神奈川県の湘南地域には季節を問わず国内外からの観光客が溢れ、連休ともなれば住民が道路や公共交通の混雑に巻き込まれる。都心への遠距離通勤や高齢者の外出困難など、何かと移動の問題を抱える地域でもある。そんな湘南で、さまざまな領域の専門家・産業・地域住民が参加し、“産官学医”連携で「ヘルスケアMaaS」の実現に向けた議論が進められつつある。国土交通省も「日本版MaaSの推進」を掲げているが、ヘルスケアと移動を組み合わせた取り組みは珍しい。その経緯と現状を紹介する。


■「ヘルスケア」と「MaaS」を組み合わせる理由

 主要な舞台は、東海道線を挟んで藤沢市と鎌倉市にまたがる、38ha(東京ドーム8個分)ほどの村岡・深沢地区。きっかけは「ヘルスイノベーションの最先端拠点形成」を目的に掲げ、2019年に両市と神奈川県、湘南アイパーク、湘南鎌倉総合病院が結んだ5社協定だ。原点には、ヘルスケアの開発拠点・湘南アイパークと、地域医療の拠点かつ徳洲会の旗艦病院である湘南鎌倉総合病院が隣接している“偶然”を活かそうとする構想があった。同年には「ヘルスケアMaaS」の創出を目指して、横浜国立大学も湘南アイパークに研究拠点を設置し、アカデミックな立場からこの構想に参加している。


 翌20年からは、❶次世代健康管理分科会、❷ヘルスケアMaaS分科会、❸スポーツ分科会を設置し、将来的な健康寿命の延伸やヘルスケア分野の産業創出を目指して、具体的な研究が始められた。また、21年以降は毎年、地域住民等を対象としたオープンイベントで、体験型の展示や専門家によるシンポジウム、ディスカッション等が行われてきた。イベント開催にあたっては、未来のイメージを目に見える形で発信しやすい「ヘルスケアMaaS」がテーマに選ばれ、実際、初回と2回目は病院への移動を想定した自動運転車への試乗が前面に出されていた。


 「ヘルスケアMaaS」について、田中伸治氏(横浜国立大学 都市イノベーション研究院 教授)は次のように説明する〈図〉MaaS(Mobility as a Service)は移動を“サービス”として考える。人や物が目的地に到達することを主眼とし、情報通信技術を活用して、特定の交通手段に捉われず柔軟な移動を実現する。そこにヘルスケアを組み合わせる理由は、医療・福祉・介護に関わる移動に限らず、通勤・通学など日常的な移動も対象とし、交通手段の組み合わせや環境の改善によってシームレスな移動を可能にすることで、健康的な生活を支えられるのでないかという発想があるからだ。



■間口が広い「健康と移動」の議論

 筆者は、2023年12月1~3日に「HEALTHCARE MaaS 2023 健康・移動をデータで結ぶ未来」をテーマに湘南アイパークで開催されたイベントのうち、初日のエキスパートシンポジウムを聴いた。過去2年のイベント参加経験から「ヘルスケアMaaS」関連の話だという先入観で聴いている間は少々混乱したが、前述の分科会の3テーマを念頭に置くと自分なりに整理がついた〈図〉


 最も多かったのは「次世代健康管理」の話題。成松宏人氏❶は、健康と病気を二元論でなく連続的な状態と理解し、自分の健康を自分で保つことで最終的に健康長寿を達成する“ヘルスプロモーション” の重要性を強調。ほぼ全ての病気に程度の差はあれ遺伝と環境の両方が関わる。疾患リスクを明らかにして未病対策に役立てるには、健康な状態のときからゲノム情報を含めた網羅的な生活習慣、健診・健診データをビッグデータ化する必要があるとし、具体的なプロジェクトとして「神奈川県みらい未病コホート研究」およびコホートの一部に介入を行うユニークな「介入コホート研究」の手法を紹介した。


