(1)実話の吉備真備
吉備真備(695~775)は、奈良時代の人物で、学者出身で右大臣まで大出世した。学者出身で大出世した人物として、平安時代の菅原道真(845~903)がいる。彼は、太政大臣にまでなった。学者出身で大出世したのは、この2人くらいです。ただし、菅原道真の最後は悲しい境遇に陥ったが、吉備真備は最後まで苦難を乗り越えた。
備中国下道郡(岡山県倉敷市)の出身で、716年の第9次遣唐使の留学生となり、717年に、阿倍仲麻呂(698~770)、玄昉(?~746)らと入唐した。
18年間、唐で学び、第10次遣唐使の帰国に伴って、玄昉とともに、735年に帰国した。吉備真備は非常に多くの書物や物品を携えて帰国した。玄昉も5048巻の一切経と多くの仏像を携えて帰国した。
横道に逸れますが、一切経に関して少々述べます。
インドから中国へ各種経典が続々ともたらされ漢訳されました。膨大な量なので、中国歴代皇帝は整理編成せざるを得ませんでした。その最終版が唐時代の730年に編成されました。それが『一切経』で、玄昉は、それを持ち帰ったのです。
一切経は大蔵経(だいぞうきょう)とも言われ、ともかく膨大な量で、50人で写経しても約1年間を要します。1人で写経すれば30年間要します。計算上、1万人で写経すれば、1日で終わります。これを「一日一切経」と言い、実際に1096年3月18日に、法成寺の慈応の提唱で、この大イベントが実行されました。準備・段取りの大変さが想像されます。大イベントですが、その様子は藤原宗忠(1062~1141)の日記『中右記』にしか書かれていないようです。
法成寺は藤原道長(966~1028)が建立し住んだ寺で、当時は最大級の規模だったようですが、鎌倉時代に火災・戦禍で焼失し、今は、石碑が存在するのみです。
現在は一切経の全部が残っているわけではありません。一切経の中の主要仏典を選んで日本語訳の『国訳一切経』が大東出版社から出版されていますが、それでもインド撰述部が全155巻155冊、和漢撰述部が全100巻102冊、合わせて、全255巻257冊もあります。インド撰述部の中に、阿含部全10巻9冊、密教部全5巻5冊、涅槃部全2巻2冊、般若部全6巻6冊、華厳部全4巻4冊、法華部全1巻1冊……があります。
私の昔話ですが、ある寺院の本棚に『国訳一切経』がありました。ズラリと並んだ本の背表紙を眺めたままに終わりました。あまりの多さに、手に取って、パラパラとページをめくってみようという気力さえ発生しませんでした。
本筋に戻って、吉備真備・玄昉が帰朝した735年とは、聖武天皇(第45代、在位724~749、生没701~756)が在任し、藤原4兄弟が実権を握る「藤原4子政権」の時代でした。
吉備真備は帰朝するや、唐から持ってきた膨大な書物・物品を献上し、従八位下から正六位下へ昇進した。
737年、天然痘大流行で、藤原4兄弟が病死した。9人の参議で生き残ったのは、鈴鹿王(?~745)と橘諸兄(684~757)の2人だけとなった。参議とは、当時の朝廷の最高機関です。鈴鹿王はさほどの能力はなく、いわば血統だけで参議になった人物で、実質的に「橘政権」となりました。
玄昉は、聖武天皇の母・藤原宮子(?~754)の看病に成功し、聖武天皇と藤原宮子は36年ぶりに感動の対面をしました。それに関しては、「昔人の物語(76)藤原宮子」を参照ください。劇的治癒成功で、当然、玄昉は重要視されました。
吉備真備の能力は非常に高く、各種伝説が生まれるほどです。
したがって、橘政権では、吉備真備と玄昉の2人は最高ブレーンとなりました。
藤原4兄弟の病死で、藤原勢力の衰退に焦った藤原式家の藤原広嗣(?~740)は、吉備真備と玄昉を排斥しようとして、740年に九州北部で「藤原広嗣の乱」を起こしたが敗死した。
