(1)「藤原北家」と「非藤原北家」の対立抗争


 藤原不比等(659~720)の4人の子供が、南家、北家、式家、京家、いわゆる藤原4家を興しました。そのなかで、藤原薬子の変(810年)によって式家が力を失い、以後は北家が台頭しました。以後の政局は、概して「藤原北家」と「非藤原北家」の対立抗争となります。その対立抗争劇は、武士の時代の「血の物語」ではありません。


 最も有名な抗争は、901年の昌泰の変(しょうたいのへん)です。菅原道真(845~903)が大宰員外師に左遷された事件です。一応、「藤原北家の藤原時平」と「宇多天皇・上皇の側近である菅原道真」の抗争とみなされています。しかし、本当は何が原因なのかわかりません。非力な菅原道真が謀反・政変を企てるわけがありません。どうも、「家柄からすると出世し過ぎ」という「ねたみ」という小さな原因に、大きな尾ひれがついて大事件になったみたいなのです。理由がないのに左遷そして困窮死ですから、怨霊になるわなぁ~。


 余談ですが、そうしたことは現代社会でもしばしば発生します。末端の小さな事件が、トップの謝罪会見での説明の仕方、お辞儀の仕方がヘタクソだと滅茶苦茶に批判されます。その結果、末端の小さな事件にもかかわらず、組織管理がデタラメだ、リスク管理がゼロだ、そんな大批判が巻き上がってトップが辞任に追い込まれる。そもそも、大組織には、必ず主流派と反・非主流派が存在するわけで、小さな事件でも大騒動になれば、それを利用してトップの首が挿げ替えられる……そうしたことは時々あります。


 本筋に戻して、菅原道真の左遷事件(昌泰の変)以外にも、多くの「藤原北家」と「非藤原北家」の抗争がありましたが、それらは省略して、一挙に、969年の「安和の変」(あんなのへん)へとびます。


 予め言えば、一般的には「安和の変」は、「藤原北家」と「非藤原北家」の最後の抗争とされています。それ以後は、「藤原北家の内部抗争」となります。


(2)源高明とは誰か


 967年、村上天皇(第62代、926~967、在位946~967)が崩御し、18歳の冷泉天皇(第63代、950~1011、在位967~969)が即位しました。


 冷泉天皇には、まだ皇子がいなかった。それと、奇行の持主であった。足が傷ついても蹴鞠に夢中だった。性器を大きく書いた手紙を、父(村上天皇)に送った。場所をわきまえず大声で歌を歌った。そんな逸話が伝わっていますが、仮に、本当だとしても、まぁ子供なら、よくある話、元気があり過ぎるということでしょう。でも、奇行なる病ゆえに短期の天皇在位と目されていました。


 奇行なる病ですが、冷泉天皇が譲位したら治ってしまった、いや、ずっと奇行が続いた、といろいろ言われています。歴史書は後の世の人が書きます。「道長の摂関政治はすばらし」とする人にとって、冷泉天皇は奇行の持主であったほうが都合がよいのです。ついでに言えば、花山天皇(第65代)の奇行伝説も同じ論理が成り立ちます。花山天皇の奇行伝説のほうが、「青春純愛物語+お笑い」で、滅茶面白いのですが省略します。


 なんにしても、早急に東宮(皇太子)を決めなければならない。候補者は冷泉天皇の2人の弟です。


★為平親王……第4皇子。父・村上天皇、母・中宮藤原安子。妃(妻)は源高明の娘。

★守平親王……第7皇子。父・村上天皇、母・中宮藤原安子。まだ9歳なので妃はいない。のちの円融天皇(第64代)。


 村上天皇時代、政界最大実力者は藤原北家の藤原実頼(900~970)・師輔(909~960)の兄弟でした。官位では兄・実頼が上でした。兄弟はそれぞれの娘を村上天皇の女御として送り込んでいましたが、兄・実頼の娘は皇子を生まずに亡くなりました。弟・師輔の娘・安子は3人の皇子を生みました。3人とは、第2皇子(冷泉天皇)、第4皇子(為平親王)、第7皇子(為平親王)です。


 967年の村上天皇崩御・冷泉天皇即位の時点では、師輔は亡くなっています。官位では、実頼がトップですが、師輔の子供たちは、冷泉天皇の外戚として栄えることが確実です。すなわち、師輔の子供たちが藤原北家の嫡流となることが、事実上確定しています。


 なお、村上天皇の皇子、すなわち冷泉天皇の兄弟は、他にもいます。しかし、生母の父が藤原南家、傍流の藤原北家、つまり実力がないため、皇位継承は問題外とされていました。


 さて、焦点は、源高明(914~983)です。


 為平親王の妃(妻)が源高明の娘です。もし、為平親王が天皇に即位して、その妃(妻)が皇子を産めば、源高明は外戚となり、そこに権力が集中するかもしれない。将棋でいえば、4~5手先を読むと、その可能性があります。


 源高明とは、何者か?


