私はその現場におけるヒエラルキーに倫理や道徳観が持ち込まれているように思う。それは医療に限らず、あらゆる労働の現場で存在する雇用のヒエラルキーでもあるが、いわゆる「ケアの現場」ではそれが重視されている。重視することが当然視されている。病院では医師がケアの実際を仕切る家父長であり、看護師は母親で患者に「愛」を求められ、薬剤師は医師の処方の見張り役と調剤実務だけが求められている。
そして、医療というケアの現場は、そのそれぞれの役割を「タスク」として信じ切り、行う業務の階層化を疑いもしないことになっている。病院の清掃を担う人は、ケアを担う誰でもない、ということになっている。
こうした背景が延々と続いてきたことによって、何が進んできたかというと、医療の現場では医師が家父長として政治権限を集中化させ、「指示」という言葉の絶対性を持ち込むことになった。こういう状況はもはや「変革」ですら期待できないレベルにある。
それで医療に何が起きてきたか。実は患者よりも医師の方が上だというヒエラルキーさえ作ることになったのだ。そのために患者の意思は無視されることは当然で、患者の痛みに共感できないことも当然で、性差医療にも関心を持たずにいて無事だった。
●都合のいい「受容」の解釈
『痛み、人間のすべてにつながる』の著者、モンティ・ライマンは、2019年まで医療の世界に広がる「不平等」に対して無関心であったことを吐露している。「それはすぐ鼻先にあったのに、私のレーダーにはまったく引っかかっていなかったのだ。医学の分野では、男性中心の文化的態度がいまだ根強い」。
ライマンは女性が「ヒステリア」を理由に精神病院に入れられたり、子宮を切除されたり、ロボトミー手術をされたりすることはなくなったが、現代でも女性は男性に比して鎮痛剤を処方されることが少なく、鎮静剤や抗うつ薬を処方されることが多いという。そのうえで女性は男性より痛みへの耐性が低く、そのことと痛みが長期化することを再評価して鎮痛薬の処方を増やすべきだと主張している。
また、月経前症候群(PMS)を経験する女性は90%に及ぶのに対し、PMSの研究は進んでおらず、ED研究の5分の1でしかないことを明らかにしている。EDで悩む男性は19%しかいないにもかかわらず。ライマンは性差医療に関してかなり多くのページを割いて語るが、もっとも説得力があるのは2016年の実験研究。手を氷水に入れて痛みの程度を測るが、事前に自分が不当な扱いを受けた経験を思い出すよう求められた人は、痛みをより強く感じたという結果を得た。
ただ、ライマンの主張でもっとも留意すべきは「受容」だ。彼は「不公正で強められる痛み」を和らげるには「受容」を可能にする心理的セラピーがエビデンスを得ているとの報告を添えつつも、「受容」は諦めや譲歩ではないとのスタンスを明確に示している。「受容」は安易な近道ではない。
岡野の著書から脱線してしまった。次回はこれを元に戻し、『ケアの倫理』に関する私の拙い読み方をつづってみたい。(幸)