どうしてジョイナーのいうことが伝わりにくいのか。そこにあるのは、「ケア」という本質が責任感や愛という紛れ込みやすいものを、(シスジェンダー男性の)マジョリティが「ケア」だと思いこんでいるからである。とくに「愛」を女性の持つべき生物学的な記号として認識している男たちは、「女性の立ち位置に戻る」ことなど絶対にできない。そこは絶望していい物語だ。人間としての新しい世紀や、生物としての新たな遺伝子的突然変異に期待するしかない、のである。


 岡野は「重要なのは、ケアを担う女性たち、とりわけ母親業の経験から狭義のケア概念が生まれてきた歴史をどう捉えるかである」(第5章 誰も取り残されない社会へ)と述べる。私は「愛」という紛れ込みがしばしば「母性」という言葉に裏腹に使われてきたような印象を持つ。私は医療における差別、フェミニズムの70年代以降の路線の食い違い、社会学や哲学、文化人類学、生物学への踏み込みや混線といったものを、ポピュラーサイエンス的な読書からうかがっている。同時に、ケアを通じて見るフェミニズムに関して、自分の思考が迷路状態で、どこかバラバラになり始めていることも実感している。


 例えば、クレグホーンは『さまよう子宮』で、「医療におけるジェンダーバイアスは、科学的なものでも、生物学的なものでもない。文化的なものであり、社会的なものであり、政治的なものだ」と述べている。


 医療をケアのひとつだとの認定で話を進めるのも不十分であることは自覚しつつも、このクレグホーンの「定義」は、岡野が「第4章 ケアをするのは誰か」で、マーサ・ファインマンの言を借りる形で述べている以下の言葉と重なるように思える。


 女性だけがもっぱらその地位を占めてきた「母性」は、「植民地化されたカテゴリー」であり続けた。つまり、男性によってまず定義され、統制され、そして法的に意味づけられたのだった。


●病院での「指示」という家父長権限


 岡野はこうした「倫理」を語っていくなかで、狭義の倫理でケアが語られていくリスクにも言及している。例えば病院でケアを担うのは「誰か」という問い自体が、すでに社会性を帯び、非常に政治的な意味を持っている。病院でケアを担う、あるいはケアのあり方を問うのは医師、看護師などの医療関連職種者だけではない。たとえば病院の清掃を担う人はケアの当事者ではないと言えるのか、と。