シリーズ『くすりになったコーヒー』


 一昨年末、ニコチン酸の飲み薬と注射薬が販売中止になることを危惧して、臨床栄養学会は厚労省に「ニコチン酸販売継続のお願い」を提出しました(第432話 → こちら )。しかし残念なことに、要望は通りませんでした。その結果、去る3月末をもって日本の医薬品市場からニコチン酸が完全に消えてしまいました。医療用も一般用も、サプリメントもすべてが消えてなくなったのです。唯一の生き残りは一般用医薬品のノイビタZE150錠(第一三共)だけで、筆者も毎日飲んでいる錠剤です。


●厚労省はどうしてこの問題に真摯に向き合わないのか?

 筆者は不思議に思って、その理由を探っていたところ、思いもよらない古い事件があったのです。食肉、特に生の牛肉の変色を防ぐために、食肉業界が使ったニコチン酸が原因の急性食中毒が全国で頻発していたのです。

 もともと厚生省(現厚労省)から「食品添加物」の承認を得ていたニコチン酸は、自由に使えるビタミンでした。そのため、ニコチン酸大量投与の「ナイアシンフラッシュ」の知識を持たない食肉業者が乱用した結果だったのです。

 以下の記事は、当時の大阪市衛生課に勤務していた、いわば管理する立場の市職員が後に回顧した文章です。筆者がネットを探った範囲では、全国紙や全国放送を使った報道はほとんどなく、一部の関係者だけが知る事件だったようです。ですからこの文章だけが事件の存在を後世に伝える証拠となり、そして「ニコチン酸には触りたくない」という厚労省の気持ちを察する資料のもなったのです。厚労省にとって、ニコチン酸は避けて通りたいビタミンなのだと思われます。

 以下に、今は絶版になっている大阪生活衛生協会の雑誌記事をそのまま引用しておきます。



 昭和57(1982)年2月27日に厚生省の食品衛生課長と食品化学課長の名で食品、添加物等の規格基準の一部改正が発表された。その中に次のような記載があるのを不思議に思われた人はいないだろうか。

「ニコチン酸及びニコンチ酸アミド並びにこれらを主成分とする製剤を変色防止の目的で生肉や鮮魚介類に使用してはならない」。

ニコチン酸をビタミンの一種だと知っている人は多いが、上記の改正が出るに至った背景を知る人は少ないに違いない。


Ⅰ. アメリカにおける急性中毒

 1960年11月のある夕刻、イリノイ州のノースウェスタン大学の女子学生クラブで会食 が行われた。食事が始まって約15~20分すると、121人のうち44人に突然、温熱感あるいは灼熱感が現われた。続いて、皮膚がかゆくなり、顔、首、手足、胴に発赤や紅潮がみ られたが、30~40分たつと自然に治まり、一番長く続いた人でも約3時間で回復した。

 献立を調べたり、発症した人、しなかった人の問診で原因食として浮び上ってきたのが、ひき肉で作ったスウェーデン風ミートボールであった。納入業者を調べたところ、ひき肉を赤色に保つためニコチン酸ナトリウムを添加したことがわかった。調理したミートボー ルから100gあたり225mgのニコチン酸ナトリウムが、バイオアッセイにより検出された(文献1)。

 しかし、食品中に添加されたニコチン酸による急性中毒の報告はこれが最初ではない。すでに1957年にLymanらが次のように報告している(文献2)。

 ネブラスカ州で4歳の女の子がハンバーガーを1個食べたところ、顔と上半身が斑点状に発赤し、眼ぶたがはれた。この子の妹はハンバーガーを半分食べて、全身が火のように赤くなり、ひどいかゆみを訴えた。このような症状を訴える人が88名もあり、いずれも同じ店から肉を購入していた。この店では、ひき肉の変色を防止するためにアスコルビン酸、ニコチン酸、デキストロースを成分とする特許の製剤を使用していた。6検体のひき肉を定量したところ、肉1オンス(約28.3g)あたり14~105mgのニコチン酸が検出された。

 このほかPress and Yeager(文献1)は、ニューヨーク州、オハイオ州、オレゴン州、ペンシルバニア州で起きた事例を記録しているが、いずれもニコチン酸を成分とする添加物を使用した肉が原因となっている。


