進行癌では、いわゆる悪液質という状態になって、体重が減って、回復の見込みが立ちません。こうなりますと、仮に食事を摂ったとしても、血となり肉となることはありません。物質代謝の恒常性が破壊されて、余命を宣告されてしまいます。アナモレリンという悪液質の薬がありますが、これは無駄に食欲をつけるだけで、減った体重を取り戻すものではありません。
●不可逆的な体重減少がどうして起こるのか、そのメカニズムの研究がある(詳しくは → こちら)。
これは今年の夏に発表された総説論文(引用論文数146)で、書いたのはオランダのアムステルダム大学と、ピサの斜塔で有名なイタリアのピサ大学のグループです。膵臓癌を研究した結論が図1で、癌細胞が分泌する形質転換増殖因子β(TGF-β)が筋肉の受容体に結合すると、その情報が伝わって筋肉の萎縮が起こります。これが悪液質の始まりになるというのですが、その他の症状との関係はわかりません。
TGF-βが悪者ならば、TGF-βとその周辺を詳しく調べる必要があります。著者はそれを強調していますが、筆者が興味をもって調べたのは、「コーヒーはTGF-βに作用するのかしないのか」ということです。すると何年も前にビックリ仰天の論文が発表されていたのです。
●毎日飲むコーヒーが骨格筋肥大と筋芽細胞の分化を促進する(詳しくは → こちら)。
これも詳しくは書きませんが、この論文は「毎日コーヒーを飲んでいると、TGF-βが抑制されて、筋肉量が減らなくなるか、または増える」ことを実験で証明した論文です。ですから、図1の膵臓癌の患者が、もし毎日コーヒーを飲んでいたとすれば、Smad3が減って、筋肉が萎縮しないで済んだ可能性があるのです。
●Smad2と3が少ないほど肝臓癌は進行しにくい(詳しくは → こちら)。
これもやや古い論文ですが、ドイツの病理化学者オラフ・グレスナーは、米国NIHの研究グループが発表したデータ「1日に飲むコーヒーが多いほど、慢性肝炎患者の肝線維化が遅くなって癌リスクが減る」を説明する薬理学を考察し、図3のようにまとめました。
グレスナーによると、関与成分の主役はカフェインで、図に赤字で書いたようにSmad2も3も分解してしまいます。するとTGF-βの情報がストップして結合組織成長因子(CTGF)が減るのです。そしてその結果、TGF-βによる骨格筋の萎縮がなくなって、悪液質を抑えることができるというものです。図2と3をまとめると、毎日飲むコーヒーはTGF-βを抑制し、かつTGF-βの情報伝達を二重に遮断して、骨格筋を守っているということです。
ここで話は飛びますが、癌の悪液質に係わっている悪玉が、新型コロナ感染症COVID-19の重症化にも関わっているという驚きの論文を紹介します。
●図1と図3のSmad3はCOVID-19でも悪役である(詳しくは → こちら)。
今年7月、香港中華大学のW.ワンらは、COVID-19患者に多い腎障害がSmad3を介して発症すると発表しました。腎障害だけでなくCOVID-19後遺症は複雑な症状を示し、その原因はほとんど未解明で、患者は長期に渡って辛いQOL低下に悩まされるとのことです。その原因の一端が癌の悪液質と同じTGF-β→Smad3の経路で起こっているならば、両疾患の治療法にも共通の理解が生まれるはずです。
●悪液質では体重が減る以外にも色々と悪い症状が出てくる。
悪液質の主な症状は食べても止まらない体重減少で、これが診断の目安です(表1を参照)。最近、京都大学他が行ったマウス動物実験で、癌になるとニコチン酸アミド(NAM:ニコチナミドともいう)を代謝するN-メチル基転移酵素(NNMT) が増えていることを発見しました。重要なことは、NAMからできる代謝産物1-メチルニコチンアミド (MNAM) が尿に排泄され、そのためNADがどんどん減ってしまうことです(詳しくは → こちら)。
図4をご覧ください。ややこしい図ですが肝臓癌マウスの異常な肝代謝を示しています。大きな赤矢印の酵素NNMTの増加が切っ掛けとなって、MNAMが増えると、そのほぼ全てが尿に排泄されてしまいます。するとNADのリサイクルで重要なサルベージ回路が停止して、NADがどんどん減ってしまうというのです(詳しくは後述)。豚肉などNAMを多く含む食事をいくら食べても、そのほとんどがメチル化を受けて排泄されてしまいます。そしてNAD不足に歯止めがかからなくなるのです。ただし、こうなる癌とならない癌があるそうです。
