(3)『古事記』の「⑤国譲り」
大国主は少彦名と協力して「豊葦原の瑞穂の国」(とよあしはら・の・みずほ・の・くに)なる「国づくり」をした。そこへ、高天原(たかまがはら)の天照大神は、「我が子・忍穂耳(おしほみみ)が治めるべきだ」と言い出した。
第1次工作は、天菩比(あめ・の・ほひ)を派遣した。しかし、高天原では、「下界は騒がしい」と言われていたが、実際に、大国主の所へ行くと、すばらしい国であった。高天原よりも住み心地がいいので、下界に居ついてしまった。
第2次工作は、天若日子(あめ・の・わかひこ)を派遣した。やはり、「♬食べ物は美味いし、姉ちゃんはきれいだ~♫」ということで、天若日子と下界の美姫の恋物語となりました。
第3次工作は、建御雷之男(たけみかづちのを)神を派遣した。武力を誇示して大国主と談判します。談判の内容・経過は省略して、結論は、「葦原中国をすべてお譲りします。ただし、天高くそびえる宮殿を建設してください。私は、遠く離れた所に隠退します」ということになりました。
ということで、「⑤国譲り」はおしまい。
(4)「顕露の事」と「幽の事」
『古事記』の大国主のお話は、とても楽しいので、にこにこ読んでいればいいのです。しかし、最後の「遠く離れた所に隠退します」の、「そこは、どこだ?」が江戸時代後半、国学者の間で重大問題となりました。
学者達が、『日本書紀』を1字1字、丹念に読んでいると、超重要なテーマが登場したのです。
『日本書紀』神話部分は「本文」と「一書」に別れています。「一書」とは「別の書」の意味です。「本文」があって、その後に、本文の補足、あるいは本文とは異なる内容が「一書では」(別の書では)と書き加えてある。しかも、「一書」(別の書」は、ひとつだけでなく、いくつもある。したがって、「本文」だけを通して読めば、ひとつの物語になるが、「一書」を合わせ読むと、頭が錯乱してしまう。
『日本書紀』神話部分の「本文」は、『古事記』に比べて、ものすごく簡潔に書かれてあるが、基本的ストーリーは同じである。大国主の部分も、そうです。
そして、重大問題となったのは、『日本書紀』(国譲りの個所)の「一書の第二」の次の部分です。
於是、大己貴神報曰「天神勅教、慇懃如此。敢不從命乎。吾所治顯露事者、皇孫當治。吾將退治幽事」
(現代語訳)大国主は答えました。「天神の申し出は、このうえなく懇切丁寧です。命令に従わないわけにはいけません。私が治めている『顕露の事』は、皇孫が治めるべきでしょう。私は退いて『幽の事』を治めましょう。」
「顕露の事」は「あらはのこと」、「幽の事」は「かくれたること」と読むようです。どんな意味か? だいたいのイメージは、次のようなものです。
顕露の事……この世、現世、此岸
幽の事……あの世、常世、彼岸、死後の世界、天国、地獄・極楽、魂の世界、霊の世界
「幽の事」のイメージは、人によって十人十色です。そして、「あの世」「霊の存在」を信じる者は、「幽の事」のほうが「顕露の事」よりも、圧倒的に重要と思っています。江戸時代、明治時代の人々は、「あの世」「霊の存在」を信じていた。人は「この世」では、せいぜい100年前後ですが、「あの世」へ行った霊は永遠です。つまり、「幽の事」のほうが、絶対的に価値が高いのです。
ということは、「顕露の事」を治める天孫よりも、「幽の事」を治める大国主のほうが、絶対的に偉いとなります。
(5)国学者
国学者は「顕露の事」と「幽の事」を真剣に考えた。
➀本居宣長
まず、本居宣長(1730~1801)である。当時、『古事記』は、正史の『日本書紀』の副読本であって、重要視されていなかった。本居宣長が、長年の研究成果である『古事記伝』を1797年に発表するや、『古事記』が衝撃的に注目された。『日本書紀』は漢意(からごころ)に染まっているが、『古事記』は染まっておらず日本の真の古典としたのである。
そうなると、『古事記』を読んだ者は、必然的に「大国主は、とても立派な人物」と思う。『古事記伝』にも、『日本書紀』の「一書の第二」を引用して、「顕露の事」と「幽の事」を注目させている。本居宣長の他の文献では、「幽の事」が、この世のこともすべて取り仕切っているから、大国主を絶対的に敬わねばならない、としている。
②平田篤胤
多くの国学者の中でも、平田篤胤(あつたね、1776~1843)の影響力は絶大だった。平田篤胤が、本居宣長の著作に出会って国学に没頭したのは、本居宣長の死後2年を経てからである。そのため、「宣長没後の門人」と自称した。