 少々、解説に入ります。


「源」というと、なにやら武士を連想しがちですが、「源氏21流」と称されるように、実に多くの皇族が臣籍降下して「源氏」となりました。厳密な定めではありませんが、天皇の1世が臣籍降下する場合は「源」、2世も「源」、3世は「平」という区分がありました。臣籍降下の理由は、天皇の後宮は「女御、更衣あまた候ひ給ひ」ということで、多くの皇子が産まれます。その孫となると大変な数になり、皇族人数が増えると財政負担が大変です。そのため、皇室を離脱させて財政負担を減らす、それが「臣籍降下」です。


 貴族源氏もあれば武士源氏もあります。


 後世最も栄えたのは、武士源氏の「清和源氏」です。「清和源氏」は、清和天皇の皇子(1世)4人、孫(2世)12人が臣籍降下して「源」を称しました。それら全てが「清和源氏」なのですが、12人の孫のひとりである源経基の系統だけが非常に繁栄しました。したがって、源経基の系統だけを「清和源氏」と呼ぶようになりました。ちなみに、源経基を清和源氏の1代目として、9代目が源頼朝(鎌倉幕府第1代将軍)です。


 ここで、覚えてほしいのは、源経基の子に源満仲がいることです。源満仲は「安和の変」(969年)に、大きく絡んでいるのです。


 そんな予備知識を踏まえて、源高明とは何者か?


 源高明は、醍醐天皇(第60代、885~930、在位897~930)の第10皇子ですが、7歳で臣籍降下した「一世源氏」です。臣籍降下したからには、「皇族ではない」のですが、「一世源氏」だけは、やや皇族らしき作法・待遇があったようです。


 源高明は、藤原北家の実頼・師輔の兄弟と、とても仲がよかった。


 最初の妻は、藤原実頼の次女でした。源高明と藤原実頼の2人は有識故実に明るく、そんなことも、仲がいい理由のひとつでしょう。この妻は病死します。


 次の妻は、藤原師輔の3女です。この妻も病死します。念のためですが、師輔の長女が安子(958~964)で、冷泉天皇を含む3皇子の母です。源高明は、安子の信任が厚く中宮大夫を兼任していました。


 3番目の妻は、藤原師輔の5女・愛宮です。そして、明子(藤原道長室)、源経房を産みました。安和の変(969年)で離別しましたが、高明の邸宅で暮らしていました。


 なお、一夫多妻の時代ですから、他の妻もいました。


 こうしたことからも類推されますが、源高明は醍醐源氏ですが、事実上、藤原北家と一体化していました。


 源高明をまとめると、①「一世源氏」という、いわば高い身分、②学問や有職故実を熟知している教養人、③有力後援者・藤原師輔、その娘・藤原安子の後援、事実上は藤原北家の一門――という3拍子そろった人物です。ただし、師輔、安子は安和の変の時点では死んでいました。


(3)誰を、冷泉天皇の東宮(皇太子)にするか


 源高明の有力後援者の藤原師輔が960年に死去、藤原安子が964年に死去しました。そして、967年に村上天皇が崩御して、冷泉天皇(第63代)が即位しました。誰もが、冷泉天皇は奇行という病気持ちなので、短期の天皇と考えていました。


 昔からの一般的な説は、次のようなものです。


➀源高明の有力後援者(師輔と安子)が不在という状況であった。

②もし、為平親王が皇太子―天皇となり、妃(源高明の娘)が男子を生めば、源高明は外戚として中心的権力者になるだろう。

③藤原師輔の3人の子、長男・伊尹、次男・兼通、3男・兼家は悩んだ。父・藤原師輔の時から、源高明とは極めて友好的な関係である。でも、自分達3兄弟の上に位置するかも知れない。どうなるか、どうなるか……。3兄弟の誰かが秘密工作した結果、東宮(皇太子)に、9歳の守平親王が決まった。あくまでも、状況推理の説で、本当のことはわからない。

