救命ドクトリンと上官命令制度
戦前の日本は「上官命令絶対服従制度」であり、「部下は、命令に服従して為したる行為については、責任なし」であったが、現在は国際的に受令者には常に責任があるという考え方だ。
第二次世界大戦後の連合国による戦犯裁判では「受令者責任あり」規範が導入され、国際刑事裁判所ローマ規程第33条(※1)にて定式化された。日本は国際刑事裁判所制度に参加しており「受令者責任あり」の規範の拘束下である。
現在の上官命令制度は、受令者が、不正な命令であることを知らなかった、または不明確な内容の命令であった場合にのみ、その命令によって生じた結果について免責される相対的服従制度であり、「受令者責任なし」ではない。
自衛隊では自衛隊法第57条により「命令に服従する義務」を定めている。命令と服従の関係は次のとおりだ。
「職務命令が効力を生ずるためには、その内容が不能ではなく、かつ適法でなければならない。不能を内容とする職務命令は、無効である。そのような命令に対しては、服従の義務を生じない」(※2)
これに基づいて「陸自救命ドクトリン」について考察してみると、まず、抽象的過ぎて目安にすらならない。ウクライナでの戦闘で戦い方が大きく変化したこれからの戦場において、10分以内に応急処置を受けさせ、1時間以内に後送というのは、とてもできるものではないため「不能」である。全般作戦計画の本文を起案する、被衛生支援部隊である戦闘職種の幹部には「陸自救命ドクトリンに従う義務はない」というのが現場の判断である。「10分1時間」というのは、平時の救急医療の時間尺度を形だけ導入した理念を、短切に表したスローガンであってドクトリンとはとても言えない。
現在の上官命令とは相対的服従制にとどまるため、米軍・NATO(北大西洋条約機構)軍の後送基準を導入しても、それに従い傷病者を治療・後送した者が完全に免責されることはない。また、人の生死はその基準のとおりにならないものであるから、医学的見地からも相対的な「目安」となる。
しかしながら、同時多発する傷病者数が、治療能力に対し圧倒的に多く、危険な環境で混乱が生じている状況で、最大多数の最大救命を達成するためには洗練された基準が必須であり、それに従って生じた結果についての個人の責任は大いに考慮されるものだ。これは現場の心理的負担を大いに軽減し、任務に邁進させることになる。
現在の自衛隊は国土防衛のみが任務ではない。インド洋に至るまでの地域の安定を担っており、どちらも共同作戦が常態となるだろう。同盟国が8ヵ国にも増えた今、自衛隊のみの基準を主張して調整するのではなく、NATO基準を導入して、それが実施できるように努めるべきで、情勢柄も時間の余裕はないはずである。米国以外の7ヵ国は「物品役務相互提供協定」(ACSA=Acquisition and Cross-Servicing Agreement)を締結していることから治療・後送に関する基準はなおさらNATOで揃えるべきだ。
※1「上官の命令及び法律の規定」
1 裁判所の管轄権の範囲内にある犯罪が政府または上官(軍人であるか文民であるかを問わない。)の命令に従ってある者によって行われたという事実は、次のすべての条件が満たされない限り、当事者の刑事責任を阻却するものではない。(内:筆者補足説明)
(a) 当該者が政府又は当該上官の命令に従う法的義務を負っていたこと。(命令に従う義務)
(b) その命令が違法であることを当該者が知らなかったこと。
(c) その命令が明白に違法ではなかったこと。(不明確な内容)
2 この条の規定の運用上、集団殺害犯罪又は人道に対する犯罪を実行するよう命令することは、明白に違法である。(不正な命令は命令に非ず)
※2 防衛大学校教授 安田覚
「防衛法概論」オリエント書房、1979年、P137〜152