。長母寺の山で毎日遊んでいた。ある日、お堂のなかの地獄の絵を見つけた。「怖いもの見たさ」で何回も見た。小学校は矢田小学校であった。


 本筋に戻って。


 和泉式部と藤原保昌の仲は、円満だった。


 1020年、藤原保昌が受領として丹後に赴任した。和泉式部は田舎へ行くべきどうか相当悩んだが、貴族たちの間にも、「京の貴族文化の真ん中で育った美熟女の丹後行き」は関心事であったようだ。結局は丹後へ下った。丹後には、天の橋立がある。そして、娘の小式部内侍(こしきぶのないし、999頃~1025)の名歌が生まれた。小式部内侍は、少し前から、彰子の文芸サロンのメンバーになっていた。


 都で歌会があった。小式部内侍も参加する。その歌会では、事前に考え抜いた歌を発表する。藤原定頼が、小式部内侍に「丹後の母上へ使いを出し、母上につくってもらいましたか」と、そんな冗談とも本気とも取れる言葉をかけて、その場を去ろうとした。小式部内侍は、引き留めて、即興で詠んだ。


 大江山 いくのの道の遠ければ ふみもまだ見ず 天の橋立 (金葉集、小倉百人一集)


 現代訳は、大江山へ行く生野の道は遠いので、まだ天の橋立には行った(踏んだ)ことはありません(母からの文なんか見たことがありません)。


 藤原定頼は、あまりの出来のよさに返す言葉もなく立ち去った。この歌は、掛詞が2つもあり、地名が3つあったりして、テクニック的にも非常に優れていて、当時から大変な評判となった。「そうは言っても、やはり母親の代作だろう」「藤原定頼と小式部内侍は男女の仲になっていて、内緒の出来レースかも」と詮索された。


 ついでながら、小式部内侍は母親から和歌の遺伝子だけでなく、恋遍歴の遺伝子も受け継いでいたようであります。


 丹後の田舎暮らしは、和泉式部にとって退屈な日々であった。1024年に、保昌は任期満了となり、2人は京へ帰った。


 1025年、娘の小式部内侍が産後の肥立ちが悪くて亡くなる。

 

 1036年、夫の藤原保昌が亡くなる。和泉式部と藤原保昌の結婚生活は、おおむね平穏であった。それがため、和泉式部の和歌の質は、情熱的にキラキラ輝く作品が少なくなったと言われる。


 最後に、和泉式部の最高ヒット和歌を。たぶん晩年ではないか、と言われています。


 あらざらむ この世のほかの思い出に 今ひとたびの逢ふこともがな (和泉式部集、後拾遺集、小倉百人一首)


 現代訳は、(私は、もうすぐ)死ぬでしょう。あの世の思い出に、今一度、抱かれたいのです。「逢ふ」は男女関係を持つこと。相手の男は誰だろう。たぶん、いろんな男が走馬灯のように、次々に出たのではなかろうか。念のためですが、和泉式部と関係を持ったであろう男は、4人だけではありません。


 さて、煩悩たる恋一直線の先にあるものは、和泉式部にとって、死ぬまで恋、あの世でも恋であった。色即是空、恋即菩提である。


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太田哲二(おおたてつじ

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。