(1)「アレ」は巫女


 2023年(令和5年)のプロ野球は、阪神が優勝した。阪神の岡田監督は、「優勝」と言うと優勝できないので、代わりに「アレ」と言い換えた。そしたら、優勝できた。「アレ」とは、何か。おそらく、岡田監督は、単純に代名詞として「アレ」を使用したと推測します。


 私は、アレ、アレ、アレ……と考えていたら、稗田阿礼(ヒエダのアレ)を思い出しました。この「ヒエダのアレ」の「アレ」は、実は「巫女」であるらしい。


『古事記』は、記憶力抜群の稗田阿礼が暗誦していたことを、太安万侶が編纂した。稗田の「阿礼」の「アレ」とは、巫女を意味し、しかも、天の岩戸でエロチックダンスをした、「天(アメ)のウズメの命(ミコト)」の末裔なのである。ということは、「アレ」と唱えると、「巫女」を連想し、「天ウズメ命」を連想する。つまり、「アレ」は、元気噴出の呪文となるのである。


 そんなことで、稗田阿礼(ヒエダ・の・アレ、生没不詳)について、述べます。


(2)『古事記』序文


『古事記』には、太安万侶の序文があります。その序文の中に、稗田阿礼は登場します。稗田阿礼は、そこだけにしか、登場しません。繰り返しますが、稗田阿礼に関しては、生没どころか、ほとんど不明です。唯一、『古事記』の序文に登場するだけです。

したがって、まずは、『古事記』序文の概略を紹介します。


①古伝承とその意義

 臣安万侶が申し上げます。

 「そもそも、宇宙の初めは」から始まって、極めて簡単に内容が述べられています。そして、古代の様子を知ることによって、風教道徳の衰えを正し、人道道徳の回復の参考になるはずです、と意義づけています。


②天武天皇の偉業と『古事記』の企画

 次に、天武天皇(第40代、生没?~686、在位673~686)が述べられます。壬申の乱(672年)の勝利、そして、優れた徳政を行った、とベタ褒めしています。

 そして、天武天皇は、正しい歴史書を作る決意をした。稗田阿礼に現存する歴史書や伝承を暗記させた。

 しかし、天武天皇が亡くなり(686年)、歴史書編纂は実行されないままになってしまった。


③元明天皇の賛美と『古事記』編纂

 元明天皇(げんめい、第43代、生没661~721、在位707~715)が即位し、その御徳はすばらしいものであった。

 そして、711年(和銅4年)9月18日、太安万侶に稗田阿礼が暗記していることを書物にせよと命じられた。

 太安万侶は、「漢字の使い方が大変だった」と記す。


 天地開闢から推古天皇(第33代、生没554~628、在位593~628)までを、上巻・中巻・下巻の3巻の書物にして、「謹んで献上いたします」と序文は終わります。最後に、「和銅5年(西暦712年)正月28日、正五位上勲五等太朝臣安万侶」とあります。


(3)『古事記』序文の企画部分


 前述の「②天武天皇の偉業と『古事記』の企画」の後半部「『古事記』の企画」のところに、稗田阿礼が登場しますので、その箇所の全文を記します。


 原文は、次のとおりです。


於是天皇詔之「朕聞、諸家之所賷帝紀及本辭、既違正實、多加虛僞。當今之時不改其失、未經幾年其旨欲滅。斯乃、邦家之經緯、王化之鴻基焉。故惟、撰錄帝紀、討覈舊辭、削僞定實、欲流後葉。」

時有舎人。姓稗田、名阿礼、年是二八。為人聡明、度目誦口、拂耳勒心。即、勅語阿礼、令

誦習帝皇日継及先代旧辞。

然、運移世異、未行其事矣。


 太安万侶は「漢字の使い方が大変だった」と記しています。『日本書紀』は純然たる漢文ですから、中国人が読んでもわかります。『古事記』も漢文が主体ですが、「倭言葉」を漢字で書く方式も採用していて、太安万侶は、とても苦労したようです。つまり、『古事記』は漢文と漢字の倭言葉の「漢倭二重文章」なので、中国人には、さっぱり理解できません。したがって、『日本書紀』は外国(中国)向けの書、『古事記』は内地(倭)向けの書であると言えます。


