老害脳
最新の脳科学でわかった「老害」になる人ならない人
加藤俊徳/2024年10月刊
ディスカヴァー携書
1972年に初めて正社員として働き出した医薬業界専門紙は、少し変わった会社で、ことに編集局は自由で刺々しさがまったくなかった。入社10年もすれば、それが普通となって不平不満も感じないわけではなかったが、思い返すとなかなか良い職場だった。
その第1は、お互いを「さん」づけかあだ名で呼びあっていたことだった。局長も各担当キャップである次長も「さん」づけだった。
学生時代にはかなりの職種のアルバイトをしたが、そのすべてが職責や年齢で上下関係を明確にしている職場だった。バイト先の製本会社では班長、主任、係長、課長、部長などが同じ作業着で働いていたにもかかわらず、呼び合うときは苗字に職責をつけるのが普通だった。一度、主任だった人に「さん」づけで呼んでムッとされたが、彼は「バイトだからしょうがねえか」と機嫌を直した。これらの経験を踏まえれば、就職した業界専門紙編集局を「ヘンな会社」だと思ったのは当然の成り行き。
しかし、そんな編集局にもひとりだけベテラン記者がいて、彼だけは「局長〜」と編集局長を呼んだ。彼は政治家の子息で一般紙記者をしていたが、どうも評判が悪く業界専門紙に「流れて」きたらしかった。一般紙記者だったことが自慢で、その時代にあげた手柄(スクープ)を酒席や宴席で何度も繰り返して喋る。皆わかっているので、酒場で彼を見かけると店を変え、宴席で隣に座るのは露骨に嫌がった。ワリを食うのは編集局長と幹事の新人記者。私もそのひとりだったが、話がくどくて長く、辟易した記憶しかない。
彼は今回の読書で登場する「老害脳」の典型的なひとりだ。私の入社時には40歳代後半くらいだったと思うが、印象的にはかなり老成化していた。脳年齢は相当に早いスピードで老化に向かっていたのではないかと思う。行政担当キャップ格だったが役職は与えられないまま、配置転換を受けて失意のうちに退職、まもなく交通事故で亡くなった。しかし今でも彼を先輩と思うのは抵抗がある。彼から学んだものは何もないからだ。