大昔に細胞に寄生したミトコンドリアは、現代人の細胞でも大活躍です。誰もが知っている最も顕著な働きは、物質代謝の最終産物であるエネルギーを生み出して、宿主細胞の生命活動を支え、自らも生き続けることです。その物質代謝の中核となっている分子がNADで、「代謝のHUB(ハブ)」とも呼ばれています。

 今世紀になってから、NADはエネルギーを生み出すだけでなく、遺伝子の酸化障害を修復し、体内時計の時差を正し、三大死因病を予防するなど、健康長寿にとって不可欠であることが解ってきました。そこで誰もが思うことは「NADを増やせば健康になる」とか、「そのために何を食べればよいか」ということです。


●天然の食べ物には例外なくNADが含まれているのに・・・

 何を食べても、そのNADは役に立ちません。吸収されないからです。では注射すればよいかと言えば、血管に入っても細胞に入りません。ならば吸収されて細胞に入ってNADに変わる分子を見つければ薬になる・・・製薬会社はそう思ったことでしょうが、簡単には問屋が卸してくれません。理由は、ビタミンB3を食べていればNADは自然に増えてくれるからです。



 図1のTrpはタンパク質に含まれている必須アミノ酸のトリプロファンです。2つあるVB3はビタミンBで、NAもNAMもどちらも肉類に含まれています。これら3つの化合物は体内でNADに変わるので、生合成前駆体と呼ばれます。そのため各国が定めているNAD前駆体の推奨1日摂取量は、3つの合計をNAに換算した「ナイアシン等量」で決められています。日本人の場合、男性は15㎎/日、女性は10㎎/日となっています。


●肉を食べていればVB3が不足することは滅多にないはずなのに・・・

 それが近年そうでもなくなってきたのです。理由は世界的な人口の高齢化です。年をとるとNADを作る状況が変わるのです。最大の原因は、図1のNADリサイクル回路が動き難くなるのです。そうしてNAD不足が進むと、やがてVB3欠乏症(ペラグラ)になります。TrpのNAD変換率はVB3の60分の1程度なので、ほとんど役に立ちません。そこでデ・ノボ経路に合流するNAを積極的に摂る必要が生じるのです。ところが困ったことにNAを多く含み、かつ高齢者も好む食べ物がほとんどないのです。深く煎ったコーヒーが唯一とも言える供給源で、男性なら1日2,3杯、それで不足する分はNAMと一緒に肉から摂ることになります。そこで「コーヒーを飲まない高齢者は肉を沢山食べなさい」という、厄介な食生活を強いられるのです。


●昔は夢の中だけの話だった「若返り薬」の研究が、今は社会の要求になっている。

 前世紀後半から始まった世界的な高齢化現象が、医学、栄養学の研究にも影響しています。今世紀に入ると、長寿遺伝子Sirt1の発見、メトフォルミンやラパマイシンといった医薬品がマウスの寿命を延ばすとの発見など、高齢化社会への対応を意識した論文が出はじめたのです。図1のNAD依存酵素の②番で、NADは長寿遺伝子とも関係していますから、当然研究対象になりました。ワシントン大学の今井慎一郎教授は、「VB3以外にもNADを増やす可能性をもった分子があって、中でも魅力的なのはNMNである」と提案しました(詳しくは → こちら )。それから一昔が経過して、今では全国紙の新聞広告がNMNサプリメントの宣伝に使われています。しかし、その実験的根拠はほとんどない現状で、PRだけが先行している感があります。



 では、VB3はどうかと言いますと、薬としては非常に古いものなので、今様の臨床試験はありません。その一方で、治療薬のない難病を対象に、小規模の臨床試験が発表されるようになりました。中でも目を引く論文は、筋肉の運動機能が低下するミトコンドリア・ミオパチー患者にNAを投与するパイロットスタディーです(詳しくは → こちら)。この若い研究グループを指揮して成功に導いたのは、ヘルシンキ大学のE.Pirinen教授でした(写真2)。論文には編集部の論説も同時掲載されています(詳しくは → こちら)。また医薬経済社のブログにも書いてありますので、是非もう一度お読みください(詳しくは → こちら)。



●NADを増やせば本当に老化を抑えられるのか?