『古事記』は、日本人でも、少し時代が下ると、読むのが大変という代物でした。だから、ほとんど読まれませんでした。本居宣長(1730~1801)が、『古事記』の注釈書『古事記伝』を発表するまでは、『古事記』は「何か漢字がズラズラ書いてあるな~」という程度、あるいは「偽書」とみなされ、ほとんど無視されていました。『古事記伝』以後、『古事記』は大いに注目されました。


 それでは、漢字ズラズラの原文を「読み下し文」にしてみます。


 ここに天皇、このように詔(みことのり)たまわった。

「朕聞く、諸家の所で持てる帝紀及び本辞、既に正実に違い、多くの虚偽を加ふ、今の時にあたり、その失改めずば、未だ幾年を経ずして、その旨、滅びなむとす。これすなわち、封家の経緯、王化の鴻基(こうき)なり。故に、帝紀を撰録し、旧辞を討覈(とうかく)して、偽りを削り、実を定めて、後の葉に流れんと欲す」

 時に舎人有り。姓は稗田、名は阿礼。年はこれ二十八。人となり聡明、目に度すれば口に誦(よ)み、耳に拂るれば心に勒(きざ)む。即ち、阿礼に勅語す、帝皇日継及び先代旧辞を誦習(しょうしゅう)せしめる。

 然れども、運移り世異なりて、未だその事を行わざる。

 

「読み下し文」で、ほぼ意味がわかったとことと思いますが、念のため、「現代口語訳」を書き添えておきます。


 このとき、(天武)天皇がこのように仰せられた。

「朕が聞くところでは、諸家の所に伝わる帝紀及び本辞は、今では事実と違い、多くの嘘が加わっている。今このとき、その誤りを正さないと、歴史の本質が滅んでしまう。これらの歴史は、国家の経過、王徳の政治の根幹だ。それゆえ、帝紀を選択記録し、旧辞を調べ考え、偽りを削って、正しい歴史を定めて、後世へ伝えようと思う」

 そのとき、ひとりの舎人がいた。姓は稗田、名は阿礼。年は28歳。聡明な人で、目にしたものは口で唱えることができ、耳にしたことは心に収めて忘れない。(天武天皇は)すぐさま、阿礼に勅語した。『帝皇日継』と『先代旧辞』を誦習(しょうしゅう)せよ(繰り返し読んで暗記せよ)。

 

 しかしながら、天武天皇が亡くなって、歴史書編纂は実行されませんでした。


 ここで、「帝紀及び本辞」、「帝紀、旧辞」、「帝皇旧辞と先代旧辞」について若干の説明をしておきます。


『古事記』は、日本に現存する最古の歴史書です。かつては存在したが紛失してしまった歴史書があった。


 第一に、『天皇記』『国記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』である。『日本書紀』の推古28年(620年)に、聖徳太子と蘇我馬子が編纂したと記されている。その書はどうなったか。


『日本書紀』では、645年の「乙巳(いっし)の変」の際、蘇我蝦夷の邸宅が焼かれたときに『天皇記』は全部焼けた。『国記』は一部焼失で、焼け残った一部は中大兄皇子に奉献した、と記されてある。ただし、焼け残った『国記』の一部も行方不明で、現存しません。『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』は、どうなったか何も書いていない。ともかく現存していません。


 余談ながら、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』の読み方について。「おみ・むらじ・とものみやつこ・くにのみやつこ・ももあまりやそともの・を・あわせて・おおみたから・ども・の・もとつふみ」ということです。「百八十部」の倭語の読み方は難しいですね。「公民」は、「こうみん」ではなく、「おおみたから」であります。「民」は「たから」なのです。