Ⅱ. ニコチン酸の肉の変色防止作用(文献3)と薬理作用(文献4)

 肉の色の90%以上は、ミオグロビンという赤色タンパクによる。それに次いで血色素のヘモグロビンも関係している。ミオグロビン自身は帯紫赤色であるが、酸素と結合してオキシミオグロビンになると鮮紅色に変わる。新鮮な肉は多量のミオグロビンのために青っぽい色に見えるが、これを切って空気にさらすとオキシミオグロビンができるために赤くなる。

 一方、肉が古くなると自己酸化し、鮮やかな赤色が失なわれて褐色になってしまう。これはミオグロビンの中の鉄が2価から3価に酸化され、メトミオグロビンになったためである。メトミオグロビンになってしまうと、酸素と結合しないので鮮紅色にはならない。したがって、肉の商品価値は低下する。

 ニコチン酸はミオグロビンやヘモグロビンと緩和な結合をして赤色を示す。ひき肉は赤紫色になりやすいので、肉100gに対し0.7gのニコチン酸を使う方法がアメリカの特許に登録されている〔Coleman:アメ リカ特許, 2,491,646(1949)〕。前述のアメリカでの事例はこの特許に基づいた製剤を使ったようであるが、この製剤にはアスコルビン酸も含まれていた。アスコルビン酸はメトミオグロビンをオキシミオグロビンに変えるので肉は鮮やかな赤色を保つことができる。後述するように日本での事例で使用された製剤もよく似た組成を持っていた(表1)。



 ニコチン酸はビタミンの一種で、これが欠乏するとペラグラになる。ペラグラでは光に当たる部分の皮膚に紅斑、色素沈着、亀裂を生じ、下痢、頭痛、めまいがみられ、重症になると幻覚や錯乱が起こる。しかし、これらは欠乏時の症状なので、今回の事例とは関係がない。ニコチン酸自体の作用として血管に直接働いて拡張させる作用がある。とくに皮膚の血管に対する作用が著しいので、顔面をはじめとして紅潮がみられ、温熱感やかゆみを覚える。このような作用は1~2時間続く。ただし、ニコチン酸アミドはペラグラに対する作用はニコチン酸と同様であるが、血管拡張作用はない。


Ⅲ. 日本における急性中毒

 食肉に添加されたニコチン酸による急性中毒が、アメリカで初めて報告されてから約20年経った日本において、ある薬品会社が食品添加物を開発した。グリシン、ニコチン酸、アスコルビン酸ナトリウム、無水ピロリン酸ナトリウム、ポリリン酸ナトリウムを主成分とし、肉の鮮度にかかわらず、その退色を防ぐ添加物である。スライス肉に振りかけると、通常2日で変色するものが5日位は鮮やかな色を保つという(文献5)。

 主成分としてあげられているものはすべて食品添加物として認可されているので、これらを含有した製剤を使用しても違反にはならない。関東地方を中心にして使用されたが、全国食肉環境衛生同業組合では信用にかかわるとして、添加物使用禁止を組合員に通知した。

 ところが、昭和55(1980)年12月にO市の飲食店で次のようなことが起きた。ステーキ丼を食べた14名全員が食べた直後から30分後までに、発疹、顔面紅潮、顔面のほてり感など何らかの異常を訴えた。診療所で受診したところ、2~3時間後には全員治ゆしたので、一過性のアレルギー状態ではないかといわれた。

 さらに、昭和56年1月にはK市の家庭でも同様のことが起こった。主婦Mさんは近くの食料品店でパ ックされた牛肉を買った。その肉を昼食の焼きそばに入れて子供と食べたところ、食後すぐにMさんだけが、手の甲のかゆみと顔のほてりを感じ、次第に全身が赤くなってきた。しかし30分ほどで症状が治ってしまったことと、子供には何もなかったことから、その時は牛肉が原因とは思わず、残りの肉をしぐれ煮にした。翌日の昼食の際、しぐれ煮を2片ほど口に入れると前日と同様の症状が出た。そこへ高校生の娘さんが、弁当のおかずのしぐれ煮を食べたところ同じ症状になったといって赤い顔をして早退 してきた(文献6)。

