(3)天台座主


 いつの頃とは言えないが、なんとなく平安時代にあっては、貴族の世界では子に男が多い場合は、嫡嗣以外の何人かは有力寺院で出家することが当たり前となっていた。現代では、出家は人生の大事件であるが、当時は、「宮中での出世コース」と「大寺院での出世コース」が並立していた、ということです。


 13歳で出家した慈円の場合もそうである。高尚な理由を考えれば、慈円は2歳で母を亡くし、10歳で父を亡くし、孤独感・無常観が強かった。あるいは、当時は、浄土思想、末法思想が大流行していた。そんなことも理由に違いないが、基本的には、子沢山の貴族は、何人かは出家させた、ということである。そして、寺院内での修学でまあまあの成績であれば出世した。摂関家の慈円は比叡山での「出世コース」を保証されていた。


 慈円は、かなり成績優秀であったに違いない。成績だけでなく、仏教への熱意も強固であった。それは、22歳の時、難行苦行の千日入堂を始めたことでわかる。「当時の千日入堂」と「現在の千日回峰行」は、内容が相当異なるが、常人では成し得ない難行苦行であることには間違いない。しかも、当時の比叡山は、紛争・乱闘が日常茶飯事で修学しにくい環境であった。いわんや、千日入堂はすこぶる艱難辛苦である。慈円の仏教への熱意・決意はトップクラスと誰もが認めた。


 慈円は、千日入堂を終えた直後は、完全な隠遁を思い描いたようだが、仏教興隆による天下泰平への熱意が強く、隠遁は排除した。また、当時は政教分離ではなく、世俗権力と宗教界は密接に絡んでいた。

 

 政局は、天皇、院、実力女院・女房、摂関家(分裂含み)、武家(分裂含み)の混沌状況である。慈円の同母兄の兼実(かねざね、1149~1207)は、右大臣であったが、政局については傍観者的立場であった。内心は、政局安定のために何をなすべきか熟慮はしていた。でも、その傍観者的立場が幸いした。頼朝は平氏、木曽義仲、源義経と親密な兼実の異母兄達を排斥し、兼実と連携しようとした。頼朝の後援によって、1186年、兼実は摂政に就任した。1186年とは、平氏滅亡の翌年である。兼実は政権の表舞台に登場したのである。さらに、兼実の娘の任子が、後鳥羽天皇(82代、在位1180~1198、生没1180~1239)の中宮となった。


 慈円は、慈円の兄・藤原兼実と仲がよかった。慈円と兼実は、天下の動向について、話題にした。そして、慈円は、任子を通じて後鳥羽天皇とも深い縁となった。


 そして、1192年、慈円(38歳)は天台座主就任に就任した。天台座主とは、天台宗比叡山のトップである。兼実は慈円のため関東の支持を得るという根回しもした。慈円と兼実は、兄弟仲がいいだけでなく、信頼厚き政治的盟友でもあった。


 慈円は、仏教興隆・天下泰平のため、寺院の修復、天台教学の復活などに取り組んだ。慈円の仏教興隆と天下泰平の関係であるが、特定の寺院で祈祷すれば天下泰平に繋がるというものである。この時、修復したのは、延暦寺五大堂の1つ無動寺に、ぼろぼろの廃墟になっていた大乗院を再建した。天台教学の復活は、今日的に言えば、教育システムを再構築した、ということだろう。「どんな祈祷か?」は、天台密教の難解用語だらけで、よくわからないので割愛します。

 

 しかし、1196年(建久7年)、慈円(42歳)は、職を辞した。原因は、「建久7年の政変」で、根本的には、九条(藤原)兼実と村上源氏の源通親(みちちか、1149~1202)の権力闘争である。そして、近衛基通が関白に再任された。さらには、中宮任子も宮中から退出させられた。


 慈円の兄・九条兼実の失脚が、慈円の天台座主の辞任に連動したのである。


 人脈がごちゃごちゃしているので、参考まで。藤原摂関家は、この頃、分裂がはっきりしてきた。藤原忠通の多くの子の中で、基実が近衛家となり、兼実が九条家となる。その後の鷹司家、一条家、二条家を合わせて「五摂家」と称せられる。