 なお、645年は、語呂合わせで、「虫殺して大化の改新」と暗記したのですが、現在は645年とは「乙巳(いっし)の変」の年で、「大化の改新」の年ではなくなりました。「大化の改新」とは、「乙巳の変」というクーデターを含め、その後の一連の改革を言うようになりました。


 次が、『帝皇旧辞』(略して「帝紀」)と『先代旧辞』(略して「本辞」「旧辞」)です。『古事記』以前に、『帝皇日継』と『先代旧辞』は存在していたことは確かです。


 紛失してしまったので、内容は推理・想像するのみです。『帝皇日継』は、歴代天皇の系譜などが書かれていたらしい。『先代旧辞』は、各氏族伝来の系譜などが書かれていたらしい。別々の2冊ではなく、一体的に取り扱われていたとの説もあります。『天皇記』『国記』『臣連(中略)本記』との関連は不明ですが、似たようなことが書いてあったと推理します。


(4)『古事記』の成立過程


 復習です。


➀天武天皇が、歴史書編纂を決意して、稗田阿礼に「帝紀」「旧辞」を暗記させた。しかし、天武天皇は亡くなり、稗田阿礼の暗記だけに終わった。

②持統天皇(第41代、在位690~697)は、天武天皇の皇后であった。天武の歴史編纂事業を引き継いだが、資料収集だけに終わった。

③文武天皇(第42代、在位697~707)は、天武天皇の孫である。歴史編纂事業は停滞していたようだ。

④元明天皇は、文武天皇の母である。711年9月18日に、太安万侶に稗田阿礼が暗記していることを書物にすることを命じた。そして、3ヵ月後の712年正月28日に献上された。


 要するに、稗田阿礼は約30年間、暗記していたのだが、実際に文章化したのは、たったの3ヵ月であった。そんなに簡単なら、持統、文武の時にできたであろうに……、何をモタモタしていたのだろか……。


 私の想像では、『古事記』は、正史『日本書紀』編纂のひとつの過程ではなかろうか。


 元明天皇は、『古事記』が献上された翌年の713年に諸国に『風土記』の編纂を命じている。また、『日本書紀』は、720年に完成している。そこから想像できることは、『日本書紀』編纂のため、『古事記』を書かせた、また『風土記』も書かせた、ということではなかろうか。


 そもそも、歴史書編纂事業は、聖徳太子(574~622)の頃には、国家事業として始まっていた。しかし、あれやこれやで、進展しなかったが、天武天皇は強く歴史書編纂を命じた。正式の歴史書を編纂するため、膨大な資料が必要です。正史『日本書紀』編纂にあたっては、実に多くの資料が集められました。


『帝紀』『旧辞』については、稗田阿礼の頃には、虚実が入り混じった不正確なものしか残っていなかった。稗田阿礼は可能な限り、正確に暗記した。


 持統天皇は、691年に、「諸氏(十八氏)の墓記」を提出させている。これも、『日本書紀』の資料である。


 それ以外にも、藤原家伝、各地の伝承、政府の記録、遣隋使・遣唐使などの個人の手記、各地の寺院の縁起、中国・百済など外国の資料などが集められた。


 そして、『古事記』をベースにして、これらの資料から必要なものを『古事記』に付け加え、また、『古事記』のある部分を削除した。そして正史『日本書紀』が完成した、と想像します。

 

(5)天ウズメ命と猿田彦


 稗田阿礼は「舎人」である。「舎人」とは、皇室や上級貴族に仕える役人である。かつては、なんとなく「舎人」は男性だけと思われていたが、少数ながら女性の「舎人」も存在したようだ。その代表は「猿女君」(さるめのきみ)という氏族である。「猿女君」の「猿」の文字から、モンキーを連想しがちだが、「戯(さ)る女」の意味らしい。


 猿女君の一族は、『古事記』のスーパーセクシーヒロイン・天(あま・の)ウズメ命(の・みこと)を始祖とする。


『古事記』では「ウズメ」は「宇受蕒」の文字で、『日本書紀』では「鈿女」である。「蕒」の音読みは「バイ」で、訓読みは見当たりません。どうして、「メ」と読めるのかわかりません。「鈿」の文字の音読みは「デン、テン」で、訓読みは「かんざし」である。どうして「ウズ」と読めるのかわかりません。


