喫茶店という名前が町から消えてしまった。その原因は社会の禁煙志向にあるらしい。それはそれとして今日のお話は、「煙と珈琲」を結ぶ科学のお話です。


●先ずはニコチンから始めます。

 ニコチンはタバコの煙の1成分です。「コーヒーと言えばカフェイン」と同じように、「タバコと言えばニコチン」なのです。前世紀からの疫学研究によれば、「喫煙者はパーキンソン病のリスクが低い」となっています。何故そうなるのか謎でしたが、最近の研究によれば「ニコチンの運動神経保護効果」ということだそうです(後述)。しかし、「パーキンソン病になったらタバコを吸いなさい」という話は何処にもありません。それどころか、喫煙による健康被害の方が余程問題だからです。

 もう1つ、筆者が学生時代から不思議に思っているのは、ニコチン薬理学の話で、「自律神経の神経節にニコチン受容体があること」です。ニコチンはタバコを吸う人だけのものなのに、吸わない人の神経にもニコチン受容体があるのは何故か?それが不思議で考え込んで、挙句の果てにその先を読むことが出来ず、薬理学の再試験を食らったことがありました。


●喫煙はあらゆる癌の原因ですが、ニコチンが悪いわけではない。

 図1のグラフをご覧ください。これは加熱式タバコのデータです。加熱式タバコは紙巻きタバコと違って、タバコに直接火をつけるのではなく、熱でニコチンを発生させる喫煙具のことです。タールの量が9割以上減少するので、人体への悪影響が少ないとされています。それでも図の如く、発癌性物質が無くなるわけではありません。ここで大事なことは、このリストにニコチンが入っていないことです。つまりニコチンは発癌物質ではありません(詳しくは → こちら)。



 図1の中で最も強い発癌性を示すのは、ベンゼンとホルムアルデヒドで、続いてアセトアルデヒドやベンゾピレンがあって、これらを合わせれば喫煙者の発癌リスクが高くなります。これに対してニコチンは、国際癌研究機関の発癌性物質リストにも載っていません。つまりニコチンに発癌性はないのです。

 だからと言ってニコチンは安全とは言えません。自律神経に受容体があるわけですから、神経伝達に大きな影響を与えます。適正な量を使えば薬としての使い道がありますが、量を増やせば副作用が出はじめます。


➊少量のニコチンの作用(詳しくは → こちら)。

骨格筋を収縮するので握力や歩行力が増す。

認知力を高める。

副腎髄質に作用し、アドレナリン分泌を促進する。その結果血圧や血糖値の上昇が起こる。

禁煙補助効果がある。

習慣性について、カフェインとニコチンの習慣性はアルコールより弱い(詳しくは → こちら)。

➋過剰のニコチンの作用は副作用になる。

血圧低下、不整脈、呼吸困難の順に悪化する。

ヒトの致死量は推定約1gと思われる。


 では、ニコチンの話はこれくらいにして、次はニコチン酸からできるニコチンのお話ですが、その前にNADを復習しておきます。


●加齢が原因で減ったNADは、どんなブースターを摂っても増やすことは難しい。

 健康な人がコーヒーを飲めば、ビタミンB3のニコチン酸(NA)が体内でNADに変わります。図2左上のコーヒーカップからプレイス・ハンドラー経路を辿ってNADが補給されます。サルベージ回路とは無関係です。NAは豚肉にも入っていますが、毎日摂るにはコーヒーの方がずっと便利です。しかし高齢者にとって運の悪いことに、ニコチン酸を含む食べ物が少ないので、コーヒーだけでNADを賄うことはできません。



 食べ物からの経路はもう1つあって、それはトリプトファンから始まるデ・ノボ経路です。しかし、これも運の悪いことに、NAD必要量の60分の1しか補給できません。そこで十分なNADを得るためには、図2右下の豚肉に多いニコチナミド(NAM)が役立つはずなのですが、これも高齢者にとっては不向きです。何故ならNAMはサルベージ回路を経由しないとNADにならないからです。高齢者にとって3つ目の運の悪さは、サルベージ回路の律速酵素ⒷNAMPTの活性が低下していることです。実はこのことが、高齢者のNAD減少の原因なのです。ですからNAMをいくら摂っても、回路は回転できず、焼け石に水の状態で、どんなサプリメントも効くことがありません。


●NAMPTの活性を高める必要がある。

 抗癌薬の開発を巡ってNAMPTを不活化する化合物が色々見つかっています(詳しくは → こちら)。しかし、逆にNAMPTを増やしたり、活性を高めたりする有効な化合物の発見はまだ2つしかありません(図3)。1つは米国のベンチャー企業が開発した化合物SBI(詳しくは → こちら)、もう1つは中国北京大学その他が見つけた化合物NATです(詳しくは → こちら)。どちらも未だ研究段階で、ヒトへの応用は将来の課題です。



 図3のSBIとNATはどちらもNAMPT酵素に結合して、その酵素活性を高める役目を果たします。その結果、図2のNAM→NMNの反応が進むようになるのです。このときの酵素活性部位とは、抗癌作用を示すNAMPT阻害物質が結合する部位と同じですが、SBIの場合は阻害物質より強く結合して、阻害物質を排除するように結合するとのことです。ですから、高齢者で低下しているNAMPTの活性が、何らかの阻害物質によるものならば、SBIの投与によって阻害物質を排除することができるとも考えられるそうです。


●少量のニコチンがNAMPT活性部位に結合して酵素活性を高める。

 今年の2月半ばのこと、ビックリする論文がNature姉妹誌に発表されました(詳しくは → こちら)。NAMPTを活性化する3つ目の化合物が、冒頭に書いた少量のニコチンだというのです(図4の破線矢印)。実験はマウスを使ったものですが、サルベージ回路の遺伝子は哺乳類で共通して保存されているので、ヒトでも同じように起こると考えられます。NAMPTが活性化されると、NAM→NMNが進むようになり、そうなればNADも増えて、止まっていたサルベージ回路が回転し始めるということです。



 30年ほど前から、喫煙者はパーキンソン病 (PD) になり難いという疫学研究があります。数多くの論文があり、複数のメタ解析結果も発表されました。年に≥30パック、かつ喫煙歴≥20年が統計的に有意なリスク軽減傾向を示します(詳しくは → こちら)。同じく、コーヒー習慣もPDリスクを下げるので、タバコとコーヒーに共通する成分の可能性が考えられます。ごく最近の論文によれば、タバコのニコチンがマウス脳の黒質線条体を保護するメカニズムが明らかになりました(詳しくは → こちら)。もしこの保護作用がNADを介して起こっているとすれば、上記した「ニコチンがNAMTを活性化する(図4)」という実験結果と矛盾しないように思われます。しかし、これを確かめるには追加の実験が必要です。


●タバコを吸わないマウスのニコチンは何処から来るのか?


 この疑問に対して、図4の論文は、古い論文を引用しつつ「マウスのニコチンはニコチン酸起源の可能性が高い」と書いています。本当でしょうか?それを確かめるために古い論文を読んでみました(詳しくは → こちら)。するとそこに書いてあったのは植物体内で起こる「ニコチン酸→ニコチン」のメカニズムの話で、マウスの話ではありません。ですから図4の大きな「?」が消えるわけではないのです(図5)。それでもニコチンがNAMPTを増やすことの魅力は絶大なので、「哺乳類は体内でニコチンを作っているのかいないのか」、この謎は依然として価値ある大きな謎と言えるのです。


●最後に、人体へのニコチン投与をどうすれば安全に実現できるか?

 ニコチン酸がニコチンになることはないとしても、少量のニコチンが本当に身体に良いものならば、飲み過ぎや中毒を起こさない安全なニコチン投与法を考える必要があります。もし実現すれば、タバコとコーヒーが名実ともに関係を持つことになって、共に百寿時代に貢献するかも知れません。大いに期待しています。

(第498話 完)