(1)初の女院


 藤原詮子(せんし/あきこ、962~1002)は、あまり知られていません。藤原詮子は、藤原兼家の次女です。


 とりあえず、兼家の子の人名をズラズラ書きますが、ご容赦ください。


 兼家の子は、道隆(長男)、超子(長女)、道綱(次男)、道兼(3男)、詮子(次女)、道義(4男)、道長(5男)、綏子(すいし/やすこ、3女)、兼俊(6男)らです。兼家の子に、詮子(次女)がいる、道長(5男)がいる、このことが重要です。


 藤原詮子は、円融天皇(第64代、959~991、在位969~984)の女御で、一条天皇(第65代、986~1011、在位980~1011)の母です。


 一条天皇在位中は、「国母」として権力を振るいました。同時代の藤原実資の日記『小右記』には「国母専朝事」と書かれています。とりわけ、弟の道長を引き立て、道長の摂関政治黄金時代の立役者となりました。その一環として、紫式部の才能に目をつけ、彰子(道長の娘)の女房としたと推測されます。


 藤原詮子は、日本最初の女院、東三条院となりました。


 用語解説ですが、天皇が引退すると「上皇」=「太上天皇」で、出家すれば「法王」=「院」です。


 皇后は天皇が引退すると「皇太后」になります。出家すれば「女院」ということになりますが、東三条院詮子の場合は、単に出家したから「女院」ということではありません。「最初の女院」という実質的意味は、皇太后よりも上の位置として「女院」になったという意味です。つまり、皇太后よりも、上皇よりも、上のポジション、最大実力者という意味です。


(2)兼通と兼家の抗争


 平安時代中期の権力抗争は、「藤原北家と非藤原北家」との抗争でした。それが、969年の安和の変によって、源高明が大宰府へ左遷されたことにより終わりました。源高明は、藤原北家と仲がよく藤原北家の娘を妻にして、いわば藤原北家と一体化していた人物です。それでも、「藤原北家よりも上へ行くかも」という憶測だけで左遷されてしまった。もはや、非藤原北家は「疑われるだけ」で身の破滅です。それゆえ、「藤原北家と非藤原北家」の抗争は終わりました。


 新たに始まったのは、「藤原北家の内部抗争」で、最終的に、藤原道長の天下となります。いろいろありますので、とりあえず整理してみます。


 「第1次藤原北家内部抗争」…「兼通と兼家の抗争」

 「第2次藤原北家内部抗争」…「兼家と頼忠の抗争」…詮子が円融天皇の第一皇子を産む

 「第3次藤原北家内部抗争」…「兼家と義懐の抗争」…花山天皇の純愛出家

 「第4次藤原北家内部抗争」…「道長と伊周の抗争」…詮子が道長に肩入れ


「第1次北家内部抗争」は、藤原師輔(909~960)の3人の子供、すなわち、伊尹・兼通・兼家の3兄弟の中の「兼通と兼家の抗争」です。


 長男・藤原伊尹(924~972)は、父・師輔の死後、順当どおり、政界のトップに立ちますが、49歳で死去しました。


 そして、次男の兼通(925~977)と3男の兼家(929~990)の抗争が展開されます。これは、連続劇画のように面白いです。とても面白いのですが長話になってしまいますので割愛して、「兼通・兼家の最後の抗争」の場面だけを紹介します。