 佐藤賢治氏❷は、心血を注いで作った「さどひまわりネット」を紹介。佐渡の医療と介護には、人口の高齢化による体制充実、人材と資源の確保、基本的に島内で完結できる体制の整備という3つの大きな課題がある。同ネットは、これらを乗り越えるべく、島内有志の病院・医科および歯科診療所、薬局、介護施設で協議会を設立し、国と新潟県、佐渡市の支援を得て13年4月に稼働。10年を経て痛感するのは、いかにシステムを整えても医療福祉従事者や住民が理解し活用しないと役割を果たせないこと。そこで、電子健康記録(EHR)を参照型から提案型に進化させる試みに取り組んでいるという。


 山上浩氏❸は「救急のデジタル化の遅れ」と「移動」の課題を指摘。湘南鎌倉総合病院・湘南ERの年間受け入れ実数(22年)は、救急搬送22,355件、独歩受診(walk in)46,972件で、年に6~7万人に対応している。そうした現状に対し、119番通報→救急車到着→救急隊による患者把握→搬送先病院選定→患者搬送→病院到着→治療の各段階で必要となる情報と課題を整理した。総務省・消防庁によれば、通報から救急隊到着までの所要時間は、2007年の7分から21年には9.4分に延びた。救急隊の増員は期待できず、24年4月からは医師の時間外労働が制限される。一方、今後は都市部を中心に脳梗塞等の患者増加が見込まれるため、救急応需状況は悪化することが予測されると危機感を示した。



■「レベル2」から進展の兆し

 1900年創立の江ノ島電鉄株式会社と言えば「江ノ電」のイメージだが、関口純氏❹によれば、運送旅客数は自動車(バス)事業が54%、鉄道事業28%、その他18%の割合。バスの定時性を守れないことが大きな悩みだったが、それを逆手にとった「R134BUS」を紹介。鎌倉と江ノ島を結ぶ路線で1日1便予約をとり、国道134号線の渋滞中に車窓の景色を楽しみ、夕焼けを観賞するという。他にも、シェアサイクル「SHONAN PEDAL」、蔦屋等が展開する商業施設・湘南T-SITEで2,000円以上購入者にバス無料チケットを提供するサービス、タッチ決済カード(クレジット、デビット、プリペイド)やスマートフォンによる江ノ電乗車などを次々と打ち出している。


 MaaSには5つのレベルがある〈図〉。Suicaなどの非接触式ICカードやスマートフォンアプリを用いて乗車し、Google Mapなどの地図アプリで検索したルートを移動している状況は、レベル1。先頃、1週間ほど滞在した南オーストラリア州の州都アデレード(人口約130万人)では、市の交通局が発行するSuica式のAdelaide metroCARDで、市内のバス・トラム・鉄道に乗車可能で、ルート検索サイトも市の交通局が提供していた。1トリップ当たり、ピーク時は約400円、非ピーク時は約230円で最初のタップから2時間は何度でも乗り継げる。さっさと動ける人の方が得かと思いきや、高齢者は約半額とよく考えてある。さらに、市関連の9病院で働く人は無料という設定だ。


 中心部は道路が碁盤の目状に整備された公園都市であるため、2社(Beamと Neuron)が提供するヘルメット付のe-scooters(いわゆる電動キックボード)もそこここで見かけた。まだ実証実験中だが利用者には法律上の規制があり、登録したうえでアプリをダウンロードし、現在地に近いe-scooterを見つける。利用後はステーションに戻したり、公園脇等に乗り捨てしたりしていた。公共交通とは別の仕組みで、まだワンストップではないが、各都市の環境に適した交通手段を増やすことでレベル2に近づいてけるものと考えられた。


 JR東日本のSuica導入が2001年11月。日本におけるGoogle Mapのリリースが2005年7月。気づけば20年以上が経過し、駅構内の路線図で行先を探す必要はほぼなくなった。これからの移動がどう進化するか、それがヘルスケアとどう結びつくか、そのためにITやビッグデータがどう活用されるか、引き続き注目していきたい。



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本島玲子(もとじまれいこ)

「自分の常識は他人の非常識(かもしれない)」を肝に銘じ、ムズカシイ専門分野の内容を整理して伝えることを旨とする。

医学・医療ライター、編集者。薬剤師、管理栄養士、臨床検査技師。