平田篤胤は超人的な勉学の才能があり、西洋医学・地理学・天文学、コペルニクスの地動説、ニュートンの万有引力、宇宙論から分子論、インド学・中国学、ロシア語まで、あらゆる学問を学んだ。そして、特筆すべきは、幽界の研究だった。幽界なる形而上学は、現代人なら物質的証拠があるわけがないので、「なんとでも言える」と思うのが普通であろう。しかし、当時の人々は、「幽界は絶対にある」と信じていたから、あらゆる文献・学問、他人の証言、自己の体験・直観を総動員して説明を試みる。
平田篤胤の思想は、理解困難であるが、私なりに解釈すると、次のようになる。スサノウは天照大神よりも上である、大国主が幽界の主催者である、天地を造った造化三神と大国主は同一の地位にある、出雲は伊勢よりも上である、偉大なる大国主が「顕露の事」を天孫に譲ったのだから、天皇の治世は正当である。
平田篤胤は水戸藩などの後援を得るためジタバタしたが成功しなかった。それでも、逝去の時の門人は500人以上、「篤胤没後の門人」は4000~5000人といわれ、各地の商人・豪農などに普及した。
島崎藤村の小説『夜明け前』の主人公は平田派で、平田派の「夢破れて」の物語です。
③後期水戸学……藤田幽谷・藤田東湖
むろん、国学の内容は学者によって、かなり相違する。平田篤胤が流行りつつあった時期、「後期水戸学」が力を持つようになった。藤田幽谷(1774~1826)、その子・藤田東湖(1806~1855)が中心である。「天照大神から天孫ニニギへの三種の神器の伝授」が最重要であるとした。そして、「顕露の事」「幽の事」は無視である。そして、バックは水戸藩だから、威力は絶大であった。後期水戸学は尊王攘夷運動に浸透した。
④大国隆正
大国隆正(たかまさ、1793~1871)は、石見国津和野藩(島根県西部)出身で、平田篤胤の弟子であるが、独自の国学を唱えた。大国隆正は、「顕露の事」と「幽の事」を区別する、そして、大国主の普及に努めた。ただし、あれこれの論理の末、天照大神を絶対神とした。そのため、後期水戸学とは緊密だった。
要するに、大国隆正は、最初は平田篤胤の弟子(平田派)であったが、独自の「津和野派」を形成したのであった。
⑤「造化三神派」……佐藤信淵
『記紀』を読めば、読者は誰しも「一番最初に現れた神が一番偉い」と思うのではなかろうか。国学者のなかにも、イザナギ・イザナミ以前、『記紀』の最初に登場する「造化三神」が超重要とする者が登場するのは当然のことであろう。そうした国学者達を、私は便宜上「造化三神派」と名づけた。佐藤信淵(のぶひろ、1769~1850)らである。佐藤信淵への評価は、「あらゆる分野で先進的」、そして「大東亜共栄圏の父」から「ペテン師・詐欺師」まで様々である。戦前では、小学校読本にもなって、有名人だった。
国学者は他にも多数いるが省略する。そもそも、「幽の事」や「天国」は、誰も行って帰ってきたことがないので、「この文献には、こう書いてある」「某氏の話では、かくかくしかじか」「私は、あのとき、不思議な体験をした」ということを織り交ぜて、個々の独自の論が生まれるものだ。
なお、錯覚する人がいるので、一言。国学者は、「天照大神―天皇」を否定するものではありません。「『天照大神-天皇』よりも偉い存在(大国主、造化三神、スサノウ、その他)がある」と論じる国学者が多かった、ということです。
(6)王政復古の大号令
1867年(慶応3年)10月、徳川慶喜は討幕派の機先を制して、「大政奉還」の上表を提出した。しかし、薩長の討幕派は12月9日に政変を決行。「王政復古の大号令」で新政府を樹立したのだった。新政府は、「祭政(さいせい)一致」を大原則とした。そのため神祇官が設けられた。古代律令では、「二官八省」体制であった。神祇官と太政官の二官、太政官の下の八省があり、神祇官は朝廷の祭祀を司り、諸国の神社・神職を一元的に統括した。神社の家元的存在であった吉田家・白川家は用済みとなった。神仏分離が推進された。「祭政一致」と仏教・キリスト教の動き、ゴチャゴチャするので説明を省略します。
神道が政治権力を得た。となると、「どの神道が?」「どの神様が一番偉いか?」が重要だ。政治権力から遠いのであれば、「一番偉い神様は、学者によって異なります」ですむが、現実の権力と結合するとなると、そうは、いかない。「神争い」が発生するものだ。