 筆者が思っている老化抑制の現実的な目標は「生きている間は元気でいたい」という人々の願いを叶えるコーヒーを作ることです。インスタントコーヒーの世界的メーカーであるスイスのネスレ社は、つい最近の論文に「使用可能なNAD前駆体は4つあるが、4つとも進化の過程で保存されてきたものなので、時と場合によって使い分けるのが正しい」と書いています(詳しくは → こちら)。

 健康な長寿の実現にとってNADが如何に大切な分子であるか、最近発表された学術誌の論説を日本語に翻訳して紹介します。この論説によれば、NADへの期待は十分に大きいのですが、どうやってNADを増やすかということについては「前駆体を投与する」とだけしか書いてありません。どんな場合にどの前駆体を選ぶかについては全くアイディアがないのが現状です。現時点で根拠がしっかりしている状況のまとめと言える論説です。


出典:AGING 2022,Vol.14,Advance

高齢者の健康評価にNAD

NAD+ to assess health in aging humans

Joris Hoeks: Department of Nutrition and Movement Sciences, NUTRIM School of Nutrition and Translational Research in Metabolism, Maastricht University, Maastricht, The Netherlands


 老化した細胞で起こる分子の変化は、加齢が原因の病気のはじまりです。 加齢マウスで観察される変化の1つは、ニコチンアミド・アデニン・ジヌクレオチド(NAD) の減少です[文献1]。100年以上前にレドックス酵素の電子伝達体として発見され、後にシグナル伝達のハブであることが明らかになったNADは、老化研究分野で注目を集めています [文献1]。500を超える酵素反応がNADを使って生命と細胞の恒常性を維持しています。マウスに NAD前駆体を投与すると、肝臓での糖新生、膵臓でのインスリン分泌、リンパ組織での免疫機能、心臓保護など、加齢に伴って障害を受ける多くの代謝経路が改善されます。その結果、心臓、脳の感覚および運動機能、更には寿命の延長を含むその他多くの機能が保たれるのです[文献1、2]。


 動物試験で使われる線虫とげっ歯類で説得力のある証拠が見つかっていますが、ヒトの健康な老化におけるNADの役割を裏づける証拠はほとんどありませんでした[文献3]。しかし私たちは最近、若者および高齢者の骨格筋生検で、偏りのないメタボロミクス研究を実施し、高齢者の筋肉NADレベルが若者に比べて低いことを確認しました[文献4,5]。重要なことは、私たちの研究対象の高齢者が、若い対照群と同様の身体活動レベルを示していたことです。驚くべきことに、筋肉のNADの差は、身体障害のある高齢者で悪化していましたが、運動をしている高齢者のNADレベルは、若年者と同様のレベルを保っていたのです [文献4]。


 この研究により、骨格筋などの主要な組織のNADが年齢とともに低下し、そのことが筋肉の衰えた高齢者では通常の体力を持つ高齢者よりも健康に大きく関連しているという、これまで強く求められていた疑問に対する答えを知ることができました[文献4]。同様に、十分な有酸素運動トレーニングを含むライフスタイルが、若者に見られるのと同様のNADレベルと関連していることも解りました[文献4]。これは、高齢者の有酸素運動とレジスタンス運動を12週間行うと、NADサルベージ経路の律速酵素であるニコチンアミド・ホスホリボシルトランスフェラーゼ (NAMPT)のレベルが上昇する可能性を示唆する別の研究と一致しています[文献6]。更に、身体活動とNADレベルの関係を見ると、1日の平均歩数と筋肉NADレベルとの間に直接的な相関関係が成立していることも解りました[文献4]。


 NADの変化は最も印象的ですが、高齢者の健康状態に関連する唯一の代謝物ではありません。実際、私たちが測定した加齢の影響を受けたほとんどすべての筋肉代謝物は、同様の傾向をたどりました。トレーニングを受けた高齢者では違いがそれほど顕著ではなく、逆に身体障害のある高齢者の状況は深刻でした。私たちの研究は横断的手法のため、原因と結果を明らかにすることはできませんが、それでも運動は健康的で最も強力な老化介入手段の1つであるという考えを支持しています[文献7]。高齢者の運動トレーニング前後の骨格筋代謝を調べる介入研究もこの考えを支持しています。更に、運動とNAD前駆体の補給を組み合わせると、一層有益な効果に繋がる可能性があります。このような介入は、重度のNAD枯渇を特徴とする身体障害をもった高齢者にとって最善の手法となる可能性があります。しかし、そのような研究の候補となる被験者が科学研究に参加することは容易ではなく、仮に参加しても、プロトコルに従う試験を完了することは大変なことです。


 NADは、DNAの傷の修復、概日リズム、細胞分裂への酸化還元反応、炎症からエピジェネティクスに至るまで、非常に多くの多様な細胞機能に関与しています[文献1,2,8]。つまり、細胞の健康的な生存にとって重要な役割を果たしていると言っても誇張ではありません。ほとんどすべての生物学的プロセスの前臨床モデルにおいて、NADはその健康と非常に説得力のある関連性を示しているので、ヒト高齢者の健康にも反映されているはずです[文献1]。運動を含めて、ヒトの健康的な加齢介入試験を計画するなら、その成功の鍵をとなる手段として、NADの量が最良の分子マーカーとして役立つ可能性が高まっています。


以下文献(省略)


(第480話 完)