 関白藤原兼通は重病となりました。本人も周辺の人も、回復の見込みなし、死期間近と悟っていました。兼通は自宅で臨終の時を迎えるべく静かに寝ていました。


 そんな状況のなか、家人が、「兼家の牛車が、こちらに向かっています」と報告した。


 兼通は、「ズッと兄弟喧嘩ばかりしていたが、やはり兄弟なんだな~、見舞いに来るんだな~、死に際に、仲直りするか……」と思った。


 亡き両親の面影が浮かぶ。亡き両親が微笑んでいる。家人に、兼家来訪の歓迎準備をさせました。


 ところが、兼家の牛車は内裏へ行ってしまった。


 家人から、「兼家は『関白の後任は自分に』と奏上するとのことです」と報告が来た。


 兼通は激怒した。怒りが頂点に達した。


 兼通は、危篤状態にありながら、急遽4人の家人に抱えられながら参内した。


 そのときちょうど、居並ぶ公卿のなか、兼家が奏上を終え天皇の裁可を受ける直前であった。兼通の物凄い形相に、兼家はビビってその場を逃げてしまった。


 鬼人の如き形相の関白兼通は「これより最後の除目を行う。次の関白は、左大臣藤原頼忠とする。藤原兼家の右近衛大将の職を解任し治部卿へ降格させる」と宣言した。


 左大臣藤原頼忠は、3兄弟のいとこです。


 円融天皇も居並ぶ公卿も、兼通の形相に鬼神・夜叉を見て、一言もなく従った。そして数日後、兼通は亡くなった。


 ともかくも、972年に長男・伊尹、977年に次男・兼通が亡くなりました。3男・兼家は元気です。しかし、兼通の怨念遺言によって、兼家と藤原頼忠の「第2次藤原北家内部抗争」となりました。


(3)兼家と頼忠の抗争


 藤原兼家と藤原頼忠(924~989)はいとこです。


 当時の権力抗争の基本は、自分の娘を天皇の妃にして、早く皇子を産んでもらうことです。そのため、しばしば想像妊娠も発生しました。武士時代の合戦殺戮抗争と比べれば、まったく平和なお伽噺です。もっとも、合戦殺戮はありませんが、抗争の手法は嘘話による謀略・陰謀で常態化していました。


 つらつら思うに、現代政治でも、まともな議論ではなく、嘘話が流行ということが、しばしばです。そのことは、さておいて……。


 当時の天皇は円融天皇です。


 969年、円融天皇が即位して、まもない972年に伊伊が亡くなり、兼通・兼家の抗争が始まりました。973年に、兼通の娘・媓子(こうし/てるこ、947~979)は入内して、同年、中宮となりました。しかし、子宝に恵まれず、977年兼通が亡くなり、ついで979年、中宮・媓子は33歳で崩御しました。


 そして、空席の中宮を巡って、頼忠と兼家の競争となります。


 978年4月、頼忠は娘の遵子(じゅんし、957~1017)を入内させ、982年に中宮にしました。


 一方、978年8月、兼家は次女の詮子を入内させ、女御にしました。そして、980年、第1皇子懐仁(やすひと)親王(のちの一条天皇)を、兼家の東三条邸で生みました。


 第1皇子を生んだ詮子が中宮になるのが当然と思われていましたが、前述のように遵子が中宮になってしまった。当然、兼家も詮子も非常に悔しがった。詮子と第一皇子懐仁親王は、一旦は宮中へ戻りましたが、兼家は2人を東三条邸へ引き取り、自身も宮中への出仕をやめてしまった。どうやら詮子は、男は父・兼家だけ、父・兼家の言うことは無条件で従うというファザコンであったようです。


 円融天皇は頼忠への依存を深め、頼忠と兼家の抗争は膠着状態となりました。


 しかし、円融天皇は984年、兼家と妥協しました。妥協の内容は、次の3点です。


①円融天皇(第64代)は、冷泉天皇(第63代)の皇太子(冷泉天皇の第1皇子)に譲位する。花山天皇(第65代、968~1008、在位964~986)です。花山天皇の母は、伊尹の長女・懐子(かいし/ちかこ、945~975)です。

②円融天皇は上皇(太上天皇)になります。

③花山天皇の東宮(皇太子)には、円融天皇と藤原詮子の第1皇子懐仁親王(のちの一条天皇)をあてます。


 その結果、頼忠の力は急速に弱まっていきます。それに反して、兼家の力は増大しました。


(4)花山天皇の純愛出家物語


 花山天皇の母・懐子も、懐子の父・伊尹も、すでに亡くなっています。しかし、伊尹の子の義懐(よしちか、957~1008)が花山天皇の母の弟ということで、急に抜擢・昇進し権力の一角を占めることになりました。宮中は、兼家・頼忠・義懐の三者対抗という図式になってしまった。ここに、「第3次藤原北家内部抗争」が展開されます。