 天ウズメが、記紀で登場するシーンは3回あります。


 第1は、『日本書紀』にある話です。須佐之男命(スサノウのミコト)が高天原へ向かっている姿を、天ウズメが遠くから発見し、天照大神に報告した。単に遠いもよく見える視力という意味だけではなく、魅惑的な目という意味を忍ばせています。そのことは、ニニギの天孫降臨を読むとわかります。


 第2は、超有名な天の岩戸でのセクシーダンスです。『古事記』ではスーパーエロチックダンスの表現となっています。


『日本書紀』には、見事なダンスしたとあるだけで、エロチックな表現はありません。『日本書紀』には、「猨女君の遠い祖先である天鈿女命」と書かれてあります。「猨」は「猿」の異体です。


 第3は、邇邇芸命(ニニギのミコト)の天孫降臨の場面です。このシーンは『古事記』ではエロくないのですが、『日本書紀』はとてもエロチックです。


 天照大神の命で、天照大神の孫のニニギが地上の国へ下ることになった。天ウズメら5柱が従うことになった。


 先払いの神が戻って「天と地の分かれ道に、とんでもなく恐ろしい男がいて、立ち塞がっています。巨大な鼻、背は七尺、口の端が光り、目は八咫鏡(やたのかがみ)のように輝き、赤酸漿(ほおずき)に似ています」と報告した。


 天照大神は調査団を派遣したが、調査団は怖くて尋ねることすらできなかった。


 天照大神は、天ウズメに対し「汝は眼力がとても優れている。汝が行って尋ねなさい」と特別指名して、巨鼻男に立ち向かわせた。美女と野獣の遭遇であります。


『日本書紀』原文では、「天細女、乃露其胸乳、抑裳帯於臍下、而咲噱向立」とあり、これを読み下し文に直します。


「天細女(アメのウズメ)、乃(すなは)ち其(そ)の胸乳(むなぢ)を露(あらは)にし、裳帯(もひも)を臍(ほそ=へそ)の下に抑(おした)れて、咲噱(あざわら)ひて向きて立つ)」

天ウズメは、魅惑的な眼差しだけでなく、乳房も下半身もさらし、挑発的微笑で、巨鼻男の前に立ったのであります。


 巨鼻男は、もうビックリ、クラクラでありますが、2人の会話がなされた。


 巨鼻男は「猿田彦大神」と名乗ります。「天照大神の御子がいらっしゃると聞きましたので、お迎えにお待ちしています」


 猿田彦はニニギ一行を高千穂へ案内した。


 そして、猿田彦は天ウズメに「自分は伊勢五十鈴川の川上に住んでいますので、貴女は私をそこへ送ってください」と求愛した。


 ニニギは、そんな2人を見て、天ウズメの姓氏を「猿女君」とするよう命じました。おそらく、猿田彦と天ウズメは、夫婦かそれに近い関係になったのでしょう。


『古事記』にも、猿田彦がニニギの道案内をしたことが書かれていますが、あっさりしたものです。天ウズメが「猿女君」の姓名を賜ったことは書いてあります。


『古事記』では、次いで、猿田彦が比良夫貝(ひらふがい)に噛まれて溺れ死にます。なんとも、なさけない死に方です。比良夫貝が何の貝か不明ですが、貝に噛まれて溺死するなんて……そんな馬鹿と思います。空想力を働かせれば、天ウズメとのセックスでの恍惚の腹上死となります。


 余談になりますが、なぜ、猿田彦は、天孫降臨に貢献したのに、容姿は最悪、ぶざまな死に方というように、極めて格好悪く書かれたのでしょうか。ほとんど、抹殺です。おそらく、猿田彦は伊勢地方の素朴な太陽神だったのではないでしょうか。素朴な太陽神は、日本各地に存在していました。それが、天照大神を伊勢に祀ることになると、伊勢の古い太陽神(猿田彦)は邪魔になって追い出された、ということではないでしょうか。