明治の神祇官(→神祇省)から「平田派」は追い出され、「津和野派」が牛耳ることになった。「津和野派」は天照大神が絶対神であり、それを祖先とする天皇は現人神とする。「津和野派」は神道国教化を具体化しようとした。しかし、「神争い」のなか、簡単なことではなく、混乱・混沌となる。1872年(明治5年)陰暦3月、神祇省が廃止され、教部省となると、「津和野派」は締め出され、「造化三神派」である「薩摩派」が主流となった。「薩摩派」は、天照大神よりも造化三神を重んじていた。
「平田派」(大国主)、「津和野派」(天照大神)、「薩摩派」(造化三神)の神争いのなか、教部省に千家尊福が1872年(明治5年)陰暦6月、教部省の神道西部管長に任命された。
教部省について、若干述べておきます。王政復古から宗教行政は混乱していた。それを立て直すため教部省が設置され、そこに半官半民の大教院なる機関を設けた。国民に神道を基礎とする三条教憲(敬神愛国・天理人道・皇上奉載)を普及させ、宗教混乱を終息させる目的である。しかし、大教院は神職と僧侶の異質な者の混在であり、それに加えて、三条教憲は難解であった。それで、大混乱となり、1875年(明治8年)5月に大教院は解散、1877年(明治10年)1月に教部省は廃止となった。
(7)祭神論争
千家尊福は、1872(明治5年)年11月に第80代出雲国造となった。
出雲国造について、若干の説明をします。
国造(くに・の・みやつこ、こくぞう、こくそう)は、古代の地方官職で、その地方の最有力豪族が任じられた。出雲国造の称号は現代でも使用されているが、他の地域は自然消滅した。
『古事記』の「⑤国譲り」の第1次工作で、高天原から葦原中国に派遣されたのが「天菩比」(あめ・の・ほひ)である。『日本書紀』では、「天穂比」の文字である。第3次工作で国譲りが成功すると、「天穂比」(=天菩比)は、大国主に仕えることになった。そして、「天穂比」(=天菩比)が、初代・出雲国造となった。
出雲国造家は、出雲大社の祭祀を司った。出雲国造家は単一であったが、14世紀に、千家氏と北島氏に分裂したが、祭祀は平等に分担した。
第80代出雲国造の千家尊福の家系は、天皇家の家系と同じくらい古いのである。
出雲国造千家尊福は出雲大社の宮司である。「宮司」の単語の響きは、なにやら軽い感じがするが、千家尊福は「生き神様」であった。
出雲大社は、西日本に出雲講、甲子講(きのえ・こう)が広範に存在していた。
出雲講は、その名のとおりである。
甲子講は、ネズミが大国主を救った神話から、子(ね)の日が縁起がいいとされ、大黒様=大国主を祀った。神話とは、スサノウが大国主に課した試練のひとつが、野原の大国主を火攻めで殺そうとしたが、ネズミが穴を教えて窮地を脱した。ネズミは大国主のお使い動物になりました。その神話と、室町時代から大流行した七福神の「大黒様」と「大国主」の音読みが「ダイコク」なので、大国主=大黒様となり全国的に大流行した。天照大神はインテリが知っているだけだが、「ダイコク様」は誰でも知っていました。
講以外にも、いろいろなシステムがあり、出雲大社信仰を支えていました。
千家尊福宮司は時々、人々に姿をみせた。宮司は土を踏むことはダメで、ワラを敷いて、その上を歩いた。そのワラは、神聖なるモノとして人々が持ち帰った。風呂に入れば、そのお湯は一滴残らず人々が持ち帰った。要するに、「生き神様」なのである。
比較すると、江戸時代の天皇は、内裏の外に出ることはできず、いわば軟禁状態であった。だから、限られた人数しか天皇の姿を見たことがない。それでは、人々の愛着が発生するわけがない。幕末・明治初期の西日本にあっては、千家尊福のほうが明治天皇よりも、知名度・人気は格段に高かったと推測する。
千家尊福の一般的人気はともかくとして、1872年(明治5年)に、教部省の神道西部管長に出雲大社の宮司・千家尊福が任命されると同時に、東部管長に伊勢神宮の祭主・近衛忠房(1838~1873)が任命された。東西2部制で、全国の神社は、どちらに属してもOKという信仰の自由があった。当然、「出雲派」と「伊勢派」は競争する。
千家尊福は、西部管長に任命されると、すかさず、「顕露の事」「幽の事」の理論をベースに「出雲大社が全神社を統括する」と請願した。これが、神道界の空前の大論争「祭神論争」の出発点である。しかし、このときの教部省は、造化三神を重視する「薩摩派」が主流であったので、千家尊福の請願はすぐにボツとなった。