 兼家としては、一刻も早く花山天皇に譲位してもらいたい。そして、詮子の第1皇子懐仁親王が天皇に即位してもらいたい。兼家の陰謀によって花山天皇は、わずか2年で譲位します。譲位の経緯は、まったくもってお伽噺そのものです。『栄花物語』『大鏡』のお話は、事実を脚色した物語ですが、全面的な嘘話ではありません。


 花山天皇は、藤原忯子(しし/よしこ、969~985)に滅茶惚れした。15~16歳の青年が16~17歳の美女に身を焦がすような恋をしたのであります。青春恋愛ドラマですねぇ~。そして、彼女は懐妊しましたが、17歳で死去しました。花山天皇は、♬泣いて~泣いて~泣きぬれて~♬、悲嘆のあまり、たびたび出家を口走ります。


 義懐・頼忠は、「若気の至り」と翻意を促しました。


 しかし、兼家は「しめた!」とばかりに、なんとしてでも出家させようと段取りしたのであります。


 元慶寺(花山寺)の僧・厳久は、しきりに出家の貴さを教え諭します。厳久は詮子の意向で動いていました。


 兼家の3男・道兼は「私も一緒に出家します」と花山天皇の出家を誘導しました。花山天皇は、いざとなると迷うのですが、道兼の巧みな演技力によって、元慶寺(花山寺)で出家となります。


 そして、道兼は出家せず、花山天皇は、「騙された!」と悔しがりますが、後の祭り。


 義懐は政治的敗北を悟り出家します。頼忠は関白を辞職し、名ばかりの太政大臣となります。


 なお、『大鏡』には、出家の道中、すなわち宮中から元慶寺(花山寺)の間、邪魔が入らぬよう、武家の源満仲の部下が内密で警護したという話、あるいは、陰陽師の安倍晴明が超能力を発揮する話、もう、完全にベストセラー漫画になっています。漫画ですが、政治学用語では、クーデターです。「日本史3大お笑い」を選ぶなら、花山天皇純愛出家物語は1つでしょね。


 余談ですが、花山天皇―法王の女好きエロ・エピソードはいっぱいあります。エロが芸術に通じるのか、和歌・絵画などの才能を持ち合わせていました。


(5)兼家の子たち


 かくして、986年、若干7歳の一条天皇(第66代、980~1011、在位986~1011)の即位となりました。


 同年、東宮には居貞親王(のちに第67代・三条天皇)がなりました。冷泉天皇の第2皇子で、母は兼家の長女・藤原超子(ちょうし/とおこ、954~982)です。


 同年、兼家は、摂政(のちに関白)になりました。やっと、兼家は摂関家の嫡流の地位を確立しました(986年)。


 同年、一条天皇の母(国母)である藤原詮子は、皇太后となりました。藤原詮子は、一条天皇即位までは目立った存在ではありませんでした。それが、一挙に、表舞台に登場します。


 986年の一条天皇即位から3年間余は、大祝賀会が頻繁に挙行されました。宴会の余興に、50人の少年の頭を剃るという小坊主大量生産もありました。兼家の仏教レベルとは、漫画お伽噺であったようです。


 990年に兼家が死去しました。詮子は事実上、藤原北家のトップという大実力者になりました。藤原実資の日記『小右記』に「国母専朝事」と書かれるほど、政治に関与したのでした。


 991年に円融法王が崩御すると、皇太后詮子は東三条院の院号が贈られ、日本史初の「女院」となりました。初の「女院」は、皇太后よりも強力な地位で、上皇(太上天皇)よりも上の地位とみなされました。東三条院詮子は絶大な権力者になったのです。なお、詮子の「女院」だけが特別に強力であったわけで、その後の女院は皇太后が出家したという普通の意味です。