 また、昭和56年2月には0市のある飲食店でファミリーステーキを食べた4名の客全員が、15分後に耳のあたりが赤くなり、体全体に発疹がひろがり、動悸が激しくなった。4名は直ちに病院で診察を受けたが、アレルギー性の皮膚炎ではないかといわれた。同店のコックが同じステーキを食べたところ10分後に同様の症状を呈した。

 これらの他にも同じような訴えがあり、その原因を調べたところ、いずれも食肉が関係していること、これらの症状がニコチン酸の作用と類似していることから、数年前に関東地方を中心に出まわった添加物によるものではないかと考えられた。

 ニコチン酸は牛肉に通常3~6mg/100g含まれている。今回のK市の事例ではしぐれ煮か ら64.6mg/100g、販売店から収去したスライス肉から24.6mg/100gのニコチン酸が検出された(文献7)。また、0市の2月の事例でも肉から339mg/100gも検出された。従ってニコチン酸を含む製剤が使用されたものと考えられた(文献8)。


Ⅳ.日本における禁止までの経緯

 昭和52年に全国食肉環境衛生同業組合が組合員にニコチン酸などを主成分とする添加物の使用禁止の通達を出したことは前述したが、取締りの対象にならなかったため再び使用されはじめ、56年ごろは少なく見積っても10~20種類の製品が出まわっていた(文献9)。その成分の例を表1に示した。いずれもアメリカと同様にニコチン酸とアスコルビン酸を主成分とするものであった。

 昭和55年から56年にかけて、各地で前述のような急性中毒が発生したため、消費者運動が高まり、消費者団体は厚生省に対策を迫る(文献10)と共に食肉関係団体にも使用中止の申し入れを行った。

 これを受けて、全国食肉環境衛生組合連合会、全国食肉事業協同組合連合会は56年6月に相次いで使用禁止の通達を出した(文献9)。

 厚生省も以前から許可された食品添加物の組み合せとはいえ、生肉を新鮮に見せかけるための添加物には問題があるという認識はあった。昭和52年にも業界に対して使用を自粛するように指導していたが取締まる法律がないため徹底できなかった。そこで57年2月に冒頭にあげたように食品、添加物等の規格基準の一部改正を行い、生肉や鮮魚介類に使用することを禁止することにした。

 今回のようなニコチン酸の急性中毒は、食後間もなく急性症状が現われたために早く原因が明らかになった。もし、もっと遅く症状があらわれるものであればその因果関係は判らなかったかもしれない。また、ニコチン酸のかわりに血管拡張作用のないニコチン酸ア ミドが使われておれば問題になるのがもっと遅かったかもしれない。アメリカでも指摘されていたことであるが、添加物の使用量がいい加減で、しかも大量に使われたこと、肉に対する分布が不均一であったことが今回の事例になったものとみられる。

 それにしても、1957年に世界で初めてアメリカにおいて報告されてから、約20年後に遠く離れた日本で全く同じことが問題となった。時間と距離をへだてていても人間の考えることは同じだという気がする。大げさにいえば歴史は繰り返されたのである。


1) E.Press and L.Yeager:Amer.J.Public Health,52,1720~1728(1962)

2) E.D.Lyman,C.J.Potthoff and H.P.Jacobi: Nebraska Med.J.,42,243~245(1957)

3) 小柳達男:食品と解毒の化学,79~81(1972)

4) L.S.Goodman and A.Gilman(eds):The Pharmacological Basis of Therapeutics,4th ed,1654, Macmillan(1970)

5) 消費者リポート,昭和52年7月27日号(1977)

6) 月刊消費者,8月号,42(1981)

7) 京都市衛研年報,第47号,78(1981)

8) 藤田忠雄,神戸保,大柴恵一,佐々木清司: 生活衛生,27,30~33(1983)

9) 食肉通信,昭和56年7月7日号(1981)

10) 日本消費経済新聞,昭和56年7月6日(1981) (大阪市立環境科学研究所衛生化学課)


著者:山田明男,大阪市立環境科学研究所生活衛生課(現大阪市立環境科学研究センター)

(第469話 完)