(8)国家神道へ


 最初に一言。「国家神道」なる用語は、終戦直後、GHQが出した「神道指令」で、初めて公式に使用された用語である。それゆえ、「国家神道」の定義をめぐっては、各種の学説がある。そもそも、「宗教」なる定義でも、各種の学説があるわけで、「国家神道」の定義を追求すると、「底なし沼」にはまってしまう。まぁしかし、戦前の神道を解説するうえで、「国家神道」の用語は、便利なので、よく使用されています。


「祭神論争」の決着は、国家神道への道であった。神道は、「超宗教の公的神社神道」(天皇直結の国家神道)と「宗教としての神道」(教派神道)に別れることになる。


 国家神道は宗教ではない。非宗教・超宗教であり、「宗教の上」に位置する。


 国家神道の神官は、国家神道は非宗教・超宗教なので布教活動をしてはいけない(代わって、学校が教育活動をする)。神官は神に向かって祭祀をして、掃除だけをする。


 国家神道の神官は、説教・説法をしない(それをすると、神争いとなる)。そもそも、仏教・儒教に比べて、神道は説教・説法が希薄であった。


 そして、1889年(明治22年)2月11日公布、1890年(明治23年)11月29日施行の「大日本帝国憲法」第1条「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之レヲ統治ス」、第2条は皇位継承で条文省略、第3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」となった。そして、1890年10月30日、教育勅語が公表された。


 この憲法に基づき、1900年(明治33年)、内務省神社局が新設され、「国家によって管轄された非宗教としての神社神道」となった。


 独自の神道を布教する団体は、「教派神道」となった。復古神道系(神道本局→神道大教、神理教、出雲大社教など)、山岳信仰系(富士信仰の扶桑教と実行教、御嶽信仰の御嶽教)、儒教系(神道大成教、神道修成派)、禊系(禊教、神習教)、純教祖系(黒住教、金光教、天理教、大本)である。


 神道事務局に結集していた神社は比較的大きな神社であった。あれこれの末、1886年(明治19年)に神道本局に組織改編し、教派神道のひとつになった。その後、神道大教に改名した。


 一般的に、「大本」を除いて、「神道13派」と言われる。


 しかし、国家神道でも教派神道でもない、大小の神社が多くあった。要するに、「非宗教なのか宗教なのか」は訳のわからない神社が多数あった。仏教(浄土真宗)、キリスト教からは、神社は宗教色が濃厚だから徹底的の宗教色を排除し、非宗教の記念碑施設にすべきだと主張された。他方、神社からは「国家の公の宗教」とすべきだと主張された。この混沌は終戦(1945年)まで続いた。


(9)千家尊福のその後


 1881年(明治14年)に祭神論争は、出雲派の敗退で終結した。


 1882年(明治15年)、千家尊福は、出雲大社の宮司を辞職して、出雲大社教(=神道大社教)をつくり、初代管長として布教活動に努める。やはり、「伊勢の下につきたくない」「伊勢とは違う」の思い強固だった。そして、人々に向かって、それを布教する重要性を認識していたのである。出雲大社は、「国家神道(神社神道)の出雲大社」と「教派神道の出雲大社教」の二重構造になった。


 1888年、伊藤博文の推挙で元老院議官となる。元老院は帝国憲法以前の立法機関である。同時に、神道大社教の管長を辞職する。何が、彼をそうさせたのか。思想的転向か、政治的妥協か。ともかくも、千家尊福は、政治家の道を歩むことになった。貴族院議員、埼玉県知事、静岡県知事、東京府知事、司法大臣を歴任する。政治家としての千家尊福の実績は、一言で言えば、堅実であった、ということらしい。


 1918年(大正7年)、73歳で逝去。


 なお、文部省唱歌『一月一日』は千家尊福の作詞である(1893年)。


「🎵年の始めの 例(ためし)とて 終りなき世の めでたさを 松竹たてて 門ごとに 祝う今日こそ 楽しけれ🎵」(二番省略)

 

 付け加えねばならないことは、大本(教)のことである。


 大本教は、出口なおと娘婿・出口王仁三郎が興した神道系新宗教である。「神道系」と表現するよりは「出雲系」と言ったほうが、理解しやすいと思う。


 大本教の神は国常立尊である。「造化三神」の次に「神代七代」があり、その初代が国常立尊であり、7代目がイザナギ・イザナミである。


 大本教は、スサノウを天照大神の上に置いた。大国主とすると、祭神論争の再現になってしまうので、スサノウと大国主を一体化したものと推測します。


 しかし、政府は「天照大神→天皇」が絶対であるから、1921年(大正10年)、大本教を弾圧した(第1次弾圧)。千家尊福の死後3年目である。もし、彼が生きていたら、何と思ったか……。


 大本教は第1次弾圧にもかかわらず信者が100万人を超えた。しかも、大卒の高学歴者が3割を占めた。危機感を持った政府は、1935年(昭和10年)の第2次弾圧を決行した。昭和最大の大弾圧で、検挙者約1000人、拷問死が16人である。


 かくして、「スサノウ・大国主が天照大神よりも偉い」は、葬られた。


「天照大神よりも大国主が偉い」とする思想は、果たして復活するか?


 2014年(平成26年)、第84代出雲国造・千家尊祐(せんげ・たかまさ、1943~)の長男・千家国麿(1973~)は、高円宮憲仁親王(1954~2002)の次女・典子女王(1988~)と結婚した。「天照大神と大国主」思想と、なんらかの関係があるのだろうか?


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太田哲二(おおたてつじ

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を10期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。『「世帯分離」で家計を守る』(中央経済社)、『住民税非課税制度活用術』(緑風出版)など著書多数。最新刊『やっとわかった!「年金+給与」の賢いもらい方』(中央経済社)が好評発売中。