 ここで、兼家の子を整理してみます。


 兼家の子は、道隆(長男)、超子(長女)、道綱(次男)、道兼(3男)、詮子(次女)、道義(4男)、道長(5男)、綏子(すいし/やすこ、3女)、兼俊(6男)らです。


●長男・道隆(953~995)は、父・兼家のあとを継いで990年に関白・摂政となる。995年に、大酒飲みの糖尿病で死去。道隆は、自分の嫡男・伊周を強引に出世させた。また、長女・定子を強引に皇后(号は、中宮)とした。道隆の死後、伊周と道長の抗争が始まる。道隆の母は、兼家の正室・時姫。


 ここで、定子について若干説明します。


 道隆の長女・藤原定子(さだこ/ていし、977~1001)は990年に一条天皇に入内し、女御となり、同年すぐさま皇后となる。本来、皇后=中宮なのですが、道隆は強引に、皇后と中宮を分離させて、皇后(号は、中宮)とした。ごちゃごちゃした話だが、当時の中宮は藤原遵子で、円融天皇(第64代)が984年に譲位した後も中宮でした。藤原遵子を新たな職名「皇后宮」にして、定子を中宮にしたのであった。この「一帝二后」の強引手法は、かなり不評であった。


 定子と一条天皇は仲がとても、とても、とてもよかった。父・道隆の死後、定子の兄・伊周と藤原道長との権力闘争が道長勝利となり、定子はいわば「日陰の境遇」となります。それでも、一条天皇と定子の仲はとてもとてもよかった。なお、定子の死去まで仕えた女房が清少納言です。


●長女・超子は、冷泉天皇の女御となり、三条天皇を生んだ。ただ、この時点では、すでに亡くなっています。超子の母は、時姫。

●次男・道綱(955~1020)の母は、『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母です。おとなしい性格、能力不足のため、他の兄弟より出世が遅かった。

●3男・道兼(961~995)は、花山天皇の出家騒動で活躍した。長男・道隆が995年5月に亡くなり、関白になったが、その直後の6月に亡くなった。「七日関白」と言われる。道兼の母は、時姫。

●次女・詮子は、円融天皇の女御となり、一条天皇を生む。986年に一条天皇が即位してから権力の中心で動き始める。990年父・兼家の死、995年兄の道綱・道兼が亡くなると、詮子は、事実上の最高権力者となった。弟の道長を支援し、道長の摂関政治黄金時代を切り開いた。詮子の母は時姫。

●4男・道義は、表舞台に登場しない。「ひきこもり」かも。道義の母は藤原忠幹の娘。

●5男・道長(966~1028)は、995年の2人の兄、道隆、道兼の死去により、主役に躍り出る。伊周との抗争に勝利し、政権を獲得する。一条天皇に長女・彰子を入内させました。道長の母は時姫。

●3女・綏子(すいし/やすこ、974~1004)は、三条天皇の東宮時代の妃。最初は寵愛されたが、「氷実験」エピソード、綏子の不倫で離縁となる。とても面白いお話ですが省略します。綏子の母は藤原国章の娘。

●兼俊(けんしゅん、962~?)は、真言宗の僧。いかなる理由で僧になったかは、不明ですが、当時は、出家はひとつのコースで珍しいことではありません。兼俊の母は不明。


(6)東三条院詮子が道長を引き出す


 990年に兼家が死去して、新たな抗争が始まりました。兼家生存中は、兼家の子達は一致団結していましたが、死去したとたん、不穏な雰囲気となりました。2男・道綱は、母が異なり、かつ、おとなしい性格のため、兄弟抗争の埒外でした。兄弟間の思惑は別として、表面的には、長男・道隆の時代でした。しかし、995年、兼家の長男・道隆、3男・道兼が相次いで死去します。


 ここに、兼家の長男・道隆の嫡男である伊周(974~1010)と道長の「第4次藤原北家内部抗争」が勃発します。


 伊周は、父・道隆が関白だったから、自分が関白に、と強く動いた。一条天皇も、それでよし、という意向に傾きつつあった。道長は、伊周の関白就任が自分の出世(天下取り)の障害になると予想した。


