断食死は自死かどうか
英語訳とドイツ語訳の単なる違いかもしれないが、カナダのいわゆる安楽死は、「医療介助死」(MAiD)とされ、こちらは制度化されている。一方、今回の読書での著者は「自死幇助」という言葉を使っている。読後感ではあまり違いは意識できなかった。制度化されているためか、カナダのほうがかなりスムーズな手続きと方法論が確立されている印象だが、ドイツの場合は積極派である著者にしても、患者との意思疎通にかなり万全な準備と対応をしている印象があった。是非は別にして、カナダではすでに医療のひとつの世界という認識が醸成されている印象だ。このことからも、社会的コンセンサスは重要なファクターであり、議論を尽くすまでの道のりは長いことがわかる。
一方、今回の読書では気になる著者の主張もあった。例えば著者は15年に、ある患者の自死幇助をしているが、医師会がこの行為に干渉する(実際に干渉があったかどうかは同書では判然としない)ことの是非を論じ、「安楽死を職業的に禁止することは、(中略)憲法で保障されている自らの人生設計とそれを実行する自由を侵害するものにほかならない。自分の死期をかたち作ることは、患者さんと医師の関係という濃密な空間にのみ属する」と述べている。当該患者と医師が濃厚に意思疎通することを正当化する主張であることは理解できても、医師の裁量に対する過剰な自意識を感じてしまう。
著者は患者の「自己決定権の重視」を何度も論じている。モラルとしてその尊重を認めないわけではないが、医師が関与する必然がこの読書でも私にはよくわからなかった。患者が、医療的支援がなくて自死することの技術的な難しさはわかるが、個々のケースで医師が患者の自己決定権に踏み込むことの是非はもう少し丁寧な議論があっていいはずだと思える。促されたり、踏みとどまらせたりするのは「患者と医師の濃密な空間」であれば許されるのだろうか。
カナダの医療介助死でも語られていた緩和ケアと安楽死の対立は、ドイツでもあることは前述したが、この読書で興味をひいたのは、緩和ケアとの脈絡で、「断食」という自死のあり方が語られていたことだ。著者のスタンスは「肯定」に向いている印象があったが、飲食を断つ末期患者が少なくないことを知った。
私の父は86歳で老衰のような形で死んだが、亡くなる2週間ほど前から、まったく何も口にしなかった。入所していた施設の医師や看護師から呼び出され、「ご家族が勧めれば食べるかもしれない」と食事介助を求められたが、子の私の介助も拒否した。施設側は、私たち家族に栄養点滴、胃ろう術を提案したが、父の生きる意欲は小さいように思え、「何もしない」ことを私たちは選択した。まさに父の自己決定権の行使を尊重した。
緩和ケアの取材は何度かしたが、この断食に関しては何も聞いたことはなかった。デ・リダー医師は、断食は「自死ではなく、普通の死だ」と述べた上で、食べたくない患者にリベラルな立場で飲食を求めるのは非倫理的だと語る。そのうえで、緩和医療医が断食に寛容で、自死幇助に不寛容な態度に首を傾げている。
日本国内では医療介助死も自死幇助も、本格的な論議はまだだが、現実には起こっているはずの「断食死」に議論の開始ゴングを鳴らしてもいいのではないだろうか。それにしても、安楽死がテーマの読書は胃にこたえます。