(3)伊勢貞親……京の商人・貧民の実情を把握していた
骨皮道賢に関係する出来事を順に記します。
1428年、「正長の徳政一揆」勃発。「土一揆」(つち・いっき)とも称される。一揆の目的が徳政(借金棒引き)なので、「徳政一揆」と呼ばれる。一揆勢力は、最初は借金苦の農民、馬借の連合であったが、次第に京の下層民全体、さらには、下級武家・下級公家・下級僧侶も加わった。要するに、実に広範な層を巻き込んでいったのだ。
一揆の初期段階では、高利貸し屋に対する「私徳政」を要求していた。実力行使によって、借金証文を奪うものであった。それが、土倉・酒屋・寺院等の破壊、物資略奪の大暴動・大騒乱へと発展した。
「正長の徳政一揆」以前にも、徳政一揆(土一揆)はあったが、幕府・朝廷・大寺院が危機感を持つ規模ではなかった。「正長の徳政一揆」は、途方もない規模で荒れ狂ったのであった。一揆は最終的には沈静(鎮圧)されたが、事実上、借金棒引きを勝ち取った。
そして、この成功事例によって、以後、頻繁に大規模徳政一揆(=土一揆)が展開されるようになった。
1441年、赤松満祐(みつすけ、1381~1441)が、恐怖政治の6代将軍足利義教(よしのり、在職1429~1441)を、鴨の子見物の宴会で謀殺した。「嘉吉(かきつ)の乱」という。赤松氏は、播磨・備前・美作の三国の大守護である。幕府討伐軍は赤松氏を徹底的に壊滅させた。大量の牢人が発生した。縁故のない者は、流れ流れて、京の南部の貧困地帯に行き着いたことだろう。
1441年は、「嘉吉の乱」だけではなかった。「嘉吉の乱」直後から、「嘉吉の徳政一揆」も勃発した。規模が格段に大きく、数千人が京を占拠して、「私徳政」だけでなく、「幕府に徳政令」を要求した。幕府は、前代未聞の土一揆大規模騒乱のため、徳政令を発布した。その後も、徳政一揆(土一揆)は頻繁に発生し、「私徳政」の要求だけでなく、「幕府に徳政令」を要求した。幕府は、徳政令を乱発した。
1454年、「嘉吉の徳政一揆」を上回る徳政一揆が勃発した。このとき、幕府は、初めて「分一(ぶいち)銭徳政令」なるものを発布した。内容は、幕府に借金の1割を納めれば借金チャラというものである。幕府収入アップの目論見であるが、わざわざ1割を納める人がいるか疑問を持っていて、1割納入者は少ないだろう、と予測していた。ところが、1割納入者が大量に押し寄せた。幕府の事務能力がパンクして、1割納入がないまま、借金棒引きをして、大混乱を招いた。
大失敗であったが、翌年には改正「分一銭徳政令」が発布された。改正を主導したのが伊勢貞親(1417~1473)である。改正「分一銭制度」は、幕府財政にビックリ仰天の貢献をした。これによって、伊勢貞親は8代将軍足利義政(在職1449~1474、生没1436~1490)の信頼を獲得した。
伊勢氏は足利家の内部人材、すなわち使用人の立場である。したがって、いかに伊勢氏が貢献してもそれは足利家の手柄であって、伊勢氏が目立つことはなかった。ところが、守護達の幕政関与が、上手くいかなくなったこともあって、守護ではない、単なる使用人である伊勢貞親が「頼りになる人物」として表舞台に登場したのである。
伊勢貞親は、改正「分一銭制度」の成功を皮切りに、棟別銭(むねべつせん)・段銭(たんせん)・地口銭(じくちせん)などの各種公事銭(くじせん、税金のこと)の課税・徴収方法を改善した。棟別銭は「1棟で何銭」、段銭は「田畑1反で何銭」、地口銭は「都市の家屋の間口によって何銭」という感じである。鎌倉時代から臨時課税として始まったが、室町時代には次第に恒久課税となっていった。
さらに、商人の課税対象を拡大した。それまでは、土倉酒屋という高利貸屋だけが課税対象だったが、全商業に拡大した。
興味深いのは「土倉合銭」(どそうがっせん)である。相次ぐ徳政一揆で土倉は経営ピンチに陥っていた。土倉が貸す金の元は、有力寺院からの融資すなわち「土倉合銭」である。それが、返済できない。伊勢貞親は、土倉なる中小金融業者を保護する必要性を認識していたので、1457年、「土倉合銭」に徳政令を発布したのである。これによって、土倉は一息ついたのである。当然、土倉は伊勢貞親に感謝した。当時の金融事情・商業事情を熟知していたので、こうした金融・税金改革ができた。
伊勢貞親は、金融事情・商業事情だけでなく、当然のこと京の街の実情・治安にも関心を持っていた。この頃の年表を眺めると、「盗賊横行比類なし」「天下飢餓」「疫病流行死者多し」……、そんな単語が続々である。京の治安は最悪状態であるが、治安を所管する侍所はさっぱり機能を発揮できない。守護たちは、自分の国元の安定化に力を注がざるを得ず、京の治安のため自分の配下を回す余裕がなくなっていた。
どうするか。伊勢貞親は、「毒をもって毒を制する」「二束の草鞋」方式を採用した。江戸時代、博徒が目明しを兼ねることが多かった。それと似た方式を実行したのだ。博徒のことは博徒が一番よく知っている。無頼漢は無頼漢をよく知っている。足軽・足軽予備軍のことは、足軽・足軽予備軍の連中が一番よく知っている。
伊勢貞親本人か、その部下か、はっきりしないが、骨皮道賢を侍所の目付(めつけ)に任じた。任じられた時期も不明であるが、骨皮道賢は「足軽大将」として足軽300人を有して、京の治安に当たったのである。
伊藤貞親は、幕府財政、侍所を含め、幕政全般を掌握していったのである。