 東三条院詮子は、道長支援に動いたのだが、その理由は何だろうか。


 人間的には、伊周も道長も、相当のワルです。藤原実資の『小右記』には、2人ともワルと書かれてあります。道長を褒めたたえる人が多いのですが、道長を「大不忠の人也」と記しています。伊周は、和漢の詩の教養や容姿が非常に優れていました。それゆえ、宮中で、天皇・定子・女房を相手に徹夜で詩文の講義をするなど人気がありました。


 東三条院詮子は、「円融天皇はどうでもいい」・「兼家・詮子が一番」という生活をしてきました。兼家死去後は「詮子が一番」です。詮子にとっては、「道長は扱いやすい、伊周は扱いにくい」のです。なぜか。「嫁と姑」問題です。詮子にとって、「我が子・一条が嫁・定子と仲がよい」とは、「我が子を嫁に奪われた」という感情になります。「定子憎し」は「伊周憎し」へ連動します。あまりにも下世話な発想なので、歴史学者は無視しがちですが、詮子は定子・伊周を嫌っているのです。必然的に、詮子は道長の味方となりました。道長は詮子を利用した。


 995年、東三条院詮子は、伊周の関白就任を阻止するため、そして、弟・道長支援のため、夜間、一条天皇の寝所を訪れて泣きながら説得したのであります。


①道長と伊周を比べて道長のほうが優れている。

②伊周の父・道隆は、強引手法で伊周を出世させた。この強引手法は伊周も引き継いでいます。伊周は公卿の間では評判がよろしくない。


 そんな話を、わが子・一条天皇(15歳)に泣きながら話したのであります。15歳の天は、母がそんなに言うなら、そうかも……と思ったのでしょう。かくして、伊周は関白になれませんでした。そして、一条天皇は道長の積極的登用を考えるようになりました。実際、3男・道兼の死の3日後、道長は関白に準じる権限である「内覧」が許されました。


 高校の教科書には、関白・摂政の説明はあっても、「内覧」の説明はありません。「内覧」は、天皇に奏上する文書を事前に読んで天皇に意見を述べることで、関白の職務と同じです。関白のほうが名義的には上ですが、実質的には「内覧」=「関白」です。したがって、道長が「内覧」となったことは、道長政権が樹立されたということです。道長政権樹立の黒幕は、東三条院詮子だったのです。


(7)花山法王弓矢事件


 伊周と道長の対立は、口論、喧嘩、傷害、強盗と連続事件となった。そして、996年正月、アホらしい事件が発生しました。ある邸宅にA女とB女がいました。伊周はA女に通っていました。ある僧がB女に通っていました。そうとは知らない伊周は、その僧はA女に通っていると勘違いして、脅しのため矢を射った。矢は僧の袖を突き抜けました。A女とB女の勘違いだけでなく、その僧とは実は花山法王だったのです。花山法王は、法王が女のもとに通っていたと発覚すると格好が悪いので黙っていました。


 でも、結局、バレてしまいました。さぁ大変、「法王に矢を射るとは不敬なり」と大騒ぎになりました。これは『栄花物語』にある話で、真実はわからないが、3ヵ月後、伊周は「射花山法王事」という罪状で流罪を宣告された。事件は、道長の策謀という説もあります。伊周の没落で、道長の独裁が完成しました。道長にとって、伊周の妹である中宮・定子は最後の邪魔者となりました。


 なお、このアホ事件で、中宮・定子は自らハサミをとって落飾した。どの程度、髪を切ったのか不明で、後に、「出家したのではない」という声もあり、たぶん、ほんの少しだけだったのでしょう。