吉備真備はどんどん出世した。しかし、聖武天皇の皇后・光明子(701~760)と連携する藤原南家の藤原仲麻呂(706~764)が台頭し、橘政権は、仲麻呂グループのため弱体化した。
玄昉は、745年に九州に左遷され、746年に死亡した。
玄昉は、橘諸兄と藤原仲麻呂の対立構造の中を上手に泳げなかったが、吉備真備は上手に泳いだ。吉備真備は743年に皇太子・阿倍内親王の教育係になった。阿倍内親王は、聖武天皇と光明皇后の子で、男子が亡くなったため皇太子になった。藤原仲麻呂の台頭によって、吉備真備も若干の左遷はあったが、若干に過ぎなかった。
749年、阿倍内親王が即位して、孝謙天皇(第46代、在位749~758)となった。この頃になると、藤原仲麻呂の力は橘諸兄を完全に上回った。そして、750年、吉備真備は北九州へ左遷された。
750年、第12次遣唐使派遣が決定され、吉備真備は追加で副使に任命され、752年に再び入唐した。藤原仲麻呂にしてみれば、能力抜群の吉備真備を国外へ追い出したつもりなのだろう。能力抜群の能力の中には、兵法も含まれた。吉備真備は単なる学者ではなかったのだ。
唐では、吉備真備は阿倍仲麻呂の尽力で、破格の好待遇を得、吉備真備の能力は、一層磨きがかかった。
753年、遣唐使一行は帰国の路についた。吉備真備の船には鑑真も乗っていた。途中、難破して屋久島に漂着したが、無事に帰朝した。阿倍仲麻呂が乗った船は難破して唐へ戻った。周知のごとく、阿倍仲麻呂は唐で高官になったが、日本に戻ることができなかった。
帰国しても、藤原仲麻呂政権なので、吉備真備は北九州へ赴任させられた。ところが、この頃、日本と新羅の関係が極度に悪化していた。たまたま、唐で安禄山の乱(755~763)が勃発し、反乱軍が日本へ来る可能性が憂慮され、北九州防衛ラインを強化することになった。さらに、藤原仲麻呂は、唐の新羅への影響力低下を察知し、759年に、新羅遠征の計画・準備を始めた。吉備真備の兵法能力が、いかんなく発揮され、吉備真備は大宰府の事実上のトップとなった。遠征計画は、孝謙上皇の反対で結局は実施されなかった。
まったくの余談ですが、楊貴妃は756年に首吊りで殺されますが、なぜか、日本亡命伝説が長門にあります。亡命しても、まもなく病死した、ということで、お墓もあります。いずれ、小説になるかも、町起こしのネタになるかも知れませんね。
話が前後しますが、757年に橘奈良麻呂の乱で、藤原仲麻呂は敵対の可能性のある橘奈良麻呂ら有力者を一掃した。
758年に、孝謙天皇は譲位して淳仁天皇(第47代、在位758~764)が即位し、孝謙上皇となった。淳仁天皇は、簡単に言えば、藤原仲麻呂の子飼いのような存在で、藤原仲麻呂が力に任せて天皇にした人物です。
藤原仲麻呂は、光明子の後ろ盾、敵対勢力の一掃、仲麻呂に従順な淳仁天皇の即位、要するに藤原仲麻呂政権を盤石にした。しかし、760年、光明子の死居によって、孝謙・仲麻呂・光明子の安定トライアングルがギクシャクするようになる。761年、孝謙上皇が病となり道鏡(?~772)が看病した。孝謙上皇は道鏡を寵愛するようになった。藤原仲麻呂の意を汲んだ淳仁天皇は、これを諫めたが、そのことで、孝謙と仲麻呂の間に決定的な裂け目ができた。孝謙上皇は、道鏡を寵愛する一方、吉備真備の能力に目をつけ重要視するようになった。
そして、藤原仲麻呂の乱の勃発。藤原仲麻呂は圧倒的な軍事力を有していた。しかし、わずか1週間で敗死した。この大逆転には、兵法の超達人である吉備真備の存在があった。吉備真備70歳である。
孝謙上皇は、再び天皇に復帰して称徳天皇(第48代、在位764~770)となり、道鏡政権の時代となった。道鏡が法王になると、吉備真備も超スピードで大出世して右大臣となった。