 猿田彦への同情のためと思いますが、全国各地に1000社以上の猿田彦神社があります。むろん、三重県伊勢市にも猿田彦神社はあり、さらには、三重県鈴鹿市の椿大神社も猿田彦神社の総本社を名乗っています。伊勢市の神社か鈴鹿市の神社か、どちらかが本家なのでしょうが、部外者にすれば、どっちだっていいじゃないか、という感じです。


 なお、私の住む東京都杉並区には2社あります。


『古事記』では、天ウズメは、大小の魚を集めて、ニニギに仕えるかどうかを尋ねます。ほとんどの魚は「仕えます」と返事をしました。しかし、ナマコだけは答えませんでした。それで、天ウズメは小刀でナマコの口を裂いて懲らしめた。これを、どう解釈するか。


 魚とは住民のことで、要は、天ウズメは、「住民よ、ニニギに仕えよ」という教宣活動をしたということでしょう。その教宣活動は、歌と踊り、しかも、エロチックなものだったのでしょう。だから、各地の集落では「ニニギ御一行は、なんて楽しい愉快なことよ」ということで、仕えたのでしょう。むろん、なかにはナマコのように痛い目にあった者もいたのでしょう。


 さて、天ウズメを始祖として伊勢に「猿女君」という芸能氏族が形成されました。その一部が、大和朝廷の祭祀を務めるようになり、奈良県の大和郡山市稗田町の辺りを根拠地にしました。それで、稗田氏を名乗ることになったのでしょう。


(6)平田篤胤が指摘


 稗田阿礼については、『古事記』で記載したこと以外、ほとんど何もわかっていませんでした。


 本居宣長(1730~1801)の影響を受けた平田篤胤(あつたね、1776~1843)は儒教・仏教を排して、復古神道を広めました。復古神道は尊王攘夷論と結びついて大きな影響を及ぼしました。その平田篤胤が、稗田阿礼は女性で天ウズメの系譜であることを指摘した。でも、その点は、ほとんど関心を持たれませんでした。


 しかし、学者のなかには、関心を持つ者も現れました。民俗学者の柳田國男(1875~1962)もそのひとりで、同様の説を唱えました。でも、一般の稗田阿礼への関心は低調のままでした。


 このとき、阪神の岡田監督の「アレ」が登場した。「アレ」は、稗田阿礼→天ウズメの関係から、元気噴出の呪文に進化するのではなかろうか。そして、稗田阿礼への関心が、少しは寄せられるかも知れません。


 なお、関連する私の記憶をひとつだけ、付け加えておきます。


『古事記』では、孝霊天皇(第7代)の皇后と妃は計4人と記載されています。妃のひとりが、意富夜麻登玖邇阿礼比売(オオヤマトクニ・アレ・ヒメ)です。「阿礼」(アレ)がついています。

阿礼比売は、4人の子供を生みますが、そのひとりが、夜麻登登母母曽毘売命(ヤマトト・モモソ・ヒメ・の・ミコト)です。『日本書紀』では、倭迹迹日百襲姫命(ヤマト・トトヒ・モモソ・ヒメ・の・ミコト)と書かれています。略して、「百襲姫」(モモソヒメ)と呼ばれます。


 百襲姫の話は、崇神天皇(第10代)で紹介しています。彼女は抜群の霊能力者です。最初の巨大前方後円墳である「箸墓(はしはか)古墳」は、百襲姫の墓と書かれています。邪馬台国卑弥呼の最有力候補が百襲姫です。そんなことで、私は百襲姫のことを調べていたら、母が阿礼比売(アレ姫)であると知りました。そのとき、「阿礼」(アレ)は巫女なんだなぁ~、と思った次第です。


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 太田哲二(おおたてつじ)  中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を9期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。『「世帯分離」で家計を守る』など著書多数。近著は『やっとわかった!「年金+給与」の賢いもらい方』(中央経済社)。