よく知られているように、NAD不足はビタミンB欠乏症のペラグラで、全身の物質代謝に異常が生じます。悪液質ではペラグラの症状が全部出るわけではありません。表1に示す悪液質の診断基準は、良く調べてみるとペラグラというよりVB12欠乏症に似ています。悪液質の診断基準のどれもがVB12欠乏症と共通しているのです。そして、悪液質とペラグラが似ている症状とは、診断基準以外の部分ということになります。この研究でどこまで分かっているのか、詳しくは共同研究に参加した東北大学グループの日本語解説をご覧ください(詳しくは → こちら)。
●更に驚くのは、COVID-19の後遺症がペラグラと似ているとの主張である(詳しくは → こちら)。
クロアチアの女性科学者リナタ・ノバク博士は、COVID-19患者の血中にNADが不足していることに注目して、患者の急性期と慢性期(後遺症)の自覚/他覚症状を詳しく調べました。すると症状の過半数がVB3不足(つまりNAD不足)のペラグラと共通していることに気づきました。表1のペラグラの症状は、ノバク博士が比較した一般的な(頻度の高い)症状に、筆者が独自に検索した全11種の症状をまとめたものです。COVID-19後遺症とペラグラとでは、11項目中のうち7項目(67%)が共通していました。単純に言えば、COVID-19の症状はNAD不足のペラグラだけでなく、他の何かの病気の症状が加わっているように思えます。これについてはVB12欠乏症が有力候補で、以前にこのブログで紹介した通りです(詳しくは第454話 → こちら)。
ノバク博士はNADが減る原因についても文献考証し、NAD前駆体でサルベージ回路の中間体でもあるニコチナミド(NAM)が異常な速度で排泄されていることに気づきました。これは図4の現象と同じで、正確に言えば、NAMをメチル化する代謝酵素が異常に高い活性を示して、代謝産物のMNAMが尿中に排泄されてしまうのです。
図5は、ノバク博士が「NAMドレイン」と名づけて論文に描いた概念図です。この異常なNAM排泄経路はCOVID-19患者だけでなく、図4の肝臓癌の悪液質でも認められる共通の経路です。NAD生合成のサルベージ回路(NAD Salvage Cycle)とは、簡単に言えば「リサイクル回路」のことで、使い終わったNADをもう1回作り直して再利用する重要な回路になっています。
ノバク博士はNADが減る原因についても文献考証し、NAD前駆体でサルベージ回路の中間体でもあるニコチナミド(NAM)が異常な速度で排泄されていることに気づきました。これは図4の現象と同じで、正確に言えば、NAMをメチル化する代謝酵素が異常に高い活性を示して、代謝産物のMNAMが尿中に排泄されてしまうのです。
図5は、ノバク博士が「NAMドレイン」と名づけて論文に描いた概念図です。この異常なNAM排泄経路はCOVID-19患者だけでなく、図4の肝臓癌の悪液質でも認められる共通の経路です。NAD生合成のサルベージ回路(NAD Salvage Cycle)とは、簡単に言えば「リサイクル回路」のことで、使い終わったNADをもう1回作り直して再利用する重要な回路になっています。
●NNMTの活性を阻害すれば悪液質の治療に繋がる可能性がある(詳しくは → こちら)。
NAMのメチル化を防いで、ドレインへの排泄を阻止できれば、悪液質の治療に役立つ可能性があります。同時にCOVID-19後遺症の治療にも役立つ可能性があります。世界の創薬研究者がNNMT阻害薬を見つける研究を精力的に行った結果、既に悪液質治療の臨床試験に入っているものもあります。これらの阻害薬は酵素活性を直接阻害する非競合的阻害薬ですが、もう1つの可能性が上記した「SAMの取りっこ」を利用することです。コーヒーに含まれている競合的COMT阻害物質であるカフェ酸はその最初の例になった天然ポリフェノールです。
●コーヒーのカフェ酸はメチル基供与体SAMを使うので他の基質のメチル化を遅くする(詳しくは → こちら)。
カフェ酸のメチル化は酵素COMTで触媒されます。もしカフェ酸と、カフェ酸以外のCOMTの基質が同時に存在すると、COMTとの結合力の強い方がメチル化されて、弱い方は遅れてメチル化されることになります。これが競合的阻害です。カフェ酸と似た作用を示す植物成分が数多く知られていて、生薬オウゴンのフラボノイドが最強の基質のようです(詳しくは → こちら)
