(4)蓮田兵衛……初の一揆大将


 1459~1461年の「長禄・寛正の飢饉」(ちょうろく・かんしょう・の・ききん)は、中世最悪の飢饉で、まさしく「この世の地獄 この世の餓鬼」「世上三分の二餓死」と記録された。天候不順だけでなく、畠山氏の内紛(応仁の乱の一要因、)、越前での斯波氏・甲斐氏の合戦もあって、京に大量の流民が流れ込み、京の乞食は1459年1月には数万人にのぼった。


 しかし、8代将軍足利義政は民の悲惨な状況よりも「花の御所」の改築に夢中であったため、後花園天皇に諫言される有様であった。その効果もあって、改築中断および時宗の願阿弥(がんあみ、生没?~1486)への喜捨となった。


 ところが、改築は再開され、移転が実行された。時宗の願阿弥は、1459年2月、毎日8000食の粟粥を施したが、焼け石に水だった。1461年の1月と2月だけで餓死者は8万2000人を数えた。鴨川は腐乱死体で埋め尽くされた。恐ろしや、恐ろしや。


 こうなると、何か勃発するのが自然である。


 1462年(寛正3年)9月11日、「寛正3年の土一揆」が勃発した。この一揆は、従来の徳政一揆とは様相を異にしていた。「所々寺社領、其の外富たる人民の家へ乱入、放火して、財宝を奪い取る。大将は蓮田兵衛(はすだ・ひょうえ)という、牢人の地下人なり」とある。要するに、略奪・騒乱が主目的になっていたのだ。「地下人」(ぢげにん)とは、官職を持たない人の意味である。


 そして「一揆大将」なる人物が登場した。これまでの一揆は、1人のリーダーではなく、20~30人程度の連帯責任で実施されていた。「一味神水」(いちみしんすい)という儀式がなされた。連判状を作り、神仏の前でそれを燃やし、その灰を神水に混ぜ、それを呑み回すのである。単なる多数決は、絶対の神意(神慮)となる。そうしたパターンとは、異質の一揆である。


「一揆大将」の下には、多くの牢人・足軽予備軍が加わっていた。むろん、京南部の貧民(庶民)も近郊の荘園の農民も加わっていた。前年の大飢餓は流民・乞食だけでなく、牢人、貧民(庶民)にも及んでいたから当然である。


 土倉酒屋に踏み込んで借用証書を破り、ついでに財物を略奪する、土倉酒屋だけでなく寺社の領地・富者の家へ乱入し財宝を奪い取る、つまり、大規模無差別の略奪である。借金チャラも目的だが、無差別略奪が目的になっていたのだ。この一揆は1回で終わらなかった。


 この一揆の第2回目は、9月21日で、さらに大規模に行われた。守護たちの下級武士らも一揆に加わったのである。単なる火事場泥棒的気分ではなく、下級武士の日頃の不満を大騒乱にぶつけたのかも知れない。財物略奪も魅力であったろう。下級武士は、本能的に一揆に共感していたのだろう。


 重要なことは、一揆鎮圧軍に、赤松、京極、武田の軍は参加しているが、有力守護たる細川、畠山、山名の軍は動いていないのである。赤松氏は、やっとお家再興が許されて幕府に忠誠を示す必要があったのだろう。京極氏は京の治安維持を担当する侍所の所司を務め、京極氏の家臣・多賀出雲、その後任の多賀高忠が所司代であるため、役目上、ほんの若干数を鎮圧軍へ出動させたのだろう。京都武田氏は非力であった。


 そもそも、京都在住の守護は、京の治安には関心が薄い。一揆は年中行事で放置していても1日で静かになると思っている。それに治安回復に貢献しても直接、自分に利益がないどころか、負担が大きいだけなのだ。第2回目の一揆は、第1回目よりも、はるかに大規模であり、一揆軍の勝利に終わった。


 一揆参加者のなかには略奪品に満足して、一揆軍から離れる者もいた。通常の一揆ならば、それで終了であるが、一揆大将・蓮田兵衛は京の北東の「糺(ただす)の森」に陣を置いた。第3回目に向かって、準備したのだ。


「糺の森」は、京の北東部で、室町幕府の「花の御所」の東が、相国寺(足利義満が建立した七重塔がある)で、その東が賀茂川で、それを超えると、「糺の森」である。鴨川は、この地で「Y」の字に分かれ、左が賀茂川、右が高野川に別れていて、「糺の森」は賀茂川と高野川に挟まれ、北は道なき森林である。つまり、天然の要塞である。しかも、「花の御所」の目と鼻の至近距離である。蓮田兵衛は、兵法に通じているのだ。蓮田兵衛は、「花の御所」を襲撃する意図があったのかも知れない。


 伊勢貞親は、どう動いたのか。第1回目一揆は、突然のことであったが、第2回目は、当然、守護へ鎮圧軍を要請した。しかし、前述のように、細川・畠山・山名は動かなかった。伊勢貞親には守護を強制的に動かす力がなかった。それに、守護傘下の京在住の下級武士が当てにならないことも見抜いていた。そこで、土倉、酒屋、油屋、問丸(材木商)など商家の用心棒、特定寺院の僧兵、足軽大将・骨皮道賢が率いる足軽部隊300人を、鎮圧軍として編成したのである。むろん、それプラス赤松・京極・武田の若干数の武士たちである。