769年、大宰府から「道鏡を皇位に」という宇佐八幡宮の託宣が奈良にもたらされた。その真偽を確認するため和気清麻呂(733~799)が宇佐八幡宮へ派遣された。清麻呂は、「託宣は虚偽」と報告した。和気清麻呂は左遷され、さらに大隅国へ配流された。そうこうしていたら、翌年に称徳天皇が崩御した。道鏡の権力は、すぐさま消滅した。和気清麻呂は、京に復帰し、しかるべく出世した。
次の天皇をめぐって評議がなされ、藤原式家の藤原百川(732~779)の策謀もあって光仁天皇(第49代、在位770~781)が即位した。吉備真備は別の人物を押していたが、実現しなかった。常識では、道鏡失墜は吉備真備失墜に連動するのだが、光仁天皇からは信頼されていたようだ。高齢のため辞任を求めたが、引き続き右大臣の地位についた。771年に再度の辞任を求め、やっと退職した。775年、81歳で逝去。苦難・難題の連続の人生だったが、沈没せずに生涯を全うした。
(2)『江談抄』とは
ということで、吉備真備の実話は、かなり面白い。でも、何と申しましょうか、「事実は小説より奇なり」ではなく、やはり「事実よりは、事実をネタにしたフィクション」のほうが面白い。どんなフィクションがあるか。
➀『江談抄』にある唐でのフィクション。これが、この原稿のテーマです。
②吉備真備は陰陽道の祖。いろいろなフィクションがあるようです。
③吉備真備は兵法の祖。兵法の達人であったことは確かです。
その他、いろいろあるようです。
随分、前置きが長くなりましたが、『江談抄』(ごうだんしょう)の概要を述べます。
『江談抄』は、平安時代後期の学者である大江匡房(まさふさ、1041~1111)の談話を、藤原実兼(さねかね、1085~1112)が筆記したものです。
大江匡房は、若い頃は出世もできず出家しようと思ったようだ。でも30歳頃からは順調に出生して、正二位にまでなっている。
歌人としても名をなしており、『小倉百人一首』にも選ばれている。
高砂の 尾の上(へ)の桜 咲きにけり 外山(とやま)の霞(かすみ) たたずもあらなむ
(現代語訳)高い山の、てっぺんにある桜が咲いている。人里に近い山の霞よ、立たないでほしい。美しい桜が霞でかすんでしまうから。
藤原実兼は、優秀であったが28歳で亡くなった。藤原信西(1106~1160)の父である。信西は保元の乱で勝利し絶大な権力を振るうが、平時の乱で敗死した。
『江談抄』は、70歳前後の大江匡房が優秀な若者である藤原実兼に、自分の知識を伝達するために、大江匡房が語り、藤原実兼が書き記したものである。内容は、雑多というか、とても幅広い。大江匡房の脳細胞に蓄積された膨大な知識を、なんとか後世に引き継ぎたかったのだろう。
印刷機もコピー機もない時代なので、藤原実兼が書いた『江談抄』は写本され、それをまた写本ということで引き継がれた。その間に、省略されたり付加されたりした部分もあったであろう。大別して「古本系」と「類聚本系」がある。「類聚」とは、同じ種類のことを集める、という意味です。「古本系」の記事を分類し整理整頓したものが「類聚本系」である。しかし、「古本系」と「類聚本系」では、かなり異なる部分があるが、その分析は専門家に任せて、我々が読むことができるのは、「新日本古典文学大系」(第32巻)の『江談抄』で、それは「類聚本系」です。
その目次は、次のようになっています。
江談抄 第1 公の事1〜27、摂関家の事28〜34、仏神の事35〜49
江談抄 第2 雑事1〜47
江談抄 第3 雑事1〜77
江談抄 第4 1〜125
江談抄 第5 詩の事1〜74
江談抄 第6 長句の事1〜73
合計445話です。その第3の第1話が「吉備大臣入唐の間の事」です。その中に『野馬台詩』が登場します。
(3)フィクション(江談抄)の吉備大臣
『江談抄』の原文、読み下し文、それの日本語訳も割愛しました。そして、注釈を挿入しながら、わかりやすく書き直しました。
➀高楼にて鬼と遭遇
