人道的医療安楽死
賛成派ドイツ人医師の論考と実践
ミハエル・デ・リダー
志摩洋訳
2025年1月刊/幻冬舎
前回に続いて選択した読書は「安楽死」がテーマ。前回の最後に、日本では緩和ケアの制度要件すら放置されたままで、緩和ケアと安楽死の関係(あるのかないのかも含めて)に関する議論が活発化していないと述べた。疼痛管理は研究されているが、疼痛患者支援には無関心だとも。
ところが一足飛びに安楽死(容認?)めがけて海外の推進論者の体験に基づいた話題や法、倫理、モラル、哲学まで含めた議論の旺盛な図書出版に、警戒心の強い私はついていけてない。
前回読んだのはカナダの「医療介助死」制度。そこでは、すでに豊富な介助死経験を持つ高齢医師の体験から生まれた苦悩と実践の報告をベースに、制度化によって多くの人々が救われたとの一定の結論が導かれていた。今回の読書は、ドイツ人医師、それもドイツ国内では医師が関与する「安楽死」の積極的な法改正を主張し続け、現在のところ、一定の成果を得た人の主張を読んでみた。
むろん著者のデ・リダー医師は、相応の準備と極めて慎重な意思確認を基本に、何件かの自死幇助も実践しており、ドイツ国内ではやや急進的と見なされる側面はあるものの、推進派として名を知られた人。20年2月のドイツ刑法の改正で「自死支援」の禁止を無効とした判例を勝ち取ったリーダーのひとりでもある。同書ではこの判決の意義とそこまでの道のりも、何度も繰り返すように語られている。
とはいえ、今回の読書を通じてもドイツ国内で「人道的医療安楽死」が全体的な合意に達しているのかといえば、どうやらそうでもないような空気を同書からも感じる。とくに医師の世界での合意が難しいようだ。医師会の姿勢も地域によって違っているし、すでに何の反対もなく安楽死が進められ、海外からも受け入れている隣国スイスがあるのに、その姿勢は際立って違う。積極論・消極論とも華々しい意見交換がみられず、重たい空気が澱むのを今回の読書からは感じた。ドイツが過去に持つ歴史の残滓に絡みつくものを想像せざるを得ない。
著者はドイツ国内での医師会の分裂した対応に、「一般市民は存在しない医師会のコンセンサスが、あたかもあるかのように信じ込まされていた」と怒り、19年まで君臨したドイツ医療界のボス的存在に厳しい批判を繰り返している。
そのため、この本が今後の日本の安楽死(消極的、積極的含めて)議論のテキストになるかどうかは微妙なところだ。例えば、著者は自死幇助の反対論について、8項目のポイントを整理、批判するが、日本では宗教観の相違などは大きなファクターとは思えない。「雪崩現象(を招く)」という議論は、日本では「すべり坂」論で集約されている。「将来的には普通の選択肢となってしまう」危惧も、すべり坂そのもの。「自死幇助は嘱託殺人の容認につながる」というのも、論理的には考えにくい。
日本の一般市民の立場からみると、「自死を求めることの信憑性に対する疑い」「緩和医療があれば医師幇助は不必要」の2点は、議論を尽くすテーマのように思える。「信憑性」に関しては、求める患者の身体的・精神的苦痛の「不可逆性」や「耐えられなさ」の慎重な評価が不可欠になるだろうし、その評価手法の確立もたぶん困難を極める。また、緩和医療も、それが心身状況に関する一定の評価手法の確立を前提に、患者の立場に立ったガイドラインがつくられることで、それでも「自死幇助」は必要になるのだろうか、と個人的には感じる。むろん、事前指示、リヴィングウィルの存在や、患者以外の周縁関係者との合意、安静・鎮静の程度との比較など難しい課題が山積するのも理解はできる。
その2点の包括的な解決、多数合意がないと、著者が指摘する次の2点、「医師への信頼喪失」「医療倫理観との不調和」は結局新たな社会的問題として暗礁化する。