シリーズ『くすりになったコーヒー』


 日本コーヒー文化学会の星田宏氏、「銀ブラとは銀座でブラジル珈琲を飲むこと」との異聞に怒りが消えません。氏の主張は自社出版本『「銀ブラ」の語源を正す―カフエーパウリスタと「銀ブラ」(いなほ書房)』に、これでもかと云うほど書いてあります。


 筆者もまたイギリス初のカフェ開店秘話に引っ掛けて、銀座を只でブラつく慶大生の話に触れたばかりです(第253話)。今回は、銀ブラの真の語源は「銀プラ」であったというウソのようなどうでもいいような異説を紹介します。


 カフェ・プランタンが銀座に開業したのは明治44年の春、銀座で最初のコーヒーと洋酒の飲める店として一世を風靡しました。ちなみに、同じ年の夏に料理店ライオン、師走にはカフェ・パウリスタ(銀座でブラジルコーヒーを・・・と宣伝している店)が開店しました。明ければ大正元年、デモクラシー時代の幕開けでした。


 カフェ・プランタンを作ったのは松山省三という洋画家で、そのせいかカフェの内装は、行ったこともないパリ風に飾ったのだそうです。



 松山の思惑はパリ風の店を作って、絵描き仲間が集まって大騒ぎすることだったようです。思惑どおりそういう店になったのですが、絵描き仲間だけでなく、文人やら学者やらが集まって、ハイクラスで自由気ままなコンパ場になってしまったのです。それもそのはず、ロンドン、パリがそうであったように、中世欧州のカフェやコーヒーハウスなどというものは、酒場の後にリフォームしたので、客の多くは酒場の流れでした。銀座8丁目のメイド・イン・ジャパンも同じ経緯を辿ったのです。


 そんな流れの客のなかに、慶大教授の遊び人・永井荷風が混ざっていました。三田のキャンパスから芝公園を抜けて、新橋を渡るルートで銀座へ通っていたのです。唯一無二の目的は、新橋芸者の八重次に会うためで、コーヒーを好きになったのはそのためでした。当然のことながら常連となってオーナー・松山との人間関係は公私に渡っていたようです。


 そういうことを知ってか知らずか、当時の慶大生の悪どもが永井先生に頼んだことには、「学生のうちから銀座に出て広く知識を求めたい」と、只で寄り合える場所の相談をしたところ、永井先生ふたつ返事で応えたことには、「オーナーに頼んでおくから行ってみろ」でした。


 そんなわけで後に日本文化のど真ん中で活躍した人たちがこぞって銀座へ繰り出した・・・ということでしたから、「銀座のプランタンに集合」は、間もなく簡単に『銀プラに集合』となったのです。ちょっと才長けた小島征二郎などがそれをもじって『銀ブラ』と呼び、物も買わずに只々カフェ・プランタンまでブラつくことをそう呼んで遊んでいたのです。


●カフェ・プランタンは関東大震災で焼失し、新館も第二次世界大戦で破壊されました。
今ある銀座1丁目プランタンビル(プランタン銀座)はカフェ・プランタンとは無縁です。B1にはタリーズが入ってます。


(第255話 完)


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