吉備真備は、717~735年、唐で勉強した。『続日本紀』の宝亀6年10月2日の記事に、吉備真備と阿倍仲麻呂の2人は、その学力ゆえ唐でも名をあげた、とあります。吉備真備は、唐の人がビックリするほど優秀だったのです。
その吉備真備が再び唐へやってきた。唐人は、外国人の吉備真備が自分達より優秀である、自分達が劣るとみなされることを、ひどく嫌がった。それで、密かに謀略を企てた。
「吉備真備が来たら、高い楼に登らせ、そこに居させよう。これは内密だよ、他言してはいけないよ。あの高楼に居ると、多くは死んでしまう。一挙に殺してしまうのは、よろしくないので、ともかく高楼に登らせて、死ぬかどうか試してみよう」
真備は、何も知らずに高楼に登り、そこに留まった。夜になった。風が吹き雨が降ってきた。そしたら、鬼がやってきた。
真備は、隠身(いんしん)の術を使って、身を隠した。鬼には真備の姿が見えない。そして、真備は鬼に尋ねた。
「何者か。私は日本国王の使者である。国王に敵対できるものはいない。それなのに、なにゆえ鬼が、楼の中を覗くのか」
鬼は答えた。
「それは、とても嬉しいことです。我も日本国の遣唐使です。ぜひ、あなたのお話を聞きたい。」
それを聞いて、真備は言った。
「しからば、早く楼の中へ入れ。しかし、鬼の格好は止めて来い」
鬼は、いったん帰って、衣冠を着けてやってきた。そして2人は対面した。
まず、鬼が言った。
「我も遣唐使です。我が子孫の安倍氏は、今、どうなっているでしょうか」
ここで、ご注意を。「安倍」=「阿倍」で、鬼の正体は、実は阿倍仲麻呂なのです。事実は、阿倍仲麻呂は死んでいません。400年前のことなので、フィクション創作者は、吉備真備の第2回目の入唐の時、阿倍仲麻呂は死んでいたと思い込んでいたのでしょう。
「我は大臣として唐に来たが、この楼に登らされて、食べ物を与えられず餓死しました。それで、鬼となりました。高楼に登る人を害する気持ちはないのですが、鬼の発する毒気に当たって、皆、自然に死んでしまいました。我が子孫のことを尋ねても、答えぬまま死んでしまうのです。したがって、我は、今、とても嬉しい。我が子孫の官位はどうなっていますか?」
真備は、尋ねられた子孫7~8人の官位と様子を語った。鬼はとても感激した。
「恩返しに、この国のことをすべて教えましょう」
真備も、たいそう喜びました。
夜明けに、鬼は帰って行きました。
唐の人は、真備が生きているので、とても驚いた。
②『文選』の難題
その日の夕方、鬼が来て、鬼は真備に唐人の新たな謀略を教えた。
「唐人は、日本国の使者の才能は奇異だ。真備に難解な書物を読ませて、読めずに間違えるだろうから、その間違いを笑って恥をかかせよう、という魂胆です」
真備は「何の書物か?」と尋ねた。
鬼は「唐では極めて読み難い古書で、『文選』(もんぜん)という名です。1部30巻で、諸家の家集の神妙なる部分を選んだ書物です」と答えた。
「その書物を私に教えることができるか?」
「我にはできません。でも、あなたを唐人たちが『文選』を講義している所へ連れていって、聞かせることはできます」
「私は高楼に閉じ込められている。どうやって行くことができるのか?」
「我は飛行自在の術を有しています。あなたを連れていけます」
そして、鬼は真備を連れて、『文選』を講義している所へ連れていった。そこは、帝王の宮殿で、終夜、30人の儒学者が講義をしていた。真備は、それをしっかり聞いた。そして、鬼とともに高楼へ戻った。
鬼は「聞き取れましたか?」と尋ねた。
真備は「すべて聞き取れた。『文選』を書きつけるため、不要になった古い歴を探してくれないか?」と言った。
鬼は、すぐに古歴10巻を持ってきた。
真備は『文選』上帙(ちつ)を古歴の余白に書いて、一両日で暗記した。
注釈を一言。『文選』は30巻であるが、上中下の3帙に分けられ、日本古代の大学寮の試験では上帙の暗記読解力が試されていた。「帙」とは、文書を保存するための覆いのことです。