  基実―基通―家実 ……近衛家、その後、鷹司家を生む

  兼実―良経―道家 ……九条家、その後、一条家、二条家を生む


(4)和歌


 さて中世の一般教養で最高なものは、和歌を詠むことである。そして、慈円の頃は、多作が一般的で、少しの暇があれば歌を詠むこと、さらには、短時間で百首を詠むことも流行していた。慈円の現存している歌は六千首、おそらくは数万は詠んでいたであろう。


 そのなかで、最も有名なのが、小倉百人一首95番の「前大僧正慈円」の歌です。


 おほけなく うき世の民に おほふ哉(かな) わがたつ杣(そま)に すみぞめも袖

(現代語訳)「おほけなく」は、「身分不相応に」の意味。身分不相応ながら、この世の民の上に、おおいかける。私が住む比叡山(杣とは比叡山)に、私の墨染めの衣の袖を。


 この歌は、慈円が天台座主に就任する以前のものです。仏教興隆の熱情が伝わります。


 和歌に関して言えば、鎌倉初期の和歌は、何と言っても『新古今和歌集』です。後鳥羽天皇は和歌にとても関心を持っていた。譲位して、後鳥羽上皇となるや、勅撰集の大々的な編纂が命じられた。上皇の和歌の知識・才能は大したもので、自らも編纂に乗り出すほどであった。『新古今和歌集』の編纂者は複数いるが、最も力を発揮したのは、藤原定家(1162~1241)である。『小倉百人一首』の撰者でもある。彼は、和歌の宗家・第一人者と見なされた。


『新古今和歌集』の作家別ランキングは、西行(94首)、慈円(92首)、藤原良経(79首、兼実の子)、藤原俊成(72首)、式子内親王(49首、女流最多)、藤原定家(46首)、藤原家隆(43首)、寂連(35首)、後鳥羽院(33首)となっている。


 このことからもわかるように、慈円は、西行と並ぶ和歌のスター的存在であった。そして、慈円と後鳥羽院との親密な縁が想像できます。


 なお、『新古今和歌集』の編纂時期は、1201~1210年である。ただし、後鳥羽院は承久の乱(1221年)で隠岐に流され、そこで、修正した。これは『隠岐本』と呼ばれている。


(5)九条家のトップに


 慈円は、天台座主を辞任(1196年)してから、表面的には、政局を静観していた。


 1198年、後鳥羽天皇が譲位し、4歳の土御門天皇(83代、在位1198~1210)が即位した。土御門天皇の外祖父は源通親で、自分への権力集中を目指したのである。


 1199年、鎌倉の源頼朝が急死した。


 これによって、源通親の独裁がなされると、源通親も周囲も予想したが、そうはならなかった。後鳥羽院は源通親の単なるイエスマンではなかった。でも、時々、後鳥羽院が逆らうことがあっても、基本的には源通親の時代だった。


 ところが、1202年、源通親が急死した。後鳥羽院制は、一応1198年から開始していたが、源通親の急死によって、後鳥羽院制が本格化する。承久の乱(1221年)までの約18年間は、いわば「後鳥羽院政の時代」となったのである。


 慈円にとっては、後鳥羽院は、かつては任子の縁で、そして、院になってからは和歌を通じて、とても親密である。


 1202年、兼実の子藤原(九条)良経は、摂政となった。これは和歌の縁というよりは、後鳥羽院が九条家と近江家のバランスを考えたからであろう。近江家の基通は関白になっていた。


 ところが、1206年、良経が逝去する。そんなことで、九条家は、幼児、10代の若年者ばかりになってしまい、自然に、慈円は九条家のトップになった。むろん、後鳥羽院と極めて親密というバックがあるからである。後鳥羽院の歌会には慈円の姿が必ずあった。慈円と後鳥羽院の交流は歌だけでなく、心の交流のレベルにまでなっていた。


 そんなことで、慈円は、天台座首、2回目(1201年)、3回目(1212年)、4回目(1213年)に就任した。後鳥羽院の意向で、辞任しても、「またヤレ」ということのようだ。また、1203年には大僧正に任じられた。大僧正とは、天皇が任じる僧位の最高位で、辞任以後は「前大僧正」と呼ばれた。


「後鳥羽院政の時代」は、慈円にとって、もっとも輝いた時代であった。天下泰平のため頻繁に祈願し、そして、承久の変(1221年)の1年前までは、京は珍しく平和であった。慈円は自分の祈願の成果と思った。