天然のCOMT阻害薬はどれも共通の構造をもっていて、それがカテコールと呼ばれるポリフェノール構造(図7の赤丸)です。医薬品としても、パーキンソン病の治療に応用されています(図7)。図中の赤丸はカテコール構造を示しています。
●カフェ酸はCOMT以外のメチル基転移酵素とも競合する。
核酸塩基の1つであるシトシンはDNAメチル基転移酵素DNMTの基質です。これがカフェ酸と共存するとき、競合阻害が起こってシトシンのメチル化が遅くなります。COMTとDNMTは共にメチル基供与体としてSAMを使っているので、SAMの取り合いが起こることで競合するのです(詳しくは → こちら)。
それでは癌の悪液質やCOVID-19後遺症の治療に植物成分のCOMT阻害薬は利用できるでしょうか?実は、悪液質治療目的で開発中の薬はどれも非競合的阻害薬で、今のところ競合的阻害薬を使う研究はほとんどありません。しかし上記したCOMTとDNMTがどちらもSAMを要求する事実から考えると、COMTとNNMTが競合しても不思議はありません(図8を参照)。
ごく最近の論文によれば、生薬オウゴンがCOVID-19後遺症の治療に前向きの成績を収めているとの解析(詳しくは → こちら)、コーヒーまたは「コーヒー+蜂蜜」にも治療効果があるとのこと(詳しくは → こちら)、および一般論として悪液質にはポリフェノールを多く含む食事が良いという栄養学の見解などは、COMT基質によるNNMTの阻害作用を示唆していると思われます。
植物界に広く分布しているCOMT基質(ポリフェノール)がNAMドレインを閉じてくれるなら、NAD欠乏が解消して、SIRTsなどのNAD消費酵素がその活性を取り戻して、全身の代謝恒常性が正常化すると考えられます。この考えは仮説の段階ですが、試してみる価値が十分にあります。図9をご覧ください。
●最後に、以上をまとめて、NAMドレイン周辺の生化学を図9に描きました。
【図9の説明】NAMをメチル化するメチル基転移酵素はNNMTで、この酵素はメチル基供与体としてSAMを使います。そのSAMを補給しているのはメチオニンサイクルで、律速段階はホモシステインからメチオニンへの変化です。メチオニンの合成酵素には補酵素VB12が必要です。これにはコバラミン(B12)とメチコバ(メチルB12)の2種類があって、体内ではどちらも有効に働きますが、そのためには更にビタミンB群の葉酸がなければなりません。以上が揃った上で、カフェ酸がNNMTを競合的に阻害すれば、NAMの過剰なメチル化が停止して、サルベージ回路が正常に回転し、NADのリサイクルが機能します。勿論、リサイクルだけでは不足する分があるので、その分はタンパク質のトリプトファンやコーヒーのニコチン酸で補給しなければなりません。
●NAD欠乏が原因の症状は悪液質やCOVID-19後遺症に似ているのか?
NADはミトコンドリアでエネルギーを生産する以外に、細胞質では多くの酵素の補酵素として働いています。ですからNAD欠乏はありとあらゆる身体症状に関与していると言っても言い過ぎではありません。しかし、NADの更に重要な役割はSirtsの活性化で、これが悪液質やCOVID-19の不可解な症状発現に関わっている可能性が極めて高いのです。そして筆者が最も注目した論文は、コーヒーがSirtsにどのような影響を及ぼすかという内容で、今年5月に発表されました。
●コーヒーを飲んでいると血中Sirt1の濃度が高まる(詳しくは → こちら)。
正に赤ワインのレスベラトロールで観察されたのと同じ現象が、コーヒーで確認されました。ちなみに、レスベラトロールがSirt1を増やして寿命を延ばす実験は2004年のNature誌に載って大注目されましたが、これは原虫を使う実験でした。その後の疫学研究で、赤ワインが心臓死を減らす話が話題になりました。しかし赤ワインにはコーヒーのような全死亡リスクの軽減というデータはありません。恐らく赤ワインを毎日飲むという生活習慣を、交絡因子なしに追跡することが困難だからと思います。
コーヒーと健康の疫学研究が一定の成果を上げているのは、コーヒーを飲む人口が他の嗜好飲料に比べて圧倒的に多いからです。議論の余地はあるでしょうが、よくよく図9を眺めた上で、「癌になったら、新型コロナに罹ったら、毎日コーヒーを飲んで、それでも不足するビタミンB群をノイビタZEから摂りなさい」と、くどいようですが強調させていただきます。
(第485話 完)