唐人は、侍者に食物と『文選』を高楼へ運ばせた。儒者1人を勅使として、真備を試そうとした。ところが、楼の中には、『文選』の文言が書かれた紙が散らばっていた。
勅使は怪しんで、真備に尋ねた。
「『文選』の文言が書かれた紙は、他にもあるのか?」
「多くある」
真備は、そう言って、『文選』が書かれた紙を与えた。
勅使は驚いて、帝王に告げた。
帝王は「この書物は日本にあるのか?」と質問し、勅使は、そのまま真備に尋ねた。
真備は答えた。
「日本には、何年も前からあります。『文選』と名づけて、皆、よく口にして暗誦しています」
唐人は、「これは中国にあるものだ」と言った。
真備は、「それでは比較してみましょう」と言った。
真備は、『文選』30巻を借りて、書き写した。
後日、それを日本に持ち帰った。
再び注釈を。『文選』は、隋・唐の前の南北朝時代の南朝・梁(502~557)の皇太子・蕭統(しょうとう)が編纂した。蕭統は天才的優秀な人物で、蔵書3万巻を有し、100人を超える文人の助力で、各種名文を選択して『文選』を編纂した。日本には奈良時代以前に伝わっている。以後、室町時代まで、インテリが読むべき代表的書物であった。『江談抄』では、吉備真備が初めて日本へ持ってきたことになっていますが、真備ヨイショのフィクションです。
③囲碁の難題
鬼がまた来て、唐人の謀略を教えた。
「唐人が言うには、真備は学識はあっても、技芸はないであろう。囲碁で試してみよう」
白色が日本、黒色が唐になって勝負して、黒色が勝って、日本国の客を殺そう、と書かれてある。その意味が、「命を賭けた囲碁勝負」なのか、「囲碁で負けた真備を笑い者にして、死ぬほどの恥をかかせよう」ということなのか、よくわかりません。
真備は囲碁を知らないので、鬼から教わった。碁盤がないので、木材を格子状に組んだ組入天井を碁盤にして、一夜で、囲碁を習得して、引き分けになる手を考えた。
私は囲碁を知らないので、「引き分けになる手」がどんなものか知りません。
また、通常の碁盤は19路盤で、19×19=361で、交点(目)は361ですが、『江談抄』では、組入天井360目とあり、なんだろうか。陰陽5行説の60を基本に6を掛け算した360がよい数字、ということか。そのため盤の中央の交点は数に入れない、ということか。「囲碁の難題」の後半を読むと、「361ではなく360」とすることが、真備の知恵なのかな、と想像します。
唐人が囲碁の名人を連れてきて、囲碁の対局が行われた。真備の思惑どおり、引き分けとなった時、真備は密かに黒石1個を盗んで、吞み込んだ。そのため、勝負を決する勘定で、黒(唐)が負けてしまった。
唐人は大変に怪しんで、碁石を勘定すると、黒石が1個足りない。占い師に占わせると、真備が盗んで呑んだ、という結果になった。
唐人は真備に下剤を飲ませた。しかし、真備は下痢止めの術を用い、ついに囲碁勝負に勝った。
よって唐人は大いに怒り、真備を高楼に閉じ込め、食物の供給を絶った。しかし、鬼が食物を運んだ。真備は、高楼で数ヵ月過ごした。
④『野馬台詩』の難題
鬼がまた来て、唐人の謀略を告げた。
「唐人達は、今度も謀略をする。高名智徳の秘密の法を行ずる僧・宝志(ほうし)に命じて、真備は鬼か霊人の助力を得ているようだから、結界を張る。その上で、文章を作り、真備に読ませよう」
鬼は「結界を張られたのでは、我の力を発揮できない」と告げた。
注釈を。宝志(=宝誌、ほうし、418~514)は、数々の奇行、予言、読心、雨乞、分身など、ものすごい神通力をもった僧である。日本でも『宇治拾遺物語』巻9の「宝誌和尚影の事」で、十一面観音の化身としての説話がある。ただし、南朝の僧で、吉備真備の時代より250年も前の僧である。フィクション話だから、こうした矛盾は仕方がない。フィクション作家は、超能力者・宝志と真備を同列に扱って、「真備はスゴイ」と持ち上げているのであります。