 そして、落飾の時、定子は妊娠していました。


 一条天皇は定子を心から愛していたので、再び宮中へ迎え入れようとしました。しかし、独裁者・道長の意向で、出家後の后の再入内という異例であるから正式には内裏ではない場所の建物が用意されました。しかも、2人は面会すら禁止されました。独裁者・道長の意向に反してでも、ともかく変則的再入内が実現した理由は、一条天皇の定子への愛、そして、定子の妊娠です。お腹に天皇の子を宿しているため、粗略にはできません。そして、定子の後宮も変則的ながら復活します。耐え難い悲運を心の奥底に止めながらも、定子は明るく輝きます。


 道長の意向で、一条天皇は定子のもとへ通うことが禁止され、手紙のやり取りすら道長の監視下にありました。道長は、一条天皇が定子以外の女性に関心が向くように、2人の女性を入内させました。しかし、一条天皇はさほど関心を寄せませんでした。なお、2人のうち1人は、想像妊娠だか異常出産をしました。生まれたのは、水でした。


 やがて、定子は皇女を出産します。東三条院詮子は、世間でよくある「嫁は嫌いでも、初孫は大好き」という行動になります。


 一条天皇と定子が離れ離れになって1年3ヵ月、皇女が生まれて半年後、997年6月、ようやく、東三条院詮子の了解が得られ、定子の正式再入内が実現しました。定子の魅力あふれる後宮サロンが復活し、一条天皇が通います。ただし、道長の定子へのさまざまな嫌がらせは継続しました。


 この時代、何か重大事件が発生すると恩赦が発令されました。重大事件の基準はありません。初孫で気分がよかった東三条院詮子が病気になりました。病気回復祈願のため、997年3月、恩赦が発令され、伊周の罪が許されました。しかし、たまたま、「宋の脅威」事件が勃発して、大宰府はテンヤワンヤとなり、伊周の帰京は997年12月(現在の歴では998年1月)になりました。


 そもそも、伊周が流罪になった原因は、花山法王弓矢事件ですが、それに、東三条院詮子への伊周の呪詛により病気発生が加わっていました。呪詛なんて事件は証拠があるわけでなく噂しかなく、その噂も敵を貶めようとする側が発信者です。東三条院詮子は薄々、そのことを承知していたのでしょう。自分の病気をネタに嘘の呪詛で伊周を流した。神仏が嘘に怒り、再び自分を病気にしたに違いない、そればかりか、可愛い孫にも禍が及ぶかも知れない、そう思って、恩赦発令となったと思います。


 さらに、詮子の内心を想像するに、定子が皇女を産んだということは、次は、皇子を産むかもしれない。そうなると、定子の兄の伊周を大宰府に流したままでは、マズイと思ったのでしょう。


 とにかく、東三条院詮子の病気が、伊周の流罪の要因になったり、逆に、恩赦になったり、詮子の動向が政治に直結しています。


(9)定子と彰子


 定子の一生は、995年・996年から急転直下、悲運の姫となりました。でも、一条天皇は、定子にトコトン惚れていました。そして、第1皇女に次いで、999年、第1皇子・敦康親王(あつやす、999~1019)を出産します。


 偶然、この出産日、道長の長女・彰子(あきこ/しょうし、988~1074)12歳が、一条天皇の女御となりました。公卿たちは全員、彰子のもとへお祝いに参じましたが、誰も定子の第一皇子誕生のお祝いに参じなかった。皆、道長を恐れているのです。


 彰子は若すぎるので、当分、妊娠の可能性はゼロです。したがって、この時点では、一条天皇の第1皇子・敦康親王は、唯ひとりの皇子なので、当然ながら表面上は大切にされました。伊周もそこそこの待遇を与えられました。実態は、定子のもとへ参じる公卿はひとりもおらず、定子は三条天皇と我が子を見つめながら静かに幸福を噛みしめていたのでした。


 1000年2月、彰子は中宮、定子は皇后、という「一帝二后」となりました。すでに先例もあり、さらに理論武装(内容は省略)もされ、批判もなくスンナリ決まりました。


 おそらく、この頃、道長の精神状況は、「早く彰子が懐妊するように」と、そればかり願っていたと思います。でも、まだ12~13歳です。しかも、一条天皇は定子の後宮に入り浸っていて、彰子の後宮にはあまり来ません。肩書だけは、彰子は中宮になっても、後宮に来てもらわないことには、どうにもならない。