④事は、それだけに終わらず、969年、安和(あんな)の変に発展した。3月25日、源満仲と藤原善時が、橘繁延と源連に謀反ありと密告したのだ。密告の内容は不明です。直ちに、右大臣・藤原師伊(実頼・師輔の弟)は、会議を開き、密告文を関白・実頼に送り、検非違使に命じて、橘繁延と僧・蓮茂を捕らえ、さらに、検非違使・源満季(満仲の弟)が藤原千晴とその子久頼を捕らえた。

⑤それが、どう発展したのか、さっぱりわからないが、左大臣・源高明が謀反に加担しているということになり、大宰員外権師に左遷が決まり、3月26日には源高明の邸宅は検非違使に包囲され、九州の大宰府へ流された。真相はわからない。


 真相が分からないので、『栄花物語』『大鏡』の時代から「藤原北家」と「非藤原北家」の対立抗争の一コマとして位置づけられていました。


(4)『蜻蛉日記』『栄花物語』『大鏡』では


 都の人々はとにかく驚き、源高明に同情した。藤原師輔の息子3人の中の3男は兼家です。兼家の妻のひとりである藤原道綱母は『蜻蛉日記』の作者です。『蜻蛉日記』は、一言で言えば、道綱母と兼家の夫婦喧嘩物語です。『蜻蛉日記』中巻の最初に、安和の変のことが若干書いてあります。「身の上話のみを書く日記には、書き入れるべきではないことだけれども、悲しいと思い入るのは、ほかならぬ私なので、記しておきます」と、いかに驚いたか、いかに悲しいか、ということが書かれています。なお、藤原道綱母については『昔人の物語(34)』をご参照ください。


『栄花物語』では、どう書かれているか。『栄花物語』は、宇多天皇(第59代、在位887~897)から藤原道長(966~1028)の栄耀栄華に至るまでの歴史書です。書かれた時期は、道長死去後ですから、安和の変の60~70年後です。以下は、安和の変の箇所の要約です。なお、『栄花物語』の作者は、正編が赤染衛門、続編が出羽弁と推測されていますが、単なる推測でしょう。


 源高明は、新東宮の決定に不満を持っていた。そうこうしているうちに、世間では、「いとけしからぬこと」を言い出した。源高明が立太子問題を恨んで、朝廷転覆を企てているという話が出て来て、世の中は大騒ぎである。「まさか、そんなことは、あるわけない」と人々は言っていたが、神仏が見捨てたのか、あるいは、源高明の心の中に、あってはならない考えがあったのだろうか。3月26日、検非違使が邸宅を囲んで、「朝廷を傾けようとした罪によって、大宰権師として左遷する」と宣命が大声で読み上げられた。源高明は、せんかたなく、「私を連れていけ」と大声で騒いでいた。


 北の方、御女、男君達の悲嘆は、なんとも言えないほどである。みな泣き騒いでいるのも悲しい。人の死はよくあることであるが、この事件は「いとゆゆしう心憂し」。


『大鏡』は、『栄花物語』を下敷きに書かれた歴史書です。話の趣旨は同じで、源高明が東宮問題で大きな不満を持っていたことが語られ、「(それからですよ、)いとおそろしく悲しき御ことども出できにしは」とだけ書いてあります。


 要するに、源高明は、新東宮問題で不満を持っていた。それが、朝廷転覆計画に発展したようだ、という憶測でもって、有罪決定、ということなのだ。本当に、源高明は謀反を計画したのであろうか。計画ではなく、チラっと思った程度ではなかろうか。さっぱりわからない。でも、「藤原北家」と「非藤原北家」の対立抗争は、自然法則みたいなものだから、疑われても仕方がない、そんな感じみたいです。本当のことはわからないが、まぁ程度の差こそあれ、藤原北家が絡んで源高明を無力化させたのだろう。タイムマシンでもあれば、真相がわかるかも。わからないが、たぶん……。


 余談ですが、藤原実資(さねすけ、957~1046)の日記『小右記』に書いてあるかも知れない、と思った。これに書いてあれば、一番信用できる。見てみたら、残念ながら、977年から約60年間の日記なので、969年の安和の変は記載なしであった。藤原実資は、一流の学識を有する上級貴族です。藤原道長への評価も褒める部分は褒め、筋を通すべきところは通しており、気骨のある人物です。かなり女好きで、面白いエピソードが伝わっていますが、省略です。