真備は高楼から降ろされ、帝王の前で、宝志が作った文章を読むことになった。しかし、真備は目がくらんで、字すら見えない。それで、日本の方向に向かって、日本の神仏に祈った。神は住吉大明神、仏は長谷寺の観音です。そのお陰で、文字は見えるが、その文章は暗号文になっていて、どこからどういう順番で読むのか、さっぱりわからない。
すると、突然、1匹の蜘蛛が、文書の上に落ちてきた。蜘蛛は文書の上を糸を引きながら動いた。蜘蛛の動きどおりに追うと、ちゃんとした漢詩になっていた。真備は解読に成功した。
帝王も宝志も、ますます驚いて、真備を高楼へ戻した。でも、相変わらず、食料の供給なしである。
注釈を。真備が解読した漢詩は、『野馬台詩』ということになっている。『野馬台詩』は日本で最も有名な予言です。内容については、後述します。『野馬台詩』の作者は、宝志なのかどうか不明です。そもそも、中国人が作ったのか日本人が作ったのか、ひょっとしたら新羅人かも知れません。まったく不明です。『野馬台詩』は、『江談抄』では、真備がもたらしたとされていますが、根拠なしです。
⑤真備、日月を封じる
鬼が「唐人達が、今から高楼の開けてはならない。完全に閉じ込めたままにする」と告げた。
真備の命は風前の灯火となった。真備は、いかなる対策をとったか。
真備は鬼に告げた。
「この地に、百年を経た双六(すごろく)の筒、また、賽(さい)、盤(ばん)はあるか。あれば頂きたい」
鬼は「ある」と言って、持ってきた。
真備は盤の上に賽を置いて筒をかぶせた。すると、唐の日月が封じ込められ、2~3日しても日月が現れない。帝王から庶民に至るまで、驚き騒ぎ、悲鳴が絶え間なく、天地が揺らぐほどであった。
占い師に原因を占わせると、真備の術で日月が封じられたと判定され、占い師は高楼の方向を示した。
唐人が高楼に来て、真備に尋ねた。
真備は答えた。
「私は知らない。しかし、無実の酷い罪に落とされた私は、数日前、日本の神仏に祈った。それが、自ずから感応したのだろう。私を日本へ帰せば、日月は現れるだろう」
唐人は「わかった。日本へ帰すから、すぐに日月の封を解け」と言った。
真備が、盤の上の筒を取ると、日月が元どおり現れた。
かくして、吉備真備は日本に帰ることができた。
そして、『江談抄』の「吉備大臣入唐の間の事」の最後に、次のように記されている。
大江匡房が、次のように言った。以上のことは、私は詳しく書物で読んでいないが、故孝親朝臣(大江匡房の外祖父)が先祖から語り伝わっていたことである。日本の名を高めたのは吉備大臣です。『文選』、囲碁、『野馬台詩』が日本に伝わったのは、吉備大臣のお陰です。
老婆心ながら注釈。『江談抄』の「吉備大臣入唐の間の事」は、すべてフィクションである。『文選』、囲碁は、奈良時代以前に日本に伝わっていた。『野馬台詩』は奈良時代中期には知られていたようだが、真備がもたらした記録はない。とにかく、『江談抄』を読めば、万人がフィクションと認める。しかしながら、『江談抄』及び『吉備真備入唐絵巻』、さらには『今昔物語』『宇治拾遺物語』で、吉備真備は超能力者として人気を博した。
(4)野馬台詩
『野馬台詩』は、「聖徳太子未来紀」と並ぶ予言書です。「聖徳太子未来紀」は、ひとつだけでなく、時々、発見されるもので、聖徳太子の名を借りた後世の人物の作です。『野馬台詩』は、作者不明ですが、ひとつだけです。
『野馬台詩』は五言二十四句である。
『江談抄』には、『野馬台詩』の断片が引用されているだけで、全文は記載されていません。例えば、『江談抄第5詩の事』の「71源中将師時亭の文会の篤昌の事」に断片が記されています。おそらく、12世紀では、『野馬台詩』は有名な詩で、全文を記す必要がなかったのでしょう。