 伊勢貞親、多賀出雲、直接的には多賀高忠であるが、彼等は、在京の守護の配下が役立たずということを、しっかり承知していたのだ。


 しかし、第2回目一揆では、混成鎮圧軍は奮闘したが、敗れた。


 第3回目一揆が勃発すれば、このままでは幕府側は負ける。そこで、伊勢貞親は細川・畠山・山名に、改めて、鎮圧軍派遣を要請した。彼等も、2回目一揆の惨状と、「糺の森」が一揆軍の拠点になったことで、危機感を持ったのだろう。本気になって、国元から至急、兵士を呼び寄せた。


 こうして、10月21日から、第3回目一揆が勃発した。最初の1~2日間は、一揆軍が優勢であったが、さすがに、新幕府軍は強かった。一揆軍は、「糺の森」から逃げのび、東寺で籠城した。そこも陥落して、11月2日、蓮田兵衛は淀で敗死した。その首は三条河原で晒された。


 蓮田兵衛が何者なのかさっぱり不明だが、とんでもない切れ者であったことは間違いない。前述した七福神強盗団と絡ませればメチャ面白いお話ができるかも……。


(5)骨皮道賢……足軽大将として大活躍


 1462年(寛正3年)の「寛正3年の土一揆」のその後は、どうなったか。


 むろん、毎年、徳政一揆(土一揆)は発生している。


 伊勢貞親は、権力の実質的中枢に上ったが、よくあるパターンで、権力者になると傲慢な権力行使になってしまった。そして、失脚した(文正の政変、1466年)。


 余談ですが、北条早雲(伊勢新九郎、生没1432~1519)は伊勢貞親の孫で、伊勢氏支流の備中伊勢氏の出身である。


 そして、応仁の乱が勃発した。


 応仁の乱では、骨皮道賢の足軽部隊300人は、東軍(細川勝元)で、大活躍した。拠点は、京南部の稲荷山の稲荷神社である。京南部は貧困(庶民)街で、いわば骨皮道賢の縄張りである。


 骨皮道賢は、西軍(山名宗全)の後方に回って補給路を遮断した。要するに、西軍の補給物資を略奪することであった。兵士と兵士が正面からぶつかり合って殺し合うなんてことは、不得意なのだ。足軽にとって、略奪は専門家業みたいなものであるから、滅茶苦茶に成果があがった。西軍は困ってしまった。


 そして、1468年3月、西軍の山名、斯波、朝倉、畠山、大内らの大軍3万が、骨皮が拠点としている稲葉山を包囲した。300対3万である。西軍の攻撃が開始された。勝ち目はない。足軽にとって、負けるとわかれば逃げるのは当然で、恥ではない。女装して逃げたが、見破られて敗死した。首は三条河原に晒された。


 昨日まで 稲荷廻(いなり・まわり)し 道賢を 今日は骨皮(ほねかわ)と 成すぞかはゆき


 京の落首である。「稲荷廻し」は「いばりまわりし」であり、「かはゆき」は「かわいそう」である。威張っていたが、かわいそうだな~。乱暴・略奪の足軽大将を、正確に評価していると思う。


 修羅の時代、ゼロから荒くれ男を300人も組織していた能力とは、まったくもってすごい。あれこれ空想して、おもしろい物語がつくれそうだ。

 

 足軽部隊は西軍にもあった。当時、京には「湯屋」(銭湯)が生まれた。そこには、東軍の足軽も西軍の足軽も、敵味方関係なく裸の付き合いをしていた。足軽の多くは、京南部の貧困(庶民)街の出身である。顔なじみも多くいたであろう。たまたま、金で雇われ東西に別れたに過ぎない。顔なじみ同士で殺し合いなんかよりも、略奪のほうがよほど、やりやすいのである。


 興味深いのは、応仁の乱の期間、土一揆の発生件数はとても少なくなっている。どうやら、土一揆の略奪主役は牢人・足軽予備軍であって、応仁の乱の期間は彼らは東西の足軽になって乱の下で略奪に励んでいたというわけだ。


 なお、足軽で名前のあがっている者は、私が知っているのは、他には3人だけである。


 壇二郎左衛門は京商人の次男で荘園の名主の一人娘の婿となったが、細川持元の中間となり、足軽になった。


 馬切衛門太郎はすごい暴れん防で名をあげた。


 御厨子某(みずし・ぼう)は西軍の足軽大将である。御厨子とは仏壇である。足軽大将は、「骨皮」とか「御厨子」とか、目立つスゴイ名前をつけるものらしい。


 蛇足ながら、関東では、応仁の乱以前から、享徳の乱(1455~1483)が始まっていた。そこで活躍したのが、太田道灌(1432~1486)で、彼は「足軽軍法」を編み出した。おそらく、足軽を農民に変装させて伏兵にした、と推測します。関東でも京でも、足軽の活用法が極めて重要になってきたのである。


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太田哲二(おおたてつじ

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を10期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。『「世帯分離」で家計を守る』(中央経済社)、『住民税非課税制度活用術』(緑風出版)など著書多数。最新刊『やっとわかった!「年金+給与」の賢いもらい方』(中央経済社)が好評発売中。