(5)東宮選びは村上天皇の遺言


「わからない、わからない」では、消化不良で健康によくない。そこで大胆なる推理をしてみよう。


 次のような説があります。東宮(皇太子)選びは、藤原北家や源高明とは無関係で決まった。村上天皇の崩御直前の遺言があったのだろう、というものです。


 村上天皇は優秀な天皇だったので、後々のことも、しっかり遺言したはずだ。皇位継承に関して、「何もしなかった」なんてことはあり得ない。


 村上天皇の遺言があったから、格別の騒ぎもなく、守平親王に決まったのだ。村上天皇は、なぜ、守平親王を選んだのか?


 冷泉天皇には、今は皇子がいないが、数年後には生まれるだろう。生まれるだろう子を冷泉天皇の「次の次」の後継にしよう。


 為平親王を東宮(皇太子)にしてしまうと、すでに妃もいて、すぐにでも男子が生まれる可能性がある。冷泉が生む子よりも、早く生むと面倒な事態が起こりかねない。だから、東宮にしない。


 守平親王は、まだ9歳なので、子を生めない。子を生めない間に、冷泉は子を生むだろう。したがって、守平親王を東宮にしよう。


 おそらく、そんなことだろう。


 だから、本当は、東宮選びは、なんら問題なく決まった。


(6)安和の変の真相


 そうなると、安和の変は、天皇後継者問題とは関係なしで、まったく別の次元で発生したと推理します。私の大胆推理のポイントは、源満仲(912~997)である。


 源満仲は清和源氏2代目で、金のためなら悪辣・卑劣・非道でも何でもやる、というタイプです。


 以下、源満仲を中心軸に述べます。


 960年、平将門の子が京に来たという噂が広がり、検非違使などが探索した。探索側に源満仲がいた。平将門の乱(940年)から20年も経っているが、京では「平将門」「東国で乱」のキーワードに過剰反応するのでした。


 961年には、自宅が強盗に襲撃された。実行犯の供述では、主犯は、なんと皇孫の2人です。親繁王(醍醐天皇の皇孫、式明親王の次男)、源蕃基(清和天皇の皇孫)です。さらに犯人のひとりである紀近輔は成子内親王(宇多天皇の皇女)の邸宅内で逮捕されました。事件の原因はわからないが、おそらく源満仲は、警察とやくざの二股家業で荒稼ぎをしていたのであろう。とにかく、源満仲は、身近な貴族・武士からものすごく嫌われていた。


 それから平安貴族のイメージは、色恋オンリーなのですが、案外、暴力事件をお気軽に起こす傾向があるようです。


 京の武士集団は、いくつかの集団に集約されつつあった。そのなかの有力集団に、源満仲の集団と藤原千晴(ちはる)の集団があった。ヤクザの縄張り争いみたいなもので、2人は喧嘩を厭わないライバルであった。


 藤原千春の父は、平将門の乱で手柄を立てた藤原秀郷です。藤原秀郷(=俵藤太)は、後に大百足退治フィクションで有名になった。全国各地に子孫がいる。


 965年、源満仲は、村上天皇の鷹飼に、多公高・播磨貞理らとともに任じられる。


 967年、村上天皇の崩御の年である。天皇・上皇・皇后の崩御などの非常事態に際して、「三関」と呼ばれた伊勢国の鈴鹿関、美濃国の不破関、近江国の逢坂関(平安初期までは、越前国の愛発関)を封鎖して通行を禁止する制度があった。封鎖を「固関」(こげん)、封鎖解除を「開関」(かいげん)といい、「固関使」、「開関使」が京から派遣された。伊勢国の鈴鹿関の固関使に、源満仲と藤原千晴の2人が命じられたが、2人は京を離れることを嫌い、辞退を申し入れた。縄張りを離れると、縄張りを荒らされる危険があるのだ。源満仲は病気を理由に辞退が認められた。


 いよいよ安和の変です。


 969年(安和2年)、源満仲(912~997)と藤原善時の2人は、橘繁延と源連が謀反を計画していると密告した。密告の内容は不明です。すぐさま、橘繁延と僧・蓮茂が捕らえ、さらに、検非違使・源満季(満仲の弟)が藤原千晴とその子久頼を捕らえた。そして、翌日には、源高明が大宰府に流された。