千家尊福は行動力もあった。1873年(明治6年)に入ると、従来の出雲講を基盤に「出雲大社敬神講」(後に出雲大社教会)を結成して、「幽の事」主宰者は大国主であることの布教を始めた。出雲国以外の中国・四国を回った。行く先々で「生き神様」は熱烈な歓迎を受けた。巡教は、毎年継続された。
そして、国学者・神職の元「平田派」が、次第に「出雲派」として再編成されていった。
そもそも、「顕露の事」「幽の事」をベースにすれば、「津和野派」の理論は無理があった。そして、「薩摩派」も、どうも理論的リーダーに欠けていたようだ。それに加えて、1873年10月に、征韓論論争の末、西郷隆盛らが下野した。自動的に、「薩摩派」は弱体化した。そして、開明的な木戸孝允(1833~1877)や伊藤博文(1841~1909)は、神道一辺倒に疑問を有していた。あれやこれやで、「津和野派」と「薩摩派」は、なんとなく「伊勢派」を形成していく。
「伊勢派」とは、伊勢神宮がトップ神社、天照大神がトップ神である。「出雲派」は、出雲大社がトップ神社、大国主がトップ神である。
1875年(明治8年)5月に大教院は解散、その後継機関が「神道事務局」で、すべての神道団体を結集させた。この「神道事務局」の場においても、千家尊福は大国主優位を主張した。「伊勢派」は反論するのだが、「出雲派」の論理的優位は動かなかった。「神道事務局」は「伊勢派」の牙城であるが、事務局からも「出雲派」が出てくる有様となった。全国の神職も動揺が大きくなっている。神職だけの世論調査でも行えば、「出雲派」の圧勝の雰囲気になった。
神職は、霊の存在を信じている。すなわち、「顕露の事」「幽の事」の区分、及び「幽の事」の優位は自明のことである。そして、『古事記』『日本書紀』は、神職にとって、最重要文献である。そうなると、「大国主が『幽の事』主宰者で、それは、天照大神よりも上」ということになってしまう。
「祭神論争」なので『古事記』を読み直した神職も多かったろう。読めば、「大国主は、なんて素晴らしい」となる。それに比べて、「天照大神は、なんとも情けない。イヤイヤして岩戸に引き籠ってしまう。簡単に騙されて、岩戸から引き出される。国譲りでも、采配したのは天照大神ではなく高木神ではないか。どうも天照大神はパッとしないな」となる。言葉・文章にせずとも、そんな思いの神職が多かったのではなかろうか。なお、高木神は、造化三神の1柱である高御産日(たかみむすひ)神のことである。
この段階は、いわば「信教の自由」があって、いわば言論戦であった。しかし、1880年(明治13年)、「神道事務局」の祭神を具体的にどうするか、について言論戦が激化した。伊勢派は「造化三神+天照大神」を主張し、出雲派は「造化三神+天照大神+大国主」を主張した。そして、「出雲派」の優勢が濃厚になっていった。そのため、「伊勢派」は、正々堂々の言論戦ではなく、奥の手を使うことにした。「伊勢派」は政治権力に近いので、その利用を画策した。
1881年(明治14年)1月、全国の主な神職が内務省勅令で東京に集められ、「神道大会議」が開催された。議論したがまとまらない。その最後(2月23日)に、太政大臣・三条実美(1837~1891)が、明治天皇の勅裁を公表した。
宮中に祀られる神霊は、「天神地祇」、「賢所」、「歴代皇霊」である。
これでは、なんだかわからないので、若干説明します。
「天神地祇」とは、天つ神(高天原のすべての神々)、国つ神(葦原中国に現れたすべての神々)である。つまり、八百万神(やおよろず・の・かみ)である。
「賢所」(かしこどころ)には、天照大神の霊代(たましろ)である神鏡が安置されている。
「歴代皇霊」とは、歴代天皇の御霊である。
あれあれ!「顕露の事」「幽の事」については何も言っていないではないか。宮中で祀られている神霊を公表しただけではないか。
しかし、重大なのは「賢所」である。「賢所」≒神鏡≒天照大神≒伊勢神宮ということなので、天照大神は八百万神の頂点、伊勢神宮はすべての神社の頂点、それを明治天皇の勅裁という逆らえない形式で公表したのである。つまり、大国主≒出雲大社は、八百万神の単なる1柱になってしまった。しかも、「明治天皇の勅裁」であるから、「信教の自由による言論戦」は封じられたのである。
乱暴に説明すれば、「顕露の事」「幽の事」の議論なんて、どうでもいい。天皇は「賢所」=天照大神を祭神にしている。だから、天照大神が一番偉いのだ。問答無用!というわけだ。
千家尊福も黙らざるを得なかった。そして、「幽の事」は「顕露の事」に従属する、とまで言うようになった。千家尊福の内心は不明だが、現世の政治権力に敗北したのである。