『江談抄』フィクションでは、最初は暗号文として登場して、蜘蛛の助力で読み解く。暗号文は省略しますが、パズルの専門家なら解けるらしいです。中世では、クイズ的な難解なる言葉遊びが流行っていたようです。
以下が『野馬台詩』の原文と日本語訳です。2行がセットです。
東海姫氏國 東海の姫氏国では
百世代天工 百世にわたって、(天から)天工(天主)に代わった。
右司為扶翼 右司(臣下)が、扶翼を為し(国政を補佐し)
衛主建元功 衛主(宰相)が元功(功績)を建てた。
初興治法事 初めは法治の事(体制)を興し
終成祭祖宗 後には祖先を祭ることを成した。
本枝周天壌 天子と臣下は、天地にあまねく
君臣定終始 君臣は終始(秩序)が定まっていた。
谷塡田孫走 (しかし)谷が埋まり、田孫(田孫の意味不明)が逃げ走り
魚膾生羽翔 膾(なます)に羽根が生えて飛ぶ。
葛後干戈動 葛(くず)が長く伸びるように、干戈(かんか、たてほこ)が動く
中微子孫昌 中頃に衰退し、(下層の)子孫が盛んになる。
白龍游失水 白龍(天主・帝王の譬え)は、泳いで水を失い
窘急寄故城 急に苦しみ、故城に(身を)寄せる。
黄鶏代人食 黄色い鶏が、人に代わって食べ
黒鼠喰牛腸 黒い鼠が、牛の腸を喰らった。
丹水流盡後 丹水(王宮の譬え)は、流れつくし、その後
天命在三公 天命は三公(臣下)にうつった。
百王流畢竭 百王 ,流れ畢(こと)ごとく尽きて
猿犬稱英雄 猿や犬が英雄と称した。
星流飛野外 星が流れ野外に飛び
鐘鼓喧國中 (戦いの)鐘や鼓が国中にかまびした。
青丘興赤土 青丘と赤土は、
茫茫遂為空 茫々として遂に空(無)となった。
要約すれば、東海姫氏国(たぶん日本)では、秩序が整ったすばらしい国であった。しかし、戦乱の下剋上の世となり、王権は臣下に移り、さらに、百王で尽き、猿や犬のような人物が英雄となり、国土は荒廃した、ということです。
平安時代初期では、黒鼠とは道鏡、黄鶏は光仁天皇(第49代、在位770~781)と目された。
平安末期から鎌倉時代では、天皇は百代で尽きるという百王説が、末法思想、貴族の衰退を背景に流行した。ちなみに、第100代は後小松天皇(在位1382~1412、北朝第6代)です。
16〜17世紀では、黄鶏や黒鼠は、平将門(?~940)、平清盛(1118~1181)とみなされた。あるいは、猿は蒙古、犬は南蛮とされた。また、猿が山名宗全(1404~1473)、犬が細川勝元(1430~1473)とされたりした。言うまでもなく、応仁の乱(1467~1467)の西軍・東軍のトップです。
江戸時代に出版文化が花開くと、『野馬台詩』の注釈書は大流行し、一般人向けの歴史娯楽本のようになった。
予言書は、ひょんなことから大流行する。20世紀末期には『ノストラダムスの大予言』が大ベストセラーになった。フランスの予言が輸入されて、大ヒット。日本なら『野馬台詩』なんだがなぁ~。
演出家の武智鉄二(1912~1988)が『野馬台の詩』を書いたが、ほとんど注目されなかった。彼は、継体天皇(通常第26代)を初代として数えた。現在の天皇の血筋は継体天皇を出発点としているからである。すると、今の令和天皇(通常126代)は第101代となる。百王説では、101代から沈没となる。
現在の総理は、第100・101代総理大臣です。百王説に従えば、沈没となる。そんな数字のお遊びで、案外、『野馬台詩』が流行するかも……。
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太田哲二(おおたてつじ) 中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を9期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。『「世帯分離」で家計を守る』など著書多数。近著は『やっとわかった!「年金+給与」の賢いもらい方』(中央経済社)。