 安和の変の処罰者の一覧は、次のとおりです。


●源高明(左大臣)――大宰員外権師に左遷

●源忠賢(高明の子)――出家

●源致賢(高明の子)――出家

●橘繁延(中務少輔、中流官職)――流罪(土佐国)

●蓮茂(僧)――流罪(佐渡国)

●藤原千晴(前相模介、高明の従者)――流罪(隠岐国、島根県の日本海の島)

●源連(高明の義理兄弟)――五畿七道諸国へ追討怜(全国指名手配)

●平貞節(?)――五畿七道諸国へ追討怜(全国指名手配)


 源満仲にとって、標的は藤原千晴である。どうすれば、藤原千晴を失脚させることができるか。藤原千晴は、有名なる藤原秀郷の子というだけでなく、源高明の従者であった。藤原千晴は源高明の後ろ盾で力を増していた。


 下級貴族のなかに、「源高明は東宮選びで不満を持っている」といったナイショ話をする者がいたのだろう。960年の平将門入京の噂話でも上級貴族は大騒ぎする。謀反の実行部隊は藤原千晴の武士集団と噂されれば、一挙に藤原千晴をつぶせる。


 源満仲が描いた図面どおりに事は運んだ。京から、藤原秀郷―藤原千晴の武士集団はバラバラになって消滅した。そのトバッチリで源高明が左遷された。それが、安和の変の真相ではなかろうか。


 源満仲は、その後、出世し、藤原北家との関係が密となり、莫大な富を築く。しかし、悪辣非道な奴という評価のためか、973年には自宅が放火され、近隣300~500軒が焼失する大火災となった。


 京では住みづらいということもあって、摂津国住吉郡多田に土着した。『今昔物語』には、「我が心に違ふ者有れば、虫などを殺すように殺しつ。少し宜しと思ふ罪には足手を切る」という残虐でもって、その地を開発し、武士団を形成した。それが「清和源氏」の基礎となった。


 987年、源満仲は摂津の多田の邸宅で、郎党16人女房30余人と出家した。藤原実資の『小右記』には「殺生放逸の者が菩提心を起こした」とある。とにかく、悪辣非道な人物だった。


 思うに、現代政治でも、安和の変と似たようなこと、つまり嘘がまかり通って、不幸がバラまかれる、そうしたことが頻繁に起きています。100%の嘘話が大声で繰り返されたり、100%不可能なことが公約されたり…、その後はうやむや…。なんともはや…です。


(7)光源氏のモデル


 その後、どうなったか。


 みんな内心では、「お気の毒な源高明さま」と思っていた。971年に、源高明は罪を許されて京に帰った。帰京後は、葛野(京の北方面)で隠遁した。974年には、封戸300戸が与えられた。983年に70歳で静かに死去した。


 源高明の家族のことですが、高明の最初の妻、2番目の妻は、安和の変以前に亡くなっている。3番目の妻・愛宮(藤原師輔の5女)は、出家しました。高明の子である、忠賢と致賢の2人は、安和の変で出家の処罰となった。高明の末娘の明子(母は愛宮)は、藤原詮子(東三条院)の庇護を受け、藤原道長の妻となった。藤原詮子(東三条院)は藤原北家の大実力者で、道長の姉です。源高明が無実とわかっていたのでしょう。高明の子の俊賢と経房の2人は、「詮子―明子・道長」の縁で、権大納言、中権納言に出世した。


『源氏物語』の主役である光源氏のモデルは誰だろう。「無から有は生じない」ので、なんらかのモデル・ヒントがあるものです。当然、多くのモデルがいたわけですが、最大のモデルは、源高明でしょう。光源氏も源高明も「一世源氏」です。母は2人とも「更衣」です。


 紫式部は、「お気の毒な源高明さま」を物語の世界では、左遷(須磨・明石)から帰京し、その後、栄耀栄華の身とします。読者は「お気の毒な源高明さま」が、物語とはいえハッピーエンドになって、「よかった、よかった」となります。


 藤原道長がモデルという話もありますが、それは、栄耀栄華の部分だけのことです。紫式部が道長の愛人だった、という話もありますが、面白いフィクションにすぎません。でも面白いので信じる人が多くなるでしょうね。


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 太田哲二(おおたてつじ)  中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を9期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。『「世帯分離」で家計を守る』など著書多数。近著は『やっとわかった!「年金+給与」の賢いもらい方』(中央経済社)。