 東三条院詮子は道長にアドバイスしたと推理します。


 定子の後宮には清少納言という才媛がいて楽しい雰囲気がありますのよ。中宮の肩書を付けたって駄目ですよ。お人形のような彰子さまを着飾った女房集団が取り囲んでいても、一条天皇は通ってきませんよ。彰子さまの周りにも才媛をそろえて知的な楽しい後宮をつくったほうがよろしいですよ。美人女房ではなく才媛女房をそろえなくてはいけません。紫式部(973~1031)なる女性が物語を書いていて、彼女の周辺ではたいそうな評判ですよ。


 東三条院は、定子を嫌っていました。その感情は、定子後宮を凌ぐ魅力あふれる彰子後宮の形成へと連動します。スケベ男が喜ぶ美女だらけ後宮ではなく、定子後宮を上回る教養ある楽しい文芸後宮をイメージしたのです。ちなみに、紫式部は天然痘のあばたが顔に残り美人ではない、という説があります。


 紫式部は、夫が1001年に死去し、その後、『源氏物語』を書き始めました。彼女の近隣では連続人気ドラマが始まったようなもので、「この次は、どうなるのかしら」とワクワクです。「続き」が手渡されると、キャー、ワーとばかりに読み、そして書き写しました。


 貴族の世界は狭いので、その噂は、東三条院にも宮中にも届きました。宮中にも、『源氏物語』の最初のほうの巻を入手した女房もいたでしょう。みんな「この続き、どうなるか、早く次を読みたい」です。東三条院は、紫式部の後宮入りをアドバイスしたに違いありません。紫式部は、いつから彰子の後宮に来たか不明ですが、早ければ1001~1002年頃ではないでしょうか。確実に、1006~1007年には、彰子の女房になっています。


 1001年の暮、定子は第2皇女を産み、そして崩御します。


 東三条院詮子が内親王ひとりを養育しました。詮子は定子を憎んで嫌がらせをしていましたが、孫は可愛くてしょうがないのです。皇子と内親王ひとりは定子の妹・御厘殿(みくしげどの)が養育しました。御厘殿とは後宮の裁縫をする場所を意味しますが、定子の妹はそこの女官でしたので、そう呼ばれていました。1002年に、女院、御厘殿が亡くなった後は、一条天皇の意向で、皇子は中宮彰子が引き取り、2人の内親王は定子の実家が引き取りました。一条天皇は定子が亡くなっても、定子の生んだ子をとても大切にしました。


 なお、結局は、定子が産んだ第1皇子・敦康親王は立太子の話題になるだけで実現しませんでした。理由は、むろん道長の意向です。理屈としては、定子の母の曽祖父が、王朝最大スキャンダルである在原業平と伊勢斎宮・恬子(やすこ)内親王の一夜密会の子(神を冒涜して生まれた子)ということでした。藤原行成の日記『権記』に書いてあることです。なお、恬子内親王に関しては、「昔人の物語(59)」(59) 恬子内親王「王朝最大級スキャンダル」 | 医薬経済オンライン (iyakukeizai.com)をご参照ください。


 1002年、東三条院詮子の崩御。


 彰子の後宮には、紫式部だけではなく、和泉式部、赤染衛門、出羽弁、伊勢大輔など、教養ある楽しいお話、すばらしい和歌が飛び交う、とても楽しい文芸サロンが徐々に形成されました。彰子もお人形お姫様から成長していきました。それゆえ、一条天皇も通うようになりました。


 そして1008年、彰子が第2皇子・敦成親王(のちの後一条天皇)を産みました。『紫式部日記』には、そのときの様子(道長の狂喜ぶりも含め)が詳しく書かれてあります。


 1011年、一条天皇崩御。


 詮子が「嫁憎し」でつくった道長の天下が続きました。


————————————————————

 太田哲二(おおたてつじ)  中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。