70年前後の現物給付化の機運
被保険者数の激減、ハイパーインフレという厳しい環境下で制度を維持していくために、健康保険は診療報酬や保険料の引き上げとともに、現金給付の「分娩費」の見直しも繰り返された。戦後初の分娩給付の見直しは、1946年4月の施行令改正で、被保険者の「分娩費」をそれまでの定額制から報酬月額の半額に引き上げることで、インフレへの対応がとられることになった。最低保障額は100円とされ、「配偶者分娩費」も10円から50円に引き上げられた。「分娩費」の報酬月額比例は1948年8月に法制化され、同時にそれまで任意給付だった「哺育手当金」も法定給付に格上げされている。その後も見直しは続いたが、1961(昭和36)年に被保険者の最低保障額が6000円(配偶者分娩費は3000円)に引き上げられたあとは、70年代まで据え置かれた(この改正で「哺育手当金」の名称が「育児手当金」になり、月額制から一時金に変更された)。
国民健康保険の分娩給付は、戦後も任意給付のままだった。法律上は現物給付の「助産の給付」が原則とされていたが、終戦時には現金給付の「助産費」が大部分になっていた。1件あたりの平均給付額は、1946年度は13.18円だったのが、1956(昭和31)年度には500〜1000円程度まで引き上げられた。このように、戦後の分娩給付は、健康保険も国民健康保険も現金給付になっていたが、1960年代半ばになると、分娩場所の変化とともに現物給付への転換が求められるようになる。
戦前、戦中は、分娩のほとんどは産婆や身近な人の手を借りて自宅などで行われていた。1947(昭和22)年は97.6%が自宅等で出産しており、病院や診療所などの施設分娩はわずか2.4%だった。だが、経済成長とともに病院や診療所が各地に普及し始め、1960(昭和35)年には50.1%が施設分娩に変わっている。1970(昭和45)年には84%、1980(昭和55)年には99.5%と増加し、ほぼすべてが施設分娩になっていった(「人口動態統計」厚生労働省大臣官房統計情報部)。
分娩場所の変化は費用にも表れている。1968(昭和43)年4月9日の参議院予算委員会で、看護師出身の石本茂議員(自民党・石川県選出)は、分娩には「3万円以上5万円ぐらいの予算」がないと出産できないと訴え、国民健康保険等による入院料整備を要望している。これに対して、園田直厚相は、日本の分娩給付方法がILO条項に合っていないとして、「分べん費の問題は現金支給ではなくて、医療給付の対象になることが妥当」と回答。法改正を検討していることを明かしている。
また、翌1969(昭和44)年3月29日の参院予算委でも、現物給付化の時期を問う萩原幽香子議員(民社党・兵庫県選出)の質問に対して、斎藤昇厚相が「抜本改正の機会に、方向はその方向(筆者注:現物給付化)に打ち出してまいりたい」と答えている。
このように、1970年前後は政府内部でも分娩費用を現物給付化するという機運が高まっていた。だが、この時期は公的医療保険の抜本改正を巡って、厚生省と日本医師会が激しく対立し、1971(昭和46)年7月には日医の武見太郎会長が保険医総辞退を仕掛けている。この前代未聞の出来事は、斎藤厚相と武見会長が「了解事項」を結ぶことで手打ちとなったが、公的医療保険制度の抜本改正は実現せず、1973(昭和48)年の法改正は家族給付を7割に引き上げるなどの修正にとどまった。分娩費用の現物給付化も料金の下落を怖れた産科医団体の強い反対によって実現せず、現金給付を継続することが決定。被保険者、配偶者ともに1件あたり6万円に引き上げることでお茶が濁された。そして、この時期に国会審議で使われた「正常分べんは疾病ではない」という言葉が、その後の分